今回は「治安維持法(ちあんいじほう)」について、子どもでもスッと理解できるように、やさしい言葉でわかりやすく解説していきます。
「治安維持法って、何のための法律だったの?」
「どうして作られたの?」
「なぜ悪法といわれているの?」
といった疑問を、順番に丁寧に答えていきます。テストでもよく出るポイントばかりですので、しっかり読んで理解しておきましょう!
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治安維持法を簡単に解説!目的・内容をわかりやすく
治安維持法は、日本の歴史の中でも非常に重要かつ問題を引き起こした法律の一つです。この法律がどのようにして制定され、何を目的としていたのか、またその影響がどれほど大きかったのかを簡単に解説していきます。
治安維持法とは?思想を取り締まる法律
治安維持法とは、1925年(大正14年)に日本で作られた法律で、簡単にいうと「政府にとって都合の悪い考えや活動を取り締まるための法律」でした。
たとえば、「天皇を中心とする国のあり方を変えよう」とする人や、「お金持ちだけが得する社会はおかしい!」と考えていた社会主義・共産主義の人たちを、取り締まるために使われたのです。
この法律ができたことで、「自分の意見を自由に言うこと」が難しくなり、新聞や本、学問の世界でも、政府に批判的な内容がどんどん消されてしまいました。つまり、考え方の自由=「思想の自由」が奪われるような世の中になったのです。
目的は「国体と私有財産制度の維持」
治安維持法のいちばんの目的は、「国体(こくたい)」と「私有財産制度(しゆうざいさんせい)」を守ることでした。
国体とは、天皇を中心とした日本の国家体制のことです。この体制を変えようとする社会主義や共産主義の考えが広がると、「天皇はいらない!」という声が出てくるかもしれません。政府はそれをとても恐れていました。
また、私有財産制度とは「お金や土地、工場などを個人で持つことができるしくみ」です。社会主義は「すべてはみんなのもの」という考え方なので、この制度にも反対します。
だから政府は、これらを守るために、自由な言論や活動を制限する治安維持法をつくったのです。ちょうどこの年、国民に広く選挙権をあたえる「普通選挙法」もできたので、国民の力が強くなるのを抑える「ムチ」として、治安維持法が同時につくられました。
大正デモクラシーやロシア革命の影響
治安維持法ができた背景には、「大正デモクラシー」と「ロシア革命」という大きな出来事があります。
まず、大正デモクラシーとは、国民がもっと自由に発言し、政治に参加しようとした動きのことです。新聞や演説などで「もっと平等な社会をつくろう」という声が広がりました。
次にロシア革命です。1917年にロシアで起きたこの革命により、世界で初めての社会主義の国(ソビエト連邦)ができました。これが世界中に大きな影響を与え、日本でも社会主義の考えが広まりました。
このままでは日本の天皇制やお金持ちの力がなくなるのでは?と不安になった政府は、「国のしくみを守るため」に治安維持法をつくり、思想の広がりを押さえ込もうとしたのです。
治安維持法の内容
治安維持法の内容は、はじめはそれほど厳しいものではありませんでした。しかし、時が経つにつれて内容がどんどん重くなっていきました。
たとえば、最初は「懲役刑(ちょうえきけい)」などの刑罰だったのが、1928年には「死刑」まで加えられました。これは、普通選挙で社会主義の人たちが当選したことを受けて、政府がさらに強く取り締まろうとしたからです。
さらに1941年には、犯罪を「準備しているだけ」でも逮捕できるようになり、刑務所に入れたままにしておける「予防拘禁(よぼうこうきん)」まで可能になりました。
このように、法律の内容がどんどん厳しくなり、実際に行動をしていなくても「考えただけ」で罪になるような、こわい法律になっていったのです。
普通選挙法はセット!アメとムチの意味
治安維持法と普通選挙法は、1925年に同じタイミングでつくられました。これは「アメとムチ」の関係だとよくいわれます。
「アメ」とは、ごほうびや自由のことで、「普通選挙法」がそれにあたります。25歳以上のすべての男子に選挙権があたえられ、たくさんの人が政治に参加できるようになりました。
一方、「ムチ」は厳しい取り締まりのことで、それが「治安維持法」です。もし、選挙で当選した人が政府に逆らうような意見を持っていたら…? それを防ぐために、あらかじめ自由な思想や運動を取り締まる法律が用意されたのです。
このように、「自由を与えるふりをして、実はしっかりコントロールする」という、政府のしたたかな戦略があったのです。
治安維持法の問題点と廃止理由を簡単に解説
ここからは、「治安維持法がどんな問題をもたらしたのか」や「なぜ廃止されたのか」について見ていきましょう。昔の日本で起こったことを学ぶことで、今の私たちの自由や人権の大切さがよく分かるはずです。
問題点は「思想と言論の自由」を奪ったこと
治安維持法のいちばんの問題点は、人々の「自由な考え」や「意見を言うこと」ができなくなってしまったことです。
この法律では、政府にとって都合の悪い考えや言葉を持つだけで「犯罪」とされました。つまり、「何を考えているか」や「どんな本を読んでいるか」まで警察に監視されるような状態だったのです。
新聞や本、演説なども厳しく検閲され、「反対意見は禁止!」というような雰囲気になりました。これでは、自由に話し合ってよりよい社会をつくることはできませんね。
今の日本では「表現の自由」がとても大切にされていますが、治安維持法の時代はそれがまったく認められていなかったのです。
運用実態は?「拷問・密告・予防拘禁」まで
治安維持法の運用では、ただ法律に違反した人を捕まえるだけではありませんでした。むしろ、「やっていそう」「考えていそう」と疑われただけで逮捕された人も多くいました。
当時の特別高等警察、通称「特高(とっこう)」は、スパイのような存在でした。彼らは秘密裏に人を調査し、逮捕し、取り調べではなんと「拷問(ごうもん)」までしていたのです。
とくに有名なのが、「三・一五事件(さんいちごじけん)」や「四・一六事件(しろくじけん)」です。これらでは共産党の関係者が一斉に逮捕され、暴力的に取り締まられました。
有名な作家・小林多喜二(こばやし たきじ)は、警察に捕まり、拷問で命を落としました。これはまさに「考えただけで殺される時代」だったのです。
なぜ廃止?「GHQの指令」と「ポツダム宣言」が理由
治安維持法は、1945年の第二次世界大戦の終わりとともに廃止されました。そのきっかけは、日本の敗戦と「GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)」の登場です。GHQは、アメリカのマッカーサー元帥がトップで、日本を民主主義の国へと変えるための改革をどんどん進めました。
その中の一つが「人権を守ること」。GHQは「思想の自由や言論の自由を制限する治安維持法はダメだ!」と判断し、日本政府に廃止を命じました。これは「ポツダム宣言」を日本が受け入れたことによるものでもあります。
こうして、治安維持法は1945年に正式に廃止されました。そして、1947年に新しい憲法「日本国憲法」ができ、人権がしっかり守られる時代になったのです。
人権・表現の自由の大切さ
治安維持法がなくなってからずいぶん時間がたちましたが、その教訓はいまもとても大切です。あの時代、政府にとって「都合が悪い」と思われるだけで、自由に考えることすら許されませんでした。そんな社会は、人々が安心して生きることができない、こわい世界です。
いま、私たちは新聞やインターネット、本などを自由に読めて、SNSで自分の意見も言えます。それは「言論の自由」や「思想の自由」が憲法で守られているからです。
でも、もしもその自由がまた制限されるような法律が出てきたら?それを防ぐには、歴史から学び、自由の大切さを知っておくことがとても大事なのです。
総括:治安維持法を簡単に解説まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 治安維持法は1925年に制定された、思想や言論を取り締まる法律。
- 社会主義や共産主義など「天皇制や私有財産制度を否定する思想」が対象。
- 目的は「国体」と「私有財産制度」を守ること。
- 同年に「普通選挙法」も成立し、アメ(自由)とムチ(弾圧)のセットとされる。
- 大正デモクラシーやロシア革命の影響で社会運動が活発化したのが背景。
- 1928年に「死刑」追加、1941年には「予防拘禁」など内容が厳しくなった。
- 三・一五事件や小林多喜二の拷問死など、深刻な人権侵害が実際に起きた。
- 戦後、GHQの指令とポツダム宣言を受けて1945年に廃止された。
- 現在の日本国憲法では「言論・思想の自由」が保障されている。
- 歴史を知ることで、現代の自由や人権の大切さを再確認できる。