江戸時代の天皇がどんな暮らしをしていたか知っていますか?
「江戸時代の歴史を習ったけど、天皇の名前はあまり出てこなかったなぁ」と思う人も多いでしょう。実は、江戸時代の天皇は幕府の厳しい監視のもと、限られた役割しか果たせなかったのです。
それなのに、なぜ徳川幕府は天皇を滅ぼさなかったのでしょう?
この記事では、江戸時代の天皇の生活、収入、そして幕府との関係について、塾長が分かりやすく解説します!
江戸時代の天皇は何をしていた?生活や役割を解説

江戸時代の天皇は、政治に関与することができませんでした。しかし、天皇には天皇としての重要な役割があったのです。
ここでは、天皇の仕事や生活、収入の仕組みについて詳しく解説します。
天皇の仕事は神事と儀式が中心だった
江戸時代の天皇の一番大切な役目は「神事を行うこと」でした。
例えば、新嘗祭(にいなめさい)や大嘗祭(だいじょうさい)など、五穀豊穣(ごこくほうじょう=農作物がよく育つこと)を願う儀式を行っていました。これらの神事は、戦国時代に一時中断されましたが、江戸時代に復活し、現在でも続いています。
また、天皇は毎朝「伊勢神宮」の方向を向き、「天下泰平(てんかたいへい=世の中が平和であること)」や「子孫繁栄(しそんはんえい=家族が長く続くこと)」を祈るのが日課でした。
このように、天皇の役割は国民の幸せを神様にお願いすることだったのです。
江戸時代の天皇の生活は意外と快適だった?
「天皇って生活が大変そう…」と思うかもしれませんが、実は意外と安定した暮らしをしていました。天皇には「禁裏御料(きんりごりょう)」と呼ばれる3万石の領地があり、そこから収入を得ていました。
これは小さな大名と同じくらいの財産でしたが、大名のように参勤交代をする必要がなく、土木工事の費用も負担しなくてよかったので、実質的には自由に使えるお金が多かったのです。
ただし、天皇の暮らしには制限もありました。幕府の許可がなければ、京都の外に出ることすらできませんでした。例えば、花見のために伏見の醍醐寺へ行くにも幕府の許可が必要だったのです。
天皇は自由に動けるわけではなく、幕府のルールに従う必要がありました。
天皇はなぜ幕府に従っていたのか?統制の仕組み
江戸時代の天皇が幕府に逆らえなかった理由は、「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」という法律があったからです。この法律によって、天皇の行動は厳しく制限され、政治に口出しすることは禁止されました。
また、幕府は「京都所司代(きょうとしょしだい)」という役職を作り、天皇や公家の動きを監視していました。これにより、天皇は幕府の許可なく勝手に何かを決めることができなくなりました。
このように、幕府は天皇を表向きは尊重しつつ、実際には厳しく管理していたのです。
江戸時代の天皇の収入源は?幕府の支援が鍵だった
天皇の収入は「禁裏御料」だけではありませんでした。幕府からの経済的支援もありました。幕府は天皇や公家に財政支援を行い、天皇が困らないようにしていました。
しかし、幕府の財政状況が悪くなると、天皇への支援も減らされることがありました。例えば、18世紀になると幕府の財政が厳しくなり、天皇への支援金も削減されました。
そのため、天皇や公家たちは、財政をやりくりするために節約をすることもあったのです。
江戸時代の天皇の暮らしはどこで送られていた?
江戸時代の天皇は、ずっと京都御所に住んでいました。幕末まで一度も江戸に行くことはありませんでした。京都御所は格式が高く、日々の生活も厳しく決められていました。
天皇が住む御所の中には、「紫宸殿(ししんでん)」という重要な建物があり、ここでさまざまな儀式が行われました。また、天皇の身の回りの世話をする多くの公家たちも御所の中に住んでいました。
御所の生活は厳格でしたが、ある程度の安定した暮らしを送ることができたのです。
江戸時代に天皇何してた?なぜ幕府は天皇を滅ぼさなかったのか

江戸幕府は260年以上も続きましたが、その間、天皇を排除しようとはしませんでした。むしろ、天皇の権威を利用しながら統治を行っていたのです。では、なぜ幕府は天皇を滅ぼさなかったのでしょうか?
その理由を詳しく解説します。
幕府にとって天皇の存在は必要だった
徳川家康が江戸幕府を開いたとき、天皇の存在をうまく利用しました。幕府の正当性を示すために、「征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)」という地位を天皇から授けてもらったのです。
これは、幕府が「天皇の家臣」という形をとることで、武家政権の支配が正当なものであると示すためでした。もし天皇を滅ぼしてしまうと、幕府の支配に対する正当性が失われるため、徳川家にとっては天皇を存続させたほうが得策だったのです。
天皇を滅ぼすことは幕府にとってリスクが大きかった
幕府が天皇を滅ぼさなかったのは、単に正当性の問題だけではありません。それには、幕府にとってのリスクも関係していました。
もし幕府が天皇を排除しようとすれば、西国の大名たちが反発する可能性がありました。特に、豊臣家の影響が残る大名や、公家とのつながりが深い藩は、幕府に反抗する理由を見つけることになります。
幕府はあえて天皇を存続させることで、こうした対立を避けたのです。
幕府は天皇を厳しく管理することで支配を維持した
天皇を存続させる代わりに、幕府は天皇の権限を徹底的に制限しました。具体的には、「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」という法律を使って、天皇や公家の行動を厳しく監視しました。
また、幕府は「京都所司代」を設置し、天皇が勝手な行動を取らないように常に監視していました。
このように、幕府は天皇を滅ぼすのではなく、「利用しつつ管理する」ことで支配を続けたのです。
天皇の権威は幕末になると再び高まった
江戸時代を通して、天皇の政治的な影響力はほとんどありませんでした。
しかし、幕末になると状況が変わってきます。外国の圧力が強まるなか、「尊王攘夷(そんのうじょうい)」という考えが広まり、「天皇を中心に国を守ろう!」という動きが出てきたのです。
幕府が弱体化すると、倒幕派の勢力は「天皇の命令」として幕府を批判するようになりました。そして、1867年に「大政奉還(たいせいほうかん)」が行われ、江戸幕府は正式に天皇へ政権を返上しました。
このように、幕府が天皇を存続させたことで、結果的に幕府が滅びる要因の一つとなったのです。
総括:江戸時代に天皇何してたかまとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
江戸時代の天皇の生活と役割
- 天皇の主な仕事は神事と儀式
- 新嘗祭・大嘗祭などの神事を行い、五穀豊穣や天下泰平を祈る。
- 毎朝、伊勢神宮の方向を向き国の平和を祈るのが日課。
- 生活は幕府の支援によって安定
- 「禁裏御料」として3万石の収入があり、大名と同程度の財産を持つ。
- 参勤交代や土木工事の負担がなく、自由に使える資金は比較的多かった。
- 幕府の厳しい統制下に置かれていた
- 「禁中並公家諸法度」によって、政治への関与を禁止される。
- 「京都所司代」が監視し、幕府の許可なしに京都の外に出られなかった。
幕府が天皇を滅ぼさなかった理由
- 幕府の正当性を示すために必要だった
- 徳川家は「征夷大将軍」という地位を天皇から授かることで支配の正当性を確立した。
- 天皇を排除すると幕府の権威が失われ、政権の安定が揺らぐ可能性があった。
- 天皇を排除すると大名たちの反発を招く恐れがあった
- 西国大名や公家勢力の反発を避けるため、天皇を存続させる方が得策だった。
- 幕府は天皇を管理しながら利用した
- 天皇を存続させる代わりに、「禁中並公家諸法度」によって権限を制限。
- 京都所司代を設置し、天皇の行動を厳しく監視していた。
幕末に天皇の権威が再び高まった理由
- 「尊王攘夷」の思想が広まり、天皇を中心とする政治が求められた
- 幕府が弱体化し、倒幕派が「天皇の命令」を利用して幕府を批判した
- 1867年の「大政奉還」により、幕府は政権を天皇に返上し滅亡へ向かった