みなさんは「聖徳太子」って聞いたことがありますよね? 歴史の教科書にも登場して、日本の昔の政治を作った偉い人として知られています。
でも最近、「聖徳太子って本当にいたの?」と疑う人が増えてきました。
「十七条憲法を作ったのも本当?」「法隆寺を建てたのは誰?」など、昔から当たり前だと思われていたことが、今の研究では違うかもしれないと言われているのです。
今回は、「聖徳太子は実在しなかった」という説について、分かりやすく解説していきます!歴史の真実を知るために、一緒に考えていきましょう!
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聖徳太子は実在しなかった?いない派の根拠を解説
「聖徳太子は実在しなかった!」と言われるのはどうしてでしょうか? それは、彼の偉業だと言われていることの証拠がほとんど残っていないからです。
ここでは、「いない派」がどんな根拠をもとにそう考えているのか、詳しく説明します。
聖徳太子はいない?その説が広まった背景
実は、「聖徳太子はいなかった」と言われるようになったのは、最近のことではありません。もともと歴史学者の間では、「聖徳太子の記録は後世に作られたものかもしれない」と言われていたのです。
特に1990年代以降、大山誠一(おおやませいいち)という学者が「聖徳太子の業績はほとんど後世の創作だ」と主張したことが、大きな話題になりました。
その影響で、学校の教科書も「聖徳太子(厩戸王)」と表記を変えるようになりました。「聖徳太子」という名前は後から作られたもので、本当の名前は「厩戸王(うまやどのおう)」だったのです。
そして、最近では「聖徳太子の偉業」とされる十七条憲法や冠位十二階も、彼が作ったのではないかもしれない、という考えが広まってきています。つまり、実在はしていたけれど、伝説のように語られている「聖徳太子」は架空の人物かもしれないのです。
歴史的な記録がない?「聖徳太子」の名が登場するのは100年後
歴史の研究では、「その時代に書かれた記録があるかどうか」がとても重要です。でも、聖徳太子の場合、「彼のことを書いた記録」がなんと100年も後になってから出てくるのです。
例えば、日本最古の歴史書である『日本書紀』が完成したのは720年。聖徳太子が亡くなったのは622年なので、100年近くたってから初めて登場したことになります。しかも、それより前の歴史書である『古事記』には、聖徳太子の名前が出てこないのです。
これはおかしいと思いませんか?
普通、歴史上の重要な人物なら、彼が生きていた時代に何らかの記録があるはずです。なのに、聖徳太子の記録がないということは、後世の人が作った「伝説の人物」だった可能性があるのです。
十七条憲法は本当に聖徳太子が制定したのか?
「聖徳太子が十七条憲法を作った」と習った人も多いでしょう。でも、その十七条憲法が本当に604年に作られたものなのか、疑問の声があがっています。
まず、憲法の内容を見ると、中国の儒教(じゅきょう)や仏教の考え方がたくさん入っています。ところが、当時の日本では、こうした考え方はまだあまり浸透していなかったのです。また、十七条憲法の中には、当時はまだ使われていない「国司(こくし)」という言葉も出てきます。
つまり、十七条憲法が作られたのは、604年ではなく、もっと後の時代だった可能性が高いのです。「聖徳太子が作った」とされているけれど、実際には別の人たちが後から作ったのではないか、と考えられています。
遣隋使は聖徳太子の功績ではない?
聖徳太子が遣隋使(けんずいし)を派遣して、中国(隋)と交流した、というのも有名な話ですね。でも、実はこの記録にもおかしな点があるのです。
中国の歴史書『隋書』には、日本から使者が送られてきたことが書かれています。しかし、そこには「聖徳太子」の名前が一切出てこないのです。もし、遣隋使を派遣したのが聖徳太子だったなら、中国の記録に名前が残っていてもおかしくないですよね?
では、誰が遣隋使を派遣したのでしょうか? それは、当時の実権を握っていた蘇我馬子(そがのうまこ)だったのではないか、と考えられています。つまり、「遣隋使を派遣したのは聖徳太子」という話も、後の時代になってから作られた可能性が高いのです。
法隆寺の創建者は誰?聖徳太子が建立したというのは後付け?
「法隆寺を建てたのは聖徳太子」と教科書で習いましたね。でも、本当にそうでしょうか? 実は法隆寺には、気になる事実がいくつかあるのです。
まず、法隆寺は607年に建てられたとされていますが、その後、670年に火事で焼けてしまいました。現在の法隆寺はその後に再建されたものです。つまり、聖徳太子が作ったとされる建物は、もう残っていないのです。
また、法隆寺が本当に607年に建てられたのかどうかを証明する確かな記録もありません。さらに、最近の研究では「法隆寺はもっと後の時代に建てられた可能性がある」と言われています。もしそうなら、「聖徳太子が法隆寺を建てた」という話も、後世に作られた伝説だったのかもしれません。
聖徳太子は実在したのか?いない派への反論と最新の研究
ここまで「聖徳太子はいなかった」という説を紹介してきました。でも、一方で「いや、聖徳太子は確かにいた!」という学者もたくさんいます。
そこで、今度は「実在した」と考えられる理由や、いない派への反論を見ていきましょう!
「厩戸王」は実在した?本名から考える
まず大切なのは、「聖徳太子」という名前は後の時代につけられたものですが、「厩戸王(うまやどのおう)」という人物は確かに実在していたということです。
『日本書紀』には、「厩戸王は推古天皇の時代に摂政として政治を行った」と書かれています。また、『法隆寺伽藍縁起並流記資財帳(ほうりゅうじがらんえんぎならびにるきしざいちょう)』という歴史書にも、厩戸王の名が登場します。これは法隆寺に関する記録で、奈良時代(8世紀)に書かれたものです。
つまり、「聖徳太子」は後の時代に作られた名前かもしれませんが、「厩戸王」という人物は実在していたと考えられるのです。
聖徳太子の業績は「全てが作り話」ではない?
「聖徳太子がいなかった」という説の根拠は、「彼が成し遂げたとされることの証拠が少ないから」でした。でも、だからといって「すべて作り話」だと言い切れるでしょうか?
例えば、冠位十二階(603年)や十七条憲法(604年)は、本当に当時の日本で作られたものです。たしかに、「聖徳太子が本当に作ったのか?」という疑問はありますが、「その時代に何もなかった」とは言えません。
また、中国の史書『隋書』にも「倭国(日本)の支配者が仏教を大切にしていた」と書かれています。これが聖徳太子のことを指している可能性もあります。「聖徳太子が実際にどこまで関わっていたか」は分かりませんが、「当時の日本に仏教を広めようとした人がいた」ことは間違いないのです。
名前がないのはおかしい?当時の記録に残らなかった理由
「聖徳太子がいたなら、もっと記録が残っていてもいいはず」という意見もあります。でも、これは当時の歴史の記録方法を考えると、不思議なことではないのです。
日本の歴史書が本格的に作られるようになったのは、奈良時代以降のこと。それまでは、文字を使って歴史を記録する文化があまり発達していませんでした。つまり、当時の人々は「大事な出来事」を記録しても、人物の詳細までは書かなかった可能性があります。
また、政治的な理由で「聖徳太子」の名前が消されたという説もあります。彼の時代は蘇我氏が権力を持っていたため、藤原氏が台頭したときに、聖徳太子の功績が意図的に消されてしまったのかもしれません。
「法隆寺の記録がある」=聖徳太子は実在?
法隆寺には、聖徳太子に関する多くの伝承が残っています。たとえば、法隆寺の「夢殿(ゆめどの)」には、「聖徳太子がこもって修行をした」という話が伝わっています。
また、法隆寺には聖徳太子の直筆とされる『三経義疏(さんぎょうぎしょ)』という仏教の注釈書があります。これが本当に聖徳太子が書いたものなら、「彼は仏教に深く関わっていた」という証拠になります。
さらに、法隆寺の建立を記録した『法隆寺資財帳』には、「厩戸皇子(聖徳太子)」という名前が出てきます。この記録が信頼できるものであれば、「聖徳太子は実在していた」と考えることもできるのです。
聖徳太子は「完全な架空」ではない
ここまで、「聖徳太子がいなかった」とする説と、「いや、彼は実在していた」という反論を紹介してきました。どちらの意見も、一理ありますね。
結論として、次のようにまとめられます。
✅ 「聖徳太子」という名前は後世に作られたものだが「厩戸王」は実在
✅ 「聖徳太子の偉業」とされることは、彼一人の功績ではなく、後の時代に作られた可能性がある
✅ 彼の時代に仏教を広めたり、新しい制度を作ろうとした人がいたことは間違いない
つまり、「聖徳太子」は実在したけれど、伝説のような人物ではなく、もっと普通の政治家だったのかもしれません。歴史は研究が進むと、新しい事実が分かってきます。これからも、「聖徳太子の真実」は変わっていくかもしれませんね!
総括:聖徳太子が実在しなかったのかどうかまとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
✅ 「聖徳太子はいなかった」と言われる理由
- 聖徳太子の業績とされるものに確かな証拠が少ない
- 彼の記録が残るのは、死後100年近く経った『日本書紀』(720年)から
- 『古事記』(712年)には聖徳太子の名前が登場しない
- 十七条憲法には、当時使われていなかった言葉が含まれており、後世の創作の可能性がある
- 遣隋使を派遣した記録に「聖徳太子」の名前が出てこない(実際に派遣したのは蘇我馬子か?)
- 法隆寺も焼失後に再建されたものであり、聖徳太子が創建した証拠がない
✅ 「聖徳太子は実在した」という反論
- 本名「厩戸王(うまやどのおう)」は実在していたとされる
- 『日本書紀』や『法隆寺資財帳』に「厩戸王」の記録が残っている
- 冠位十二階や十七条憲法が当時の日本で作られたのは事実
- 『隋書』には「倭国の支配者が仏教を広めていた」との記録があり、聖徳太子を指している可能性がある
- 政治的な理由で聖徳太子の記録が抹消された可能性がある(藤原氏の台頭など)
✅ 結論
- 「聖徳太子」は後世に作られた理想化された人物像の可能性が高い
- ただし、「厩戸王」という実在した人物を元にしたと考えられる
- 彼の業績とされるものは、当時の政治体制や仏教の普及と密接に関わっているが、後世の脚色が多く含まれている
- 「完全な架空の人物」というよりも、「伝説化された歴史上の人物」と考えるのが妥当
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