明治から大正時代にかけて大活躍した歌人「与謝野晶子(よさのあきこ)」の子孫についてお話します。
晶子は有名な「君死にたまふことなかれ」などの和歌を作ったことで知られていますが、なんと13人もの子どもを育てながら作品を書き続けたすごい女性なんです。
では、その子どもたちはどんな人生を送り、今どんな子孫がいるのでしょうか?じっくり見ていきましょう!
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与謝野晶子の子孫とは?子供の人数と現在の末裔
与謝野晶子にはたくさんの子どもがいました。そしてその中には、のちに政治家になった子孫もいます。ここでは、晶子の子どもたちや、現在に続く家系についてわかりやすく紹介します。
与謝野晶子の子孫は何人?子供は合計13人
与謝野晶子は、夫の与謝野鉄幹(てっかん)とのあいだに13人の子どもをもうけました。そのうち1人は生後まもなく亡くなり、もう1人は死産だったため、生きて成長したのは11人です。
明治時代は医療が今ほど発達していなかったため、出産はとても命がけでした。それでも晶子は仕事と子育てを両立しながら、歌集を発表し続けたのです。まさにスーパーお母さんですね!
与謝野晶子の子供の名前!アウギュストやエレンヌなど
晶子の子どもたちの名前は、とてもユニークなものが多くあります。
たとえば、フランスでできた子どもには「アウギュスト」や「エレンヌ」という名前がつけられました。これは、晶子と鉄幹がヨーロッパ旅行をしていたときに出会った人や芸術家の名前からとったそうです。
また、双子の娘には森鴎外(もりおうがい)が名前をつけたというエピソードもあります。昔も今も、名前には家族の思いが込められているのですね。
次男・秀とその息子・与謝野馨が政治家として活躍
晶子の次男である与謝野秀(しげる)さんは、外交官として世界で活躍しました。ヨーロッパ各国の大使をつとめ、戦後の日本を支えた立派な人物です。
そしてその息子、つまり晶子の孫にあたるのが政治家の与謝野馨(かおる)さんです。財務大臣や内閣官房長官をつとめ、日本の政治に大きな影響を与えました。
文芸の家系から政治の家系へと、与謝野家は広がっていったのですね。
孫・曾孫・ひ孫は何をしている?子孫の現在の様子
与謝野馨さんには子どもがいますが、政治の世界には進んでいないようです。
また、晶子のひ孫やその先の世代については、一般にはあまり情報が出ていません。ただし、与謝野家の子孫がメディアに登場することもあり、今も文化や社会に関わる活動をしている人がいるようです。
公にはされていないだけで、きっと多方面で活躍していることでしょう。
与謝野家の家系図を簡単に紹介!夫・鉄幹から子孫まで
与謝野家の家系をまとめてみましょう。
夫・鉄幹と晶子から始まり、次男の秀、その子・与謝野馨さんへと続いていきます。鉄幹と晶子のあいだには11人の子どもがいて、それぞれが医師・外交官・教育者などとして立派に成長しました。
家系図を見ると、与謝野家が芸術だけでなく、社会のいろいろな分野に影響を与えていることがよくわかります。
与謝野晶子の子孫の後に:子育てや家庭生活
ここからは、与謝野晶子がどんなふうに子育てをしていたのか、また彼女の考え方や生き方が子孫にどう影響しているのかを見ていきます。与謝野晶子は、ただの「文学の人」ではなく、家庭を支え、社会に問いかける力強い女性だったのです。
ワンオペ育児だった?13人の子育てと文学活動の両立
与謝野晶子は、家事や育児をほとんど1人でこなしながら、歌集や翻訳、評論などの執筆活動も行っていました。当時は「ワンオペ育児」という言葉はありませんでしたが、まさにそれに近い状態だったといえます。
夫の鉄幹は文筆活動には熱心でしたが、家庭を支えるには頼りなかったようです。晶子は、弟子や家政婦、親族の助けを受けながらも、毎日の生活をやりくりし、多くの子どもを育て上げました。
その中には、まだ赤ちゃんの子を預けて一人でヨーロッパに渡ったエピソードもあります。
子供を育てながら詠んだ和歌
晶子は、育児をしながら感じたことをそのまま和歌にして詠みました。
たとえば「腹立ちて 炭撒きちらす三つの子を 為すにまかせて鶯をきく」という歌では、3歳の子が部屋を散らかしても怒らずに、ただその様子を見守る様子が描かれています。子育てのたいへんさと、それでも見せる母の優しさが伝わってきます。
また、衣服を縫いながら子どもたちの寝顔を見つめる歌なども残されており、どれも母としての実感がこもった作品です。
フランス旅行と命名秘話!アウギュストとエレンヌの由来
晶子は1912年、シベリア鉄道でフランスのパリへと旅立ちました。
そこで印象に残ったのが、真っ赤に咲く「コクリコ(ひなげし)」の花と、有名な彫刻家ロダンとの出会いでした。この体験から生まれた四男には「アウギュスト(ロダンの名前から)」、五女には「エレンヌ(宿で出会った少女の名から)」と名付けられました。
当時の日本では珍しい西洋風の名前で、これも晶子らしい自由で国際的な感覚のあらわれです。のちに、名前は日本風に改名されましたが、その背景には両親の思い出がしっかり込められていたのです。
思想は子孫にも影響?「母性偏重を排す」に見る女性観
晶子は、ただ子育てをしているだけではなく、母であることについて深く考えていました。「母性だけが絶対ではない」という考え方を持ち、当時の女性の生き方に新しい風を吹き込んだのです。
1916年には「母性偏重を排す」という文章を発表し、女性が母や妻だけでなく、一人の人間として生きる大切さを訴えました。この思想は、のちの女性運動にも影響を与え、子孫にもきっと何かの形で伝わっているのではないでしょうか。
子孫に受け継がれる志
与謝野晶子の人生から学べることはとても多いです。
13人の子どもを育てながら、文学や社会に向き合い続けたその姿は、現代の私たちにとっても希望となります。晶子が遺した「私は母性ばかりで生きていない」という言葉は、すべての人に「自分らしく生きていいんだよ」と教えてくれているようです。
そんな晶子の志は、政治家になった孫・与謝野馨さんや、現在の子孫たちにも、形は違ってもきっと受け継がれているのです。
総括:与謝野晶子の子孫の現在まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 与謝野晶子は13人の子どもをもうけ、そのうち11人が成長した。
- 子どもたちには「アウギュスト」「エレンヌ」などユニークな名前もあり、森鴎外が命名した双子もいた。
- 次男の与謝野秀は外交官として活躍し、その息子・与謝野馨は政治家として内閣官房長官などを歴任した。
- 与謝野家の子孫の詳細は非公開だが、現在も文化や社会に関わる活動をしている可能性がある。
- 晶子は家庭を支えながら文学活動を行い、事実上のワンオペ育児をしていた。
- 子育ての様子を詠んだ和歌には、母としての愛情と強さが表れている。
- フランス旅行の体験をもとに子どもに西洋風の名前をつけたエピソードも。
- 晶子は「母性だけが絶対ではない」と訴え、女性の多様な生き方を支持した。
- 晶子の生き方と思想は、子孫にも形を変えて受け継がれていると考えられる。
