こんにちは、塾長です!
今日は「足利尊氏って何をした人?」という疑問にお答えします。歴史の教科書では「室町幕府を開いた人」として出てくる名前ですが、実際にどんな人物で、どんな生涯を送ったのでしょうか?
さらに、性格やちょっと変わったエピソードについても塾長が分かりやすく解説します!
一緒に足利尊氏の人間味あふれる生涯を探っていきましょう。
足利尊氏は何した人?業績やどんな人物かを解説

足利尊氏は、鎌倉幕府を倒し、新しい幕府を作った人です。
室町時代という歴史の大きな節目を作った人物ですが、その生涯は波乱万丈。特に南北朝時代を引き起こしたことは有名です。
では、その生涯を順番に見ていきましょう!
足利尊氏は「室町幕府を開いた人」
足利尊氏が何をした人なのか?
その答えは、まず「室町幕府を開いた人」というところから始まります。鎌倉幕府が約150年間続いた後、日本は大きな変化の時代を迎えます。その中心にいたのが足利尊氏です。
尊氏は、鎌倉幕府に仕える武士の家に生まれましたが、後醍醐天皇と協力して鎌倉幕府を倒します。そして、武士たちをまとめる新しい政治の仕組みを作り出しました。
この新しい仕組みが「室町幕府」です。彼が将軍として、武士たちをリードしていったのです。
後醍醐天皇との関係と「建武の新政」
鎌倉幕府を倒した後、足利尊氏は後醍醐天皇と協力して政治を始めました。
これを「建武の新政」と言います。ですが、この新しい政治は武士たちにとって少し問題がありました。貴族を優遇する一方で、武士たちが求めていた地位や権利はあまり守られなかったのです。
この状況に不満を持った尊氏は、後醍醐天皇と対立します。そして、武士たちを味方につけて反乱を起こし、ついには後醍醐天皇を京都から追い出してしまいます。尊氏のこうした行動が、新しい幕府を作るきっかけになったのです。
南北朝時代を生み出した「分裂の時代」
後醍醐天皇が京都から追い出された後、日本は「南朝」と「北朝」という2つの朝廷に分かれる時代に突入します。この時代を「南北朝時代」と呼びます。南朝は後醍醐天皇が吉野で作り、北朝は足利尊氏が京都で作ったものでした。
この分裂は約60年も続きましたが、尊氏の活躍によって武士の力が強まる中で、最終的に北朝が勝利します。この南北朝時代は、日本の歴史の中でも複雑な時期として知られています。
足利尊氏と「建武式目」の発布
尊氏が将軍になった後、「建武式目」という法律を作りました。
これは武士たちの不満を解消し、社会を安定させるためのルールでした。この法律には、武士たちが守られるようにするための規定が盛り込まれており、当時の人々にとっては新しい時代の象徴だったと言えます。
尊氏が武士たちの意見を大切にした結果、室町幕府は次第に安定していきました。「建武式目」は短い期間しか使われませんでしたが、武士が政治の中心になる時代を象徴するものでした。
足利尊氏の晩年と「後継者問題」
尊氏の人生は最後まで平穏ではありませんでした。
特に弟の足利直義(ただよし)や重臣の高師直(こうのもろなお)との争いが激化し、国内は混乱に陥ります。この争いは「観応の擾乱(じょうらん)」と呼ばれ、幕府の存続に大きな影響を与えました。
尊氏の晩年はこうした内部対立の中で過ぎていきましたが、彼の築いた室町幕府は後の時代へと引き継がれていきます。幕府の基礎を作った彼の功績は、日本史において非常に大きなものです。
足利尊氏は何した人?性格やエピソードで読み解く人物像

尊氏がどんな人だったのか、その性格やエピソードを知ると、より身近に感じられます。彼の性格は「優柔不断」や「人間味がある」といった言葉で表されることが多いです。
それでは、彼の人物像についてさらに深く見ていきましょう。
足利尊氏の性格は「優柔不断で人間味がある」
歴史書や「太平記」という物語によると、尊氏はとても人間らしい性格だったと言われています。戦いでは勇猛でしたが、大事な場面で迷ったり、周りの意見に流されたりすることも多かったのです。
しかし、そうした「迷い」があったからこそ、彼は人々の共感を得られたのかもしれません。特に弟の直義を深く信頼しており、その絆が彼のリーダーシップを支えていました。
足利尊氏の「弟・直義との絆」とその崩壊
足利尊氏にとって、弟・直義(ただよし)は特別な存在でした。
二人は若い頃から協力し合い、室町幕府を築くために力を尽くしました。尊氏が政治よりも戦いを好む性格だったのに対し、直義は冷静で堅実な性格だったため、二人の役割分担は幕府の初期運営において重要でした。
しかし、二人の関係は次第に悪化します。
重臣・高師直(こうのもろなお)との対立や権力の奪い合いが激化し、ついには「観応の擾乱(じょうらん)」と呼ばれる内乱に発展しました。最終的に直義は失脚し、幽閉された後に謎の死を遂げます。
この事件は尊氏にとっても大きな心の傷となったと言われています。
尊氏の「優しさ」が生んだ逸話と評価
歴史書によると、尊氏は「敵を許す」寛大な性格を持っていたと言われます。
夢窓疎石(むそうそせき)という僧侶が記録した内容では、尊氏は多くの敵を許し、部下にも惜しみなく財宝を分け与えたとされています。そのため、彼の周囲には自然と多くの人々が集まりました。
一方で、この優しさや寛大さが「優柔不断」とも受け取られました。歴史の重要な場面で決断を迷ったり、行動が遅れたりすることもあり、後世では「優しすぎるリーダー」と評されることもあります。
戦いの場で見せた勇猛さ
優柔不断な面がある一方で、尊氏は戦場では非常に勇敢でした。特に「湊川の戦い」では、南朝の名将・楠木正成(くすのきまさしげ)との戦いで勝利を収めています。この戦いで尊氏は自ら先陣を切り、武士たちを鼓舞しました。
戦いにおける彼の強さは、部下や敵からも一目置かれるものでした。
しかし、この勝利の裏で正成の死が日本中に衝撃を与えたため、尊氏は「正義の反逆者」として見られることもありました。
尊氏を支えた「夢窓疎石」と禅宗の影響
足利尊氏は、夢窓疎石という僧侶を深く信頼していました。
夢窓疎石は、尊氏の精神的な支えであり、彼の人生において重要な役割を果たした人物です。尊氏は彼の勧めに従い、全国各地に「安国寺(あんこくじ)」を建立しました。これにより、戦乱で荒廃した社会を立て直すための基盤が作られました。
夢窓疎石の教えは、尊氏が抱えていた精神的な不安を和らげる助けになりました。また、彼の影響を受けて、禅宗が武士の間で広まるきっかけにもなりました。
足利尊氏の死とその遺産
足利尊氏は1358年に京都で亡くなりました。
彼の死後、室町幕府は後継者に引き継がれ、約240年間続くことになります。尊氏が築いた武家政権の基盤は、その後の日本の歴史に大きな影響を与えました。
ただし、尊氏の死後も南北朝の対立や内部争いが続きました。
そのため、尊氏の業績は評価される一方で、批判の的になることも少なくありませんでした。それでも、彼の寛大さやカリスマ性は多くの人々に記憶されています。
総括:足利尊氏は何した人?どんな人?のまとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 足利尊氏の業績
- 鎌倉幕府を倒し、新たに「室町幕府」を開いた。
- 南北朝時代を引き起こし、武士中心の政治体制を確立。
- 「建武式目」という法律を作り、武士の地位を安定させた。
- 後醍醐天皇との関係
- 初めは協力して「建武の新政」を行ったが、武士への配慮不足により対立。
- 後醍醐天皇を追放し、北朝を中心とした政治を進めた。
- 性格と人間性
- 優柔不断で迷いや葛藤が多かったが、それが人間味として評価されることも。
- 寛大な性格で敵を許し、部下に惜しみなく財宝を与えた。
- 戦場では勇猛果敢な一面を見せ、部下や敵からも一目置かれる存在だった。
- 弟・直義との絆と対立
- 直義との協力で幕府の基盤を築くも、内紛(観応の擾乱)で関係が崩壊。
- 直義の失脚と死は尊氏にとって大きな心の傷となった。
- 晩年と影響
- 晩年も内部抗争に苦しみつつ、室町幕府を次世代へ引き継ぐ基盤を作った。
- 夢窓疎石との関係を通じて禅宗を広め、文化的影響も与えた。
- 歴史的評価
- 武士の時代を切り開いた偉人である一方、批判も多い。
- 寛大さや人間的な弱さを併せ持つリーダーとして記憶されている。
