今回は明治時代に起きた「ノルマントン号事件」について、特に「なぜ日本人だけ助けられなかったのか?」という疑問に答えていきます。
この事件は、日本人の命の大切さ、そして国としての誇りや外交の在り方を考えさせられる歴史的な出来事です。
「人種差別があったの?」「なぜ裁かれなかったの?」といった疑問を持っているみんな、この記事を読めばすっきり解決できますよ!それでは、いってみましょう!
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ノルマントン号事件で日本人を助けなかった理由まとめ
明治19年(1886年)10月、和歌山沖で起きたこの事件では、イギリス船の乗組員たちは助かり、日本人乗客25人は誰一人として救われませんでした。
この不公平な出来事に、日本中が怒りの声を上げました。では、なぜ日本人だけが見捨てられたのでしょうか?その理由を一つずつ見ていきましょう。
日本人を助けなかった理由は「人種差別」と言葉の壁があったから
まず、船長が主張したのは「日本人に避難を呼びかけたが、言葉が通じなかったから逃げられなかった」という理由です。
しかし、実際にはイギリス人やドイツ人の乗組員たちだけがボートで助かっているのに、日本人は一人も救われていません。これはどう見ても不自然ですよね。
当時の日本は西洋から「未開の国」と見られがちで、アジア人に対する差別も強かった時代です。日本人が見捨てられたのは、単なる言葉の問題ではなく、「白人を優先し、有色人種を軽く見る」という人種差別が背景にあったとされています。
日本人乗客が閉じ込められた疑いも
さらに恐ろしいのは、「日本人がわざと船の中に閉じ込められたのではないか」という疑いです。25人もの日本人が全員溺れ、しかも遺体がほとんど見つかっていないのです。
これにより、「ボートに乗せる時間があったのに見捨てた」「船倉に閉じ込めて逃げたのでは」という声が高まりました。風刺画では、助けを求める日本人を船長が無視するような場面も描かれ、世論は大きく反発しました。
証拠が残っていないため真相ははっきりしていませんが、「偶然」ではすまされないほどの不自然さがあることは確かです。
船長が無罪になったのはなぜ?不平等条約による治外法権の影響
みんなが「なんでこんなことが許されるの?」と驚いたのが、船長たちがほとんど罰を受けなかったことです。実はこの当時、日本と外国の間には「不平等条約」が結ばれていて、日本国内で外国人を裁くことができなかったのです。
このため、ノルマントン号の裁判も日本ではなく、イギリス領事が裁くことになり、結果は「無罪」でした。その後、殺人罪で訴えても、判決は「禁錮3か月」という非常に軽いもので、国民の怒りが爆発したのです。
なぜイギリス人乗員だけが助かった?救命ボートと脱出行動の優先順位
通常、船の事故では「乗客を先に救う」のが基本ですが、ノルマントン号では船長や乗組員が真っ先に脱出しています。当時の証言によると、救命ボートは十分にあったにもかかわらず、日本人乗客にはその情報が伝えられなかったようです。
さらに、乗員は英語しか話せず、日本人とはコミュニケーションが取れなかったという言い訳も使われました。
でも、本当に乗客を助ける気があれば、ジェスチャーや行動で何か伝えることはできたはず。つまり、「助ける気がなかった」と思われても仕方ない状況だったのです。
ノルマントン号事件に対する日本国内の反応と怒りの理由
この事件が起きたことで、日本中が大きなショックを受けました。
新聞は連日この事件を取り上げ、「日本人の命が軽く見られた」と強く非難しました。福沢諭吉や井上馨といった著名人たちも、事件を通じて国の弱さを痛感し、外交の見直しを求めるようになります。
さらに、民衆からも「このままではダメだ!」という声が高まり、条約改正を求める運動へとつながっていきます。この事件は、単なる事故ではなく、日本の外交と国際関係を大きく動かすきっかけになったのです。
ノルマントン号事件で日本人を助けなかった理由の後に
ノルマントン号事件は、ただの海難事故では終わりませんでした。この事件をきっかけに、日本は「外国と対等な国になるにはどうすればいいのか?」を真剣に考え始めたのです。
ここから、日本が近代国家へと成長していく道がスタートしました。
ノルマントン号事件が引き起こした「不平等条約改正」への機運
この事件の大きな問題は「日本では外国人をきちんと裁けなかったこと」でした。つまり、日本の法律が外国人には届かない――これが「治外法権」と呼ばれるルールです。
ノルマントン号事件を通じて、多くの日本人が「このままでは日本人の命や権利が守れない」と感じました。そして「不平等条約を改正しよう!」という声が一気に高まり、日本政府もようやく本格的に動き始めます。
このように、事件は条約改正を求める国民の意識を大きく変えたのです。
井上馨・陸奥宗光らの外交努力と条約改正の進展
事件の翌年、外務大臣だった井上馨(いのうえ かおる)は、条約を変えるために「欧化政策」を進めました。これは、西洋のマナーや服装、建物を日本に取り入れて「文明国」として認めてもらおうという作戦です。
しかし、「鹿鳴館(ろくめいかん)」でのパーティーや外国へのへつらいが多すぎたとして、国内の批判が強まり、井上は辞任。その後を引き継いだ陸奥宗光(むつ むねみつ)は、強い意志と交渉力で1894年、ついにイギリスと「日英通商航海条約」を結び、治外法権の撤廃に成功します。
ノルマントン号事件の怒りが、ここでようやく成果となって実を結んだのです。
ノルマントン号事件と他の不平等事件の比較
実は、ノルマントン号事件のように外国人が軽く裁かれる出来事は、他にもありました。
例えば「ハートレー事件」では、イギリス商人が日本でアヘンを密輸しようとしたのに、領事裁判で無罪に。また「千島艦事件」では、日本の軍艦が外国の商船と衝突して多くの死者を出しましたが、外国側に責任は問われませんでした。
こうした事件の中でも、ノルマントン号事件が特に有名なのは、「日本人が全員犠牲になり」「誰も救われなかった」からです。この強いインパクトが、世論を一気に動かしたのです。
日本人の人権意識・国際的自立意識の目覚めに与えた影響
この事件を通して、日本人は「国民の命を守るには、国が強くならなければならない」と考えるようになりました。また、世界の中で「自分たちがどう見られているか」にも気づかされるきっかけになったのです。
「自立した国家とはどうあるべきか」――明治時代の人々は、事件を通して初めて国際的な平等とは何かを真剣に考え始めたのです。この意識の目覚めが、後の日本の近代化や国際社会への参加へとつながっていきました。
総括:ノルマントン号事件で日本人を助けなかった理由まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
✅ 日本人が助けられなかった主な理由は人種差別と言葉の壁
・船長は「日本人が英語を理解しなかった」と主張
・しかし白人乗員だけが助かり、日本人は全員死亡
✅ 日本人乗客が閉じ込められた疑いもある
・25人全員が溺死、遺体もほとんど見つからなかった
・意図的に閉じ込められた可能性も指摘されている
✅ 船長が無罪になったのは不平等条約のせい
・当時の治外法権により、日本で裁けなかった
・イギリスの領事裁判では無罪、後に禁錮3か月の軽い刑
✅ 乗員が先にボートで脱出したことが問題に
・本来、乗客優先であるべきが、乗員が真っ先に逃げた
・救助の意思がなかったと世論は非難
✅ 日本国内で怒りと世論の高まりが発生
・新聞や知識人が強く批判
・外交の見直しと条約改正の機運が高まった
✅ 不平等条約改正のきっかけとなった
・「日本人の命が守られない」との危機感から改正運動へ
・最終的に陸奥宗光が条約改正に成功
✅ 他の不平等事件(ハートレー事件・千島艦事件)と比較される
・いずれも外国人が優遇される裁判結果
・ノルマントン号事件が特に注目されたのは被害の大きさと理不尽さ
✅ 国民の人権意識・国際的自立意識が芽生えるきっかけに
・国としての強さと対等な外交の必要性に気づいた
・近代国家としての道を歩む契機となった