今日は「平塚らいてう(ひらつからいちょう)」がどんな人だったのか、子どもにも分かるようにやさしく解説していきます。

平塚らいてうは、日本で初めて「女性も一人の人間として、自立して生きるべきだ!」と声を上げた人なんですよ。

学校の授業でも出てくる「女性の権利」「参政権」「文芸誌」など、難しい言葉がたくさん出てくるテーマですが、安心してください。塾長と一緒に、一つひとつしっかり学んでいきましょう!

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平塚らいてうは何をした人か簡単に!女性解放運動のパイオニア

平塚らいてうは、日本の女性解放運動を牽引した先駆者であり、当時の社会に革命的な影響を与えた人物です。彼女の活動は、女性の社会的地位を向上させるだけでなく、現代にも通じる自由と平等の概念を広めました。

ここでは、彼女がどのような人物であり、どのような功績を残したのかについて簡単に解説します。

『青鞜』を創刊した人!女性の自立を訴える文芸誌を発行

平塚らいてうは、1911年に日本で初めて女性たちだけで作った文芸雑誌『青鞜(せいとう)』を創刊しました。この雑誌は、女の人が「自分の考えや気持ち」を自由に表現する場として、とても大きな意味をもちました。

当時は「女は家を守り、男に従うのが当たり前」とされていた時代です。そんな中で、女性だけの雑誌をつくり、堂々と「私たちも自由に生きたい!」と発信したのは、とても勇気のある行動だったのです。

『青鞜』には、詩や小説、エッセイなどが載っていて、平塚らいてうの思いを受け取った多くの女性が、次々と参加しました。この雑誌をきっかけに、日本の女性たちが「自分らしく生きること」に目を向けるようになったのです。

「元始、女性は太陽であった」で有名な女性思想家

『青鞜』の創刊号には、今でも有名な言葉が書かれています。それが「元始、女性は実に太陽であった」という言葉です。この意味は、「昔の女性は自分の力で輝いていた。でも今は男の人に頼らないと生きられない、そんな社会になってしまった。だから、もう一度太陽のように自分の力で輝こう!」という強いメッセージです。

この言葉を読んだ人たちは、とても驚きました。女性が「自分の力で生きよう」と主張するなんて、当時ではとても珍しいことだったからです。でも、このメッセージに勇気をもらった女性たちはたくさんいて、日本中に大きな影響を与えました。

平塚らいてうは、ただの作家ではありません。考え方や生き方を通して、社会を変えようとした「女性思想家(しそうか)」だったのです。

与謝野晶子と「母性保護論争」を展開し社会に影響を与えた人

平塚らいてうは、詩人の与謝野晶子(よさのあきこ)と「母性保護論争(ぼせいほごろんそう)」という有名な意見のぶつかり合いをしました。この議論は、「子どもを産んだ女性を社会がどう支えるべきか?」という、とても大切なテーマでした。

平塚らいてうは「妊娠・出産・育児をする女性は、国や社会がしっかり守るべきだ」と考えていました。これを「母性保護」と言います。一方の与謝野晶子は「女性は国家に守られるのではなく、もっと自由に働けるようになるべき」と主張しました。

この論争は、多くの人に注目されました。女性が社会でどんなふうに生きていくべきかを、国民全体が考えるきっかけになったのです。お互いに意見は違いましたが、どちらも「女性の未来を良くしたい」という思いは同じだったのですね。

市川房枝と「新婦人協会」を設立し女性の権利拡大に尽力

平塚らいてうは、1920年に市川房枝(いちかわふさえ)という女性活動家と一緒に、「新婦人協会(しんふじんきょうかい)」をつくりました。これは日本で最初の、女性のための社会運動団体です。

この協会の目標は、「女性も政治の場に参加できるようにすること」でした。当時の日本では、女性が集会で意見を言うことさえ禁じられていました。そこで平塚らいてうたちは、女性の発言の自由を求めて、治安警察法という法律の改正を目指したのです。

その活動が実り、1922年には女性も政治集会に参加できるようになります。これは日本の女性運動にとって、とても大きな一歩でした。平塚らいてうの行動力と勇気が、女性たちの未来を切り開いていったのです。

戦後も平和運動に参加し続けた不屈の社会運動家

戦後、日本は大きく変わります。新しい憲法ができて、女性にも「選挙権」があたえられました。平塚らいてうは、若いころから夢見ていた「女性の自立」が、少しずつ現実になったことをとてもよろこんでいました。

しかし、それだけで満足することなく、今度は「戦争のない社会をつくる」ために活動を始めます。原子力兵器に反対し、平和を守るためのデモにも参加しました。

年をとってからも、平塚らいてうはリボンをつけて「安保反対!」と書かれた旗をかかげ、行進に参加しました。85歳で亡くなるまで、ずっと社会のために声を上げ続けた姿は、多くの人に希望と勇気を与えました。

平塚らいてうは何をした人か簡単に:代表作や功績

ここからは、平塚らいてうがどんな作品を残し、どんな功績をあげたのかを、くわしく紹介していきます。また、今も語りつがれている名言や、ちょっとしたエピソードにもふれていきますので、楽しみに読んでくださいね。

女性だけで作られた革新的な文芸誌の内容

平塚らいてうの代表作といえば、やはり文芸雑誌『青鞜(せいとう)』です。この雑誌は、すべての編集・執筆・発行作業を女性だけで行った、当時としてはとても画期的なものでした。

『青鞜』の誌面では、小説・詩・評論など、女性の気持ちや考えを自由に表現できる場が用意されていました。女性が「自分の言葉」で社会に意見を伝える、そんな場所はそれまでありませんでした。だからこそ、多くの女性に希望を与えたのです。

ただし、自由な表現を嫌った人たちから批判され、発禁処分(はっきんしょぶん)になることもありました。それでも平塚らいてうたちは負けずに続け、5年間で約30号を発行。社会に大きな一歩を刻んだ雑誌となりました。

名言「元始、女性は太陽であった」に込められた本当の意味

平塚らいてうの名前といえば、必ず出てくるのがこの名言「元始、女性は太陽であった」です。この言葉は、『青鞜』の創刊号の冒頭に書かれていて、多くの人の心に深く残りました。

この言葉が意味するのは、「女性はもともと自分の力で輝く存在だった。でも今は、他人に頼らないと生きられない弱い存在になってしまっている」という、社会への強い批判です。

つまり、らいてうは「女性ももっと自立して、自分の意志で人生を切り開こう!」と呼びかけたかったのです。このメッセージは今も、性別に関係なく「自分らしく生きたい」と願うすべての人に届いています。

「治安警察法改正運動」の成功

大正時代、女性は政治的な集まりに参加することさえ禁じられていました。そんな中で平塚らいてうは、「これはおかしい!」と立ち上がります。市川房枝らとともに、「新婦人協会」を設立し、法律の改正を求めて活動しました。

その対象となったのが「治安警察法(ちあんけいさつほう)」という法律です。この法律のせいで、女性は政治について話したり、意見を言ったりすることができませんでした。

らいてうたちは、署名を集めたり、講演を行ったりして、女性の発言権を認めるように政府に働きかけます。そして1922年、ついに女性にも集会に参加して意見を言う自由が認められました。これは日本の女性運動における、はじめての大きな成果だったのです。

生活協同組合「我等の家」など消費者運動による社会改革

平塚らいてうは、女性の権利だけでなく、社会全体のあり方にも目を向けていました。彼女は生活の中から社会を変えようと考え、「消費者運動(しょうひしゃうんどう)」にも力を入れます。

その一つが、生活協同組合「我等の家(われらのいえ)」の設立です。この組合は、日用品をみんなで協力して安く買うという、いわゆる“生協(せいきょう)”のはしりのようなものでした。

この活動を通じて、らいてうは「消費者も社会をつくる力がある」ということを示しました。また、協同組合のような仕組みが広がることで、お金や権力だけが中心の社会から、みんなが支え合う社会へと変えていこうとしたのです。まさに、未来を見すえた先進的な考えでした。

生き方と最期|女性解放の夢は叶ったのか?

戦後、日本には新しい憲法ができ、女性にも参政権があたえられました。若いころから「女性にも選挙権を!」と叫んでいた平塚らいてうにとって、それは夢が叶った瞬間でした。

彼女は「自分の夢がかなった」と喜びながらも、「ここからが本当のスタートだ」と語っています。女性が自由に生きられる社会は、制度だけでは完成しないと考えていたのです。

晩年は、平和運動にも積極的に関わり、「戦争のない社会」「みんなが自由に生きられる世の中」を目指して活動しました。病気になってからもデモに参加し、最後まで行動し続けました。

1971年、85歳でこの世を去りましたが、その志は今も多くの人に受け継がれています。彼女の生き方は、「本当の自由」とは何かを考えさせてくれる、大切なメッセージを残してくれたのです。

総括:平塚らいてうは何をした人か簡単に解説まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

  • 日本初の女性文芸雑誌『青鞜(せいとう)』を創刊し、女性の自立を訴えた。
  • 名言「元始、女性は太陽であった」で有名になり、女性の地位向上を求めた。
  • 詩人・与謝野晶子と「母性保護論争」を展開し、女性の働き方や育児支援について議論した。
  • 市川房枝とともに「新婦人協会」を設立し、女性の政治参加を実現に導いた。
  • 治安警察法の改正運動により、女性にも集会への参加や発言の自由を勝ち取った。
  • 消費者運動「我等の家」を立ち上げ、協同組合による社会改革を目指した。
  • 戦後は平和運動に取り組み、反戦・反核・護憲を訴え続けた。
  • 晩年も「女性の本当の自由」の実現を目指し、最後まで行動し続けた社会運動家。