歴史の授業で「アヘン戦争」という言葉を聞いたことはありますか?
「なんとなく知っているけど、詳しくは分からない…」「そもそもアヘンって何?」と思っている人も多いかもしれませんね。実はこの戦争、日本にも影響を与えたとても大事な出来事なんです。
そこで、今回は「アヘン戦争ってどんな戦争?」という疑問に答えながら、きっかけやどっちが勝ったのかを分かりやすく解説します!
塾長がポイントを押さえて説明するので、一緒に学んでいきましょう!
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アヘン戦争を分かりやすく解説!戦争の原因や背景
アヘン戦争は、19世紀の中国(清)とイギリスの間で起こった戦争です。「アヘン」と呼ばれる麻薬がきっかけとなり、2年間にわたって戦われました。この戦争によって、清はイギリスに大きく負けてしまい、国が弱くなってしまったのです。
では、アヘン戦争が起こるまでの流れを詳しく見ていきましょう。
アヘン戦争とは?いつ・どこで起こった戦争なのか
アヘン戦争は、1840年から1842年にかけて、中国(当時の清)とイギリスの間で戦われた戦争です。戦いの主な場所は、中国の沿岸部でした。
この戦争の原因は、イギリスが清に「アヘン」という麻薬を売りつけ、それを清が禁止しようとしたことです。イギリスは「貿易の自由を守るため」と言いながら軍隊を送り込み、戦争に発展しました。
結果として、イギリスが圧倒的な力を見せつけて勝利し、清は「南京条約」という不平等な条約を結ぶことになりました。これにより、清はイギリスに香港を譲り渡し、さらに自由な貿易を認めさせられたのです。
アヘン戦争のきっかけは「アヘン」と「紅茶」の貿易問題
実は、この戦争の裏には**「紅茶」と「アヘン」の貿易問題**がありました。イギリスでは、当時「紅茶を飲む文化」が大流行していました。しかし、紅茶はほとんどが清(中国)で作られていたため、イギリスは大量の銀を使って清から紅茶を買っていました。
一方、清はイギリスから買いたいものがほとんどなく、貿易が成り立ちません。するとイギリスは「このままでは銀がなくなってしまう」と困ってしまいました。
そこでイギリスが考えたのが、インドで作った「アヘン」を清に売ることでした。清の人々がアヘンを買うことで、イギリスに銀が戻ってくるという仕組みです。しかし、このアヘンはとても危険な薬だったのです…。
アヘンとは?なぜイギリスは清に売り続けたのか
アヘンとは、ケシの実から作られる麻薬の一種です。もともとは鎮痛剤(痛みを和らげる薬)として使われていましたが、使いすぎると強い中毒症状が出てしまいます。
イギリスは、このアヘンをインドで大量に作り、清に密輸しました。そして、清の人々がアヘンを吸うと中毒になり、やめられなくなります。すると、清の人々はさらにアヘンを買うようになり、お金がどんどんイギリスに流れていったのです。
こうして、清の中にはアヘン中毒者が増え、国の財産もどんどん減っていきました。これを見た清の皇帝は「アヘンを絶対に禁止しなければならない!」と考えました。
なぜイギリスは清に戦争を仕掛けたのか?
アヘン中毒の被害が広がる中、清の皇帝は「林則徐(りんそくじょ)」という優れた官僚を任命し、アヘンの取り締まりを強化しました。
林則徐は、清国内にあるアヘンを大量に没収し、すべて海に捨てて処分しました。これにイギリスの商人たちは激怒し、イギリス政府に訴えました。
イギリス政府は「清がイギリスの財産(アヘン)を勝手に処分した!」として、戦争を決定しました。こうして、1840年にイギリスは清に軍隊を送り、アヘン戦争が始まったのです。
アヘン戦争の主要な戦いと戦局の推移
アヘン戦争では、イギリスが圧倒的な軍事力を見せつけました。
- 1840年:イギリス軍が清の広州を攻撃
- 1841年:清が敗北し、イギリスは沿岸都市を次々に制圧
- 1842年:イギリス軍が長江を遡り、清の首都・北京に迫る
- 同年8月:清が降伏し、「南京条約」を締結
清は戦争の経験がほとんどなく、武器も時代遅れでした。イギリス軍は鉄製の蒸気船を使っており、清の木造の船では全く歯が立ちませんでした。また、イギリスの大砲は遠くまで飛び、清の軍隊は簡単に撃退されてしまったのです。
こうして、清はわずか2年で敗北し、イギリスに屈することになりました。
アヘン戦争を分かりやすく:結果とその影響
アヘン戦争が終わったあと、清は大きなダメージを受け、国の力がどんどん弱くなってしまいました。また、この戦争の影響は日本にも広がり、幕末の歴史を動かすきっかけとなりました。
それでは、アヘン戦争の結果とその後の影響について詳しく見ていきましょう!
ヘン戦争の結果は?イギリスの勝利と南京条約の締結
アヘン戦争の結果、イギリスが圧勝し、清は戦争を続ける力を失ってしまいました。そして1842年に「南京条約」が結ばれ、清はイギリスの要求をすべて受け入れざるを得なくなりました。
南京条約の主な内容は以下のとおりです。
- 香港をイギリスに譲る
- これにより、香港は長い間イギリスの支配下に置かれることになりました。(1997年に中国へ返還)
- これにより、香港は長い間イギリスの支配下に置かれることになりました。(1997年に中国へ返還)
- 上海など5つの港を開放
- これまで清は外国との貿易を厳しく制限していましたが、この条約によりイギリスが自由に貿易できるようになりました。
- これまで清は外国との貿易を厳しく制限していましたが、この条約によりイギリスが自由に貿易できるようになりました。
- 莫大な賠償金を支払う
- 清はイギリスに対して銀2100万ドル(現在の価値で数兆円!)という多額の賠償金を支払わなければなりませんでした。
- 清はイギリスに対して銀2100万ドル(現在の価値で数兆円!)という多額の賠償金を支払わなければなりませんでした。
- 関税の決定権を失う
- 貿易でどれだけの税金を取るかは本来その国が決めるものですが、南京条約ではイギリスが関税を決めることができるようになりました。
この南京条約は、清にとって非常に不利な条約でした。これ以降、清はイギリスだけでなくフランスやアメリカ、ロシアなどの西洋諸国の圧力を受けることになり、さらに不平等な条約を結ばされてしまいました。
アヘン戦争が清にもたらした影響
アヘン戦争による敗北は、清の国全体に大きな影響を与えました。
- 欧米諸国に支配される
- 清はアヘン戦争以降、西洋の国々の言いなりになり、独立した国としての力を失っていきました。
- 清はアヘン戦争以降、西洋の国々の言いなりになり、独立した国としての力を失っていきました。
- 国民の不満が爆発し、反乱が起こる
- 南京条約によって、清は莫大な賠償金を支払うために増税を行いました。その結果、農民たちが苦しみ、国に対する不満が高まりました。
- その不満が大きな反乱へとつながり、1851年には「太平天国の乱」という大きな内戦が起こります。
- 経済がさらに悪化
- 貿易の自由化により、西洋諸国が清の市場を独占し、清の商人たちは大きな損害を受けました。
- 貿易の自由化により、西洋諸国が清の市場を独占し、清の商人たちは大きな損害を受けました。
- アヘンの流通が増加
- 皮肉なことに、戦争が終わっても清のアヘン問題は解決しませんでした。むしろイギリスはアヘンの取引をさらに拡大し、清の人々はますますアヘンに依存するようになってしまいました。
こうした状況が続いた結果、清はどんどん衰退し、やがて20世紀に入ると「辛亥革命(1911年)」によって滅亡してしまうのです。
日本はアヘン戦争をどう見たのか
アヘン戦争のニュースは、日本にも大きな衝撃を与えました。当時の日本は江戸幕府による「鎖国政策」を続けており、外国との関係を制限していました。
しかし、清があっという間にイギリスに敗れたことで、「このままでは日本も同じ目にあうのではないか?」という不安が広がりました。
これをきっかけに、日本では「海防(国の防衛)を強化すべき」という意見が強くなりました。例えば、
- 「異国船打払令」の廃止
- それまで日本は、外国の船が近づいたら問答無用で砲撃する「異国船打払令」を出していました。しかし、アヘン戦争の影響を受けて「薪水給与令(しんすいきゅうよれい)」に変更し、外国船に水や食料を与えるようになりました。
- それまで日本は、外国の船が近づいたら問答無用で砲撃する「異国船打払令」を出していました。しかし、アヘン戦争の影響を受けて「薪水給与令(しんすいきゅうよれい)」に変更し、外国船に水や食料を与えるようになりました。
- 西洋の軍事技術を学ぼうとする動き
- 薩摩藩や長州藩などの一部の大名は、西洋の軍事技術を学び始めました。これが後の「明治維新」につながっていきます。
- 薩摩藩や長州藩などの一部の大名は、西洋の軍事技術を学び始めました。これが後の「明治維新」につながっていきます。
- 黒船来航への準備
- 1853年、ペリー提督率いるアメリカの黒船が日本にやってきます。アヘン戦争を見た日本は「西洋の国々とは戦えない」と考え、開国へと舵を切ることになりました。
第二次アヘン戦争(アロー戦争)とは?清のさらなる苦境
アヘン戦争の影響で弱体化した清に対し、イギリスとフランスはさらに追い討ちをかけました。それが、1856年から1860年にかけて起こった「第二次アヘン戦争(アロー戦争)」です。
この戦争では、清はさらに不利な条件で「北京条約」を結ばされ、外国勢力にもっと深く支配されるようになりました。これにより、
- 北京が占領される
- アヘン貿易が合法化される
- 外国人の自由な移動が認められる
- さらに多くの港が開放される
などの条件を受け入れざるを得なくなりました。
こうして清は、ますます外国の支配を受けることになり、完全に「弱い国」になってしまったのです。
アヘン戦争の影響は現代にも残っている?香港問題と日中関係
アヘン戦争の結果生まれた最大の問題の一つが「香港問題」です。
✔ 香港は1842年の南京条約でイギリス領となり、1997年に中国へ返還されました。
✔ しかし、長年イギリスの文化が根付いた香港と、中国本土の考え方には大きな違いがあります。
✔ そのため、現在でも香港では中国政府に対する抗議運動が続いています。
また、アヘン戦争を通じて清が西洋諸国に支配されたことは、中国の人々にとって「屈辱の歴史」として今も記憶されています。そのため、現在の日中関係にも影響を与えていると言われています。
総括:アヘン戦争を分かりやすく解説まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
アヘン戦争の概要
- 発生時期:1840年~1842年
- 戦った国:清(中国) vs. イギリス
- 戦争の原因:イギリスが清にアヘン(麻薬)を密輸し、清が禁止しようとしたため
- 結果:イギリスの勝利、清は南京条約を結ばされる
アヘン戦争の背景と原因
- イギリスは紅茶を大量に輸入し、銀が減少 → 貿易赤字の解消のため、アヘンを清に売る
- 清ではアヘン中毒者が急増し、経済・社会が悪化
- 清の官僚・林則徐がアヘンの取り締まりを強化し、大量のアヘンを廃棄
- イギリスが「財産(アヘン)を奪われた」として戦争を決定
戦争の流れ
- 1840年:イギリス軍が広州を攻撃し、戦争開始
- 1841年:清が沿岸都市を次々に失う
- 1842年:イギリス軍が長江を進み、清の首都・北京に迫る
- 1842年8月:清が降伏し、「南京条約」を締結
南京条約(1842年)の内容
- 香港をイギリスに譲る(1997年に中国に返還)
- 上海など5つの港を開放し、自由貿易を認める
- イギリスに多額の賠償金(銀2100万ドル)を支払う
- 関税の決定権をイギリスに奪われる
- 清にとって極めて不利な「不平等条約」だった
アヘン戦争の影響(清と日本への影響)
✅ 清の影響
- 欧米諸国の支配が強まり、半植民地化が進む
- 増税による国民の不満が爆発し、「太平天国の乱」などの内乱が発生
- 経済が悪化し、清の衰退が加速
- さらに多くの不平等条約を結ばされ、国力が低下
✅ 日本の影響
- 「清ですら負けるなら、日本も危ない」と危機感を持つ
- 「異国船打払令」を廃止し、「薪水給与令」を導入(外国船に水・食料を提供)
- 西洋の軍事技術を学ぶ動きが活発化(薩摩藩・長州藩など)
- 1853年の「黒船来航」で、日本は開国を決断
第二次アヘン戦争(アロー戦争)の発生
- 1856年~1860年:イギリス・フランス vs. 清
- 清はさらに不利な「北京条約」を結ばされ、外国の支配が深まる
- アヘン貿易が正式に認められ、経済がさらに混乱
現代に残るアヘン戦争の影響
- 香港問題:1997年に中国に返還されたが、イギリスの影響が色濃く残る
- 日中関係への影響:「アヘン戦争」は中国にとって「屈辱の歴史」として記憶されている