みなさん、こんにちは!塾長です。今日は「土倉と酒屋の違い」について分かりやすく解説していきます。
室町時代に活躍した土倉(どそう)と酒屋(さかや)は、どちらも「高利貸し」として知られています。でも、この2つには 決定的な違い があります!
この記事では、土倉と酒屋の違い、なぜ彼らが金融業を始めたのか、そして高利貸しが生まれた背景について、分かりやすく解説します!
テストにも出る内容なので、しっかりチェックしてくださいね。
土倉と酒屋の違い:歴史的背景と共に解説

土倉と酒屋は、どちらも室町時代に活躍した高利貸し業者として知られていますが、その実態は異なります。ここでは、土倉と酒屋がどのようにして高利貸しを行ったのか、そしてそれぞれの業務内容の違いについて解説します。
土倉と酒屋の違いを一言で言うと?
結論から言うと、土倉は「質屋」、酒屋は「造り酒屋」です。そして、どちらも副業として高利貸しを行っていました。
なぜこのような違いが生まれたのでしょうか?
それは、それぞれの本業が違ったからです。
- 土倉は倉庫業(物流業)を中心に、品物を預かりながら金を貸していました。今でいう質屋のような存在ですね。
- 酒屋は 酒造業(お酒を作る仕事) を本業とし、そこから得た利益を使って金貸しもしていました。
つまり、2つの違いは「もともと何をしていたか」によって決まります。
また、室町幕府は土倉と酒屋から税金(役銭)を徴収していたので、彼らの活動は幕府にとっても重要でした。それでは、次に土倉と酒屋の歴史を詳しく見ていきましょう。
土倉とは?鎌倉時代からの高利貸しの歴史
土倉は、鎌倉時代に誕生した高利貸し業者です。名前の由来は、「土壁で作られた倉庫を持っていた」ことからきています。
この時代、お金を貸すには担保(たんぽ)が必要でした。借り手は高価な品物を土倉に預け、その代わりにお金を借りる仕組みです。これが現代の質屋の原型となりました。
鎌倉時代後期には、貨幣経済が発達し、商人や貴族も土倉を利用するようになりました。特に武士は戦費や生活費を捻出するために借金をすることが多かったのです。
室町時代になると、幕府は土倉を財源として利用し、「土倉役(どそうやく)」という税金を課しました。これにより、土倉は幕府の経済を支える重要な存在になったのです。
酒屋とは?室町時代の酒造業と高利貸し
酒屋はお酒を作ることを本業とし、そこから発展して高利貸しを始めました。なぜ酒屋が金融業をするようになったのでしょうか?
その理由は「酒造業は儲かるビジネスだったから」です!
室町時代になると、お酒は庶民にも広まり、大量生産が可能になりました。お酒を販売することで莫大な利益を得た酒屋は、その余ったお金を貸し付けることでさらにお金を増やしていったのです。
幕府もこの事実を見逃しませんでした。土倉と同じように、酒屋にも「酒屋役(さかややく)」という税金を課しました。こうして、酒屋も幕府の重要な財源となったのです。
土倉と酒屋が共に高利貸しを行った理由
では、なぜ土倉と酒屋は同時に高利貸しを行ったのでしょうか?
それには、室町時代の経済の発展が大きく関係しています。
- 貨幣経済が発達し、現金を必要とする人が増えた
- 戦国時代に向けて、武士や商人が金策に奔走した
- 幕府が財源を確保するため、土倉や酒屋を保護した
- 一方で、高利貸しに対する反発も強まり、一揆のターゲットとなった
特に「徳政令(とくせいれい)」という政策が、土倉や酒屋に大きな影響を与えました。
土倉と酒屋、どちらが影響力を持っていたのか?
では、土倉と酒屋、どちらの方が影響力が大きかったのでしょうか?
結論から言うと、「地域による というのが正しい答えです。
- 京都や鎌倉では土倉が大きな影響力 を持っていました。なぜなら、都には貴族や商人が多く、金融業が発展しやすかったからです。
- 地方では酒屋の方が力を持っていました。特に、酒造が盛んな地域では、酒屋が金融業者としても活動していました。
また、どちらも民衆から恨まれる存在でもありました。なぜなら、彼らは高い利息を取っていたからです。そのため、土倉・酒屋は一揆などで襲撃されることもありました。
土倉と酒屋の違いが分かったら:高利貸しはなぜ生まれたのか

高利貸しが誕生した背景には、当時の経済環境が大きく関係しています。貨幣経済が発展し、商人や武士が急増する中で、借金をすることが一般的になっていきました。
ここでは、土倉や酒屋がどのように金融業を営み、なぜ高利貸しが重要な役割を果たしたのかについて解説します。
室町時代の経済と金融業の関係性
室町時代は、貨幣経済が発展し、これまでの「物々交換」から「お金を使った取引」が当たり前になってきました。すると、お金が足りない人たちは誰かから借りる必要が出てきました。
ここで登場するのが高利貸し(たかりがし)です!
- 武士は戦争や生活のためにお金が必要でした。
- 商人は商売を広げるために資金を借りる必要がありました。
- 庶民も生活費を工面するために借金をすることが増えたのです。
土倉や酒屋はこの流れに乗って、お金を貸し、利息を取る金融業者になっていきました。しかし、この「高利貸し」には大きな問題がありました。それは借金を返せなくなる人が続出したことです。
徳政令とは?なぜ高利貸しが困ったのか
ここで登場するのが徳政令(とくせいれい)です。徳政令とは、簡単に言うと 「借金を帳消しにする法律」 のことです。
- 借金をした人 →「やった!借金がなくなった!」
- お金を貸していた土倉や酒屋 →「え!?貸したお金が戻らない!」
このように、徳政令は高利貸し業者にとって最悪の法律だったのです。
しかし、幕府はなぜこんな法律を作ったのでしょうか?
理由は庶民や武士の不満を抑えるためです!借金を抱えた武士や庶民が不満を持つと、一揆を起こして幕府に反抗する危険がありました。
そのため、幕府は「借金をゼロにするから、一揆をやめて!」と考えたのです。
土倉・酒屋を狙った一揆と庶民の反発
徳政令が出されると、借金が帳消しになった人々は大喜びしました。しかし、土倉や酒屋にとっては大打撃です!
困った土倉や酒屋は、幕府に対して「補償してほしい」と訴えました。その結果、幕府は「分一銭(ぶいちせん)」という仕組みを作りました。
これは「借金を帳消しにする代わりに、借金の一部を幕府に納めさせる」という制度です。
それでも土倉や酒屋は大損していたため、庶民の怒りは収まりませんでした。
その結果、一揆(いっき)が多発し、土倉や酒屋が襲撃される事件が相次ぎました。
土倉・酒屋と幕府の関係、財源としての役割
それでも幕府は土倉と酒屋を手放せませんでした。なぜなら、幕府の財政を支えていたからです!
室町幕府の財源の中でも、土倉役(どそうやく)と酒屋役(さかややく)は重要な税金でした。
- 土倉役 → 高利貸し業者(質屋)から徴収する税金
- 酒屋役 → 酒屋(造り酒屋)から徴収する税金
これらの税金は、幕府の収入の大きな部分を占めていました。そのため、幕府は土倉や酒屋を保護しながらも税金をしっかり取るという立場を取っていました。
しかし、一揆が続いたことで、土倉や酒屋はだんだん衰退していくことになります。
土倉と酒屋は江戸時代にどうなったのか?
では、江戸時代になると 土倉と酒屋はどうなったのでしょうか?
結論としては、
- 土倉は次第に消えていき、江戸時代にはほとんど存在しなくなった
- 酒屋は引き続き繁盛し、金融業としても一部が生き残った
江戸時代は幕府の支配が強まり、高利貸しを取り締まる政策が進められました。また、幕府の金融制度が整備されたことで、土倉のような民間の高利貸しは必要なくなったのです。
一方、酒屋は お酒の販売を続けることで生き残りました。
さらに、江戸時代には「両替商(りょうがえしょう)」というお金を扱う業者が登場し、銀行のような仕組みが生まれました。こうして、室町時代の高利貸し業は、新しい時代の金融業へと変化していったのです。
総括:土倉と酒屋の違いを簡単に解説のまとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
✅ 土倉と酒屋の違い
- 土倉は倉庫業(物流業)を本業とし、高利貸しを副業として行っていた(現代の質屋のような存在)。
- 酒屋は酒造業(お酒の製造・販売)を本業とし、余った資金を貸し付けることで金融業を行った。
- どちらも室町幕府の重要な財源となり、「土倉役」「酒屋役」といった税金を徴収された。
✅ 土倉と酒屋が高利貸しを行った理由
- 室町時代は貨幣経済が発展し、現金を必要とする人が増えた。
- 武士や商人が金策に奔走し、借金をすることが多かった。
- 幕府が財源を確保するため、土倉や酒屋を保護しつつ税金を課した。
- しかし、高利貸しへの庶民の反発も強く、一揆のターゲットになった。
✅ 徳政令と高利貸しへの影響
- 徳政令とは「借金を帳消しにする政策」のこと。
- 借金をした人は喜んだが、土倉や酒屋は大損し、経営危機に陥った。
- 幕府は補償策として「分一銭(ぶいちせん)」を導入し、徳政令の影響を抑えようとした。
- しかし、土倉・酒屋に対する庶民の怒りは収まらず、一揆による襲撃が相次いだ。
✅ 土倉と酒屋のその後
- 土倉 → 江戸時代になると金融業としての役割を失い、ほとんど消滅。
- 酒屋 → 酒造業として存続し、一部は金融業を続ける。
- 江戸時代には「両替商(りょうがえしょう)」という金融業者が登場し、高利貸しの役割を担うようになった。