「徳川家治」という将軍を知っていますか?江戸幕府の第10代将軍で、約27年間も日本を治めた人物です。でも、「何をした人?」と聞かれると、あまりピンとこないかもしれませんね。

実は、家治の時代は「田沼時代」とも呼ばれ、田沼意次(たぬまおきつぐ)という家臣が政治を動かしていました。でも、「家治はただの飾りだったの?」と聞かれると、それは違います!彼には彼なりの考えがあり、重要な決断もしていました。

今回は、徳川家治が何をした人なのか、どんな性格だったのか、どんなエピソードがあるのかを、分かりやすく解説します。歴史が苦手な人でも、「なるほど!」と思えるようにお話ししていきますよ!

徳川家治は何をした人?政治・政策・実績を解説

徳川家治は、江戸幕府の第10代将軍として1760年から1786年まで政治を行いました。彼の時代は、田沼意次という有名な老中が政治を動かしたため、「田沼時代」とも呼ばれています。でも、家治はただ田沼に任せきりだったわけではなく、重要な決断もしていました。

ここでは、家治が行ったことや、その評価について詳しく見ていきましょう。

徳川家治とは?江戸幕府第10代将軍の基本情報

徳川家治(とくがわ いえはる)は、1737年に生まれ、1760年に23歳で第10代将軍となりました。彼の父は第9代将軍・徳川家重(いえしげ)で、祖父は「享保の改革」で有名な徳川吉宗(よしむね)です。

幼いころから聡明(そうめい)で、祖父の吉宗に可愛がられました。家治が5歳のときには、すでに帝王学(ていおうがく=国を治めるための学問)を学び始め、和歌や剣術、弓術なども習いました。

将軍になった後は、田沼意次を重用し、幕府の財政を立て直すための改革を行いました。しかし、その一方で、天明の大飢饉(てんめいのだいききん)などの大きな災害に見舞われ、対応に苦しんだ時期もありました。

田沼意次の抜擢!経済改革と商業重視の田沼時代

徳川家治が将軍になったとき、日本の経済は苦しい状態にありました。そこで、家治は田沼意次を側用人(そばようにん)から老中(ろうじゅう)に昇進させ、経済を立て直すための改革を任せました。

田沼意次が進めた改革の特徴は、「商業を活発にする」ことです。たとえば、商人たちが組織を作る「株仲間(かぶなかま)」を公認し、経済の流れをスムーズにしました。また、新しい貨幣(かへい)「南鐐二朱銀(なんりょうにしゅぎん)」を発行し、商取引を便利にしました。

さらに、田沼は蝦夷地(えぞち=今の北海道)の開発を進め、外国との貿易をしようと考えました。このように、家治の時代には、経済を活発にするための新しい取り組みがいくつも行われました。

田沼政治は失敗か?賄賂政治の実態と評価

田沼意次の改革は、日本の経済を成長させる良いアイデアでしたが、次第に「賄賂(わいろ)政治」と呼ばれるようになってしまいました。なぜなら、田沼の政策によって商人たちが力を持ちすぎてしまい、政治の中で賄賂が当たり前になってしまったからです。

たとえば、新しい事業を始めたい人がいても、役人にお金を渡さなければ許可が下りない、というようなことが増えていきました。このため、田沼政治に対する不満が高まり、最終的には田沼意次は老中の職を追われてしまいます。

しかし、現代では「田沼意次の政策は先進的だった」と再評価されています。彼の改革が続いていたら、日本はもっと早く近代的な経済を持つ国になっていたかもしれません。

天明の大飢饉と徳川家治の対応

家治の時代には、「天明の大飢饉(てんめいのだいききん)」という大きな災害がありました。これは、1782年から1787年にかけて起こった大規模な食糧不足です。

特に1783年の浅間山(あさまやま)の大噴火によって、農作物が育たなくなり、多くの人が食べるものを失いました。このため、各地で一揆(いっき=農民が団結して起こす反乱)や「打ちこわし(うちこわし=お店や倉庫を壊して食料を奪うこと)」が起こりました。

家治は、幕府の倉庫からお米を放出するなどの対策を取りましたが、それだけでは十分ではありませんでした。結果的に、田沼意次の失脚(しっきゃく)につながる大きな出来事となってしまいました。

徳川家治が評価されにくい理由とは?

徳川家治は27年間も将軍を務めましたが、あまり有名ではありません。その理由のひとつは、「田沼意次の影に隠れてしまったこと」です。

また、家治は穏やかな性格で、戦争や大きな改革を行ったわけではありません。そのため、インパクトのある出来事が少なく、「地味な将軍」と思われがちです。

しかし、家治は決して無能な将軍ではなく、「賢くて慎重なリーダー」でした。田沼意次の改革を支え、文化や教育の発展にも力を入れていました。近年では、「穏やかで優れた政治家だった」と再評価されています。

徳川家治は何した人か簡単に:人柄とエピソード

徳川家治は「地味な将軍」と言われがちですが、その人柄や行動には興味深いエピソードがたくさんあります。ここでは、家治の性格がよく分かる話を紹介しながら、彼がどんな人物だったのかを探っていきましょう。

祖父・徳川吉宗に溺愛された幼少期

家治は、幼少期から祖父の徳川吉宗にとても可愛がられていました。吉宗は「享保の改革」を行った名君ですが、息子である家重があまり優秀ではなかったため、家治に大きな期待をかけていました。

『徳川実紀』によると、幼い家治を吉宗が膝の上に乗せて、「これに字を書いてみよ」と促したところ、家治は紙の枠を気にせず、畳の上にはみ出すほど大きな「大」の字を書いたそうです。それを見た吉宗は「天下を治める者の挙動はこうでなければならぬ」と喜んだと伝えられています。

このエピソードからも、家治は大胆で物事を恐れない性格だったことが分かります。また、幼少期から帝王学を学び、立派な将軍になるための教育を受けていたことがうかがえます。

将棋や書画が得意!文化人としての一面

家治は、政治だけでなく文化や芸術にも関心が深い人物でした。特に将棋や書画が得意で、自ら詰将棋の問題集を作るほどの腕前でした。彼が編纂(へんさん)した『御撰象棊攷格(ぎょせんしょうぎこうかく)』という詰将棋の書は、今でも将棋ファンの間で知られています。

また、書画にも優れ、「政事之暇(せいじのひま)」という落款(らっかん)を作品に押していました。これは、「政治の合間に楽しんで書いた」という意味ですが、家治が趣味を大切にしながらも、政治をおろそかにしなかったことがうかがえます。

このように、家治は文化を愛し、知的な趣味を持つ将軍でした。戦や武力での統治ではなく、学問や芸術を大切にするリーダーだったのです。

民を思いやる将軍!火事への対応エピソード

家治の性格を表すエピソードのひとつに、「火事の対応」があります。江戸時代は火事が頻繁に発生しており、家治の治世中にも大規模な火災が何度か起こりました。

あるとき、大火が発生し、家臣たちが「どんな様子か見に行こう」と言いました。すると家治はこう言って彼らを止めました。

「火事は民の憂いであり、私の憂いでもある。決して面白半分で見物するようなものではない。」

さらに、幕府の倉庫からお米を放出し、被災した人々を救おうとしました。このように、家治は「民のことを第一に考える将軍」だったのです。

田沼意次との本当の関係!家治はただの傀儡(かいらい)だったのか?

田沼意次が政治の実権を握っていたことから、「家治は何もしなかった将軍」と思われがちですが、それは間違いです。家治は田沼を重用しながらも、しっかりと監督していました。

例えば、あるとき田沼が登城(ちょうじょう=将軍に会いに城へ行くこと)に遅れたことがありました。理由を尋ねると、田沼は「自宅の火事の対応をしていた」と答えました。すると、家治はこう言いました。

「お前の屋敷と、将軍の城と、どちらが大事なのか?」

これに田沼は返答できず、ただ頭を下げるしかなかったそうです。この話からも、家治が田沼に対してしっかりとした立場を取っていたことが分かります。

つまり、田沼意次にすべてを任せきりだったわけではなく、家治は将軍としての責任を果たしていたのです。

なぜ家治は影が薄い?評価が分かれる理由

家治は27年間も将軍を務めましたが、なぜあまり有名ではないのでしょうか?その理由には、次のような点が挙げられます。

  1. 田沼意次の影に隠れていた
    • 田沼意次が強いリーダーシップを発揮していたため、家治の存在が目立ちにくかった。
  2. 戦争や大きな改革がなかった
    • 家治の時代は、戦国時代や幕末のように大きな戦争がなく、平和が続いた。そのため、歴史の授業であまり詳しく扱われない。
  3. 「田沼時代」の評価が低かった
    • 田沼政治は「賄賂政治」と批判されることが多く、その時代の将軍である家治も悪いイメージがついてしまった。

しかし、最近では「家治は優れた将軍だった」と再評価されています。民を思いやり、文化を重んじ、田沼意次の改革を支えた将軍として、もっと注目されるべき人物なのです。

総括:徳川家治が何をした人か簡単に解説まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

基本情報

  • 江戸幕府第10代将軍(在位1760年~1786年)
  • 1737年生まれ、父は第9代将軍・徳川家重、祖父は名君・徳川吉宗
  • 幼少期から聡明で、祖父吉宗に可愛がられながら帝王学を学ぶ

政治・政策

  • 田沼意次を重用し、経済改革を推進
    • 株仲間の公認、新貨幣の発行、蝦夷地開発などを進めた
    • 田沼政治は商業発展を促したが、「賄賂政治」として批判を受ける
  • 天明の大飢饉への対応
    • 1782年~1787年にかけての大飢饉で食糧不足が発生
    • 幕府の米倉から救済策を実施するも、十分な効果は得られなかった
  • 田沼意次との関係
    • 田沼に政治を任せていたが、決して完全に支配されていたわけではない
    • 遅刻した田沼を叱るなど、しっかりと監督していた

人柄・エピソード

  • 文化・学問を重視
    • 将棋が得意で、詰将棋の本を作るほどの腕前
    • 書画にも秀でており、「政事之暇」と作品に落款を残す
  • 民を思いやる温厚な性格
    • 火事の際、見物に行こうとする家臣をたしなめ、「民の憂いは私の憂い」と発言
    • 政治の失敗を自省し、家臣に意見を求めるなど謙虚な姿勢
  • 祖父・吉宗とのエピソード
    • 幼少期に吉宗の前で紙の枠を超えて「大」の字を書き、豪快な性格を示す
    • 吉宗は家治に「天下を治める者の資質がある」と期待した

評価と影の薄さ

  • 田沼意次の影に隠れた
    • 田沼が目立つ存在だったため、家治の評価が低くなった
  • 戦争や大改革がなかった
    • 平和な時代だったため、歴史の授業などで目立ちにくい
  • 田沼時代の評判の悪さ
    • 田沼意次の賄賂政治の悪評とともに、家治の評価も下がった

近年の再評価

  • 無能ではなく、賢明で慎重なリーダー
    • 田沼意次の改革を支えながらも、幕府の安定を維持
    • 文化や教育の発展に貢献した
  • 穏やかながらも強いリーダーシップを発揮
    • 決断力があり、家臣を適切に指導していたことが再評価されている