アフリカのほとんどの国は昔、ヨーロッパの国々に植民地にされていたことを知っていますか?でも、そんな中でエチオピアは独立を守り続けた国です。
「なぜエチオピアだけが植民地にならなかったの?」という疑問を持っている人も多いでしょう。
今回は、エチオピアの歴史を分かりやすく解説しながら、植民地にならなかった理由を詳しく紹介します!歴史のテストにも出やすいポイントなので、しっかり覚えておきましょうね!
エチオピアが植民地にならなかった理由

エチオピアが植民地にならなかったのには、いくつもの理由があります。他のアフリカ諸国と異なり、軍事力や地形、外交戦略を活かして独立を守ったのです。では、その詳しい理由を見ていきましょう!
エチオピアはなぜ植民地にならなかったのか?決定的な要因
エチオピアが植民地にならなかった最大の理由は、1896年のアドワの戦いでイタリア軍を撃退したことです。
当時のヨーロッパの国々はアフリカの土地を次々と奪い、植民地にしていました。しかし、エチオピアは違いました。エチオピアの皇帝メネリク2世は、ヨーロッパの国々とうまく交渉しながら、自国の軍隊を強化しました。
そして、イタリアがエチオピアを植民地にしようと攻めてきたとき、エチオピア軍は勇敢に戦い、イタリア軍を打ち負かしたのです。
さらに、エチオピアは地理的な要因も強みでした。険しい山々に囲まれていたため、外からの攻撃を防ぎやすい地形だったのです。これらの要因が組み合わさって、エチオピアは独立を守ることができました。
エチオピアが勝利した「アドワの戦い」とは
アドワの戦いは、エチオピアがイタリア軍に勝利した戦いです。1896年3月1日に行われ、エチオピアが植民地化を防ぐ決定的な出来事となりました。
この戦いでは、エチオピア軍が約10万人の兵士を集め、強力な戦略を立てました。一方、イタリア軍は約1万7千人しかおらず、さらに補給も不足していました。メネリク2世はフランスやロシアから武器を購入し、軍隊を近代化していたので、イタリア軍よりも強力だったのです。
イタリア軍は、エチオピア軍の大軍の前に次々と敗れていきました。そして、最終的には6000人以上の死傷者を出し大敗しました。この歴史的な勝利によって、エチオピアは正式に独立国として認められたのです。
地理的要因がエチオピアを守った?侵略を困難にした自然環境
エチオピアが植民地にならなかったもう一つの理由は地形の影響です。エチオピアは標高2000メートル以上の山岳地帯に位置し、外部からの攻撃を受けにくい国でした。
他のアフリカの国々は平地が多く、ヨーロッパの軍隊が簡単に侵略できました。しかし、エチオピアは山に囲まれていたため、軍隊を送り込むのが難しかったのです。さらに、戦い慣れたエチオピア軍にとって、この地形は有利な戦場になりました。
また、エチオピアは内陸国であり、海からの侵略も受けにくかったことも大きなポイントです。このように、エチオピアの自然環境そのものが防御の役割を果たしていたのです。
メネリク2世の外交手腕!列強の対立を利用して独立を維持
エチオピアの皇帝メネリク2世は、外交の達人でした。彼はヨーロッパの国々をうまく利用しながら、エチオピアの独立を守ったのです。
当時、ヨーロッパの国々は互いに植民地争いをしていました。例えば、フランスとイギリスはアフリカの領土問題で対立していたのです。メネリク2世はこの対立を利用し、フランスやロシアから武器を買い、イタリアと戦う準備を整えました。
さらに、メネリク2世はウッチャリ条約というイタリアとの条約を破棄し、イタリアの保護国になることを拒否しました。こうした巧みな外交戦略のおかげで、エチオピアは独立を維持できたのです。
エチオピアの独立はアフリカの希望
エチオピアの独立は、アフリカ全体にとってとても重要な出来事でした。なぜなら、ほとんどのアフリカの国々が植民地支配を受けていた中で、エチオピアは唯一の独立国だったからです。
エチオピアの勝利はアフリカの人々に希望を与えました。その後、多くのアフリカ諸国が独立運動を始めるきっかけになりました。また、1963年にはアフリカ統一機構(OAU)が設立され、その本部は エチオピアの首都アディスアベバ に置かれました。これは、エチオピアがアフリカの中で特別な存在だったことを示しています。
エチオピアは植民地にならなかっただけでなく、アフリカのリーダー的存在となり、多くの国々の独立を支えたのです。
エチオピアが植民地にならなかった理由:唯一の独立国

エチオピアはアフリカで唯一、植民地支配を受けなかった国です(リベリアも独立を保ちましたが、アメリカの影響下にありました)。
それでは、なぜエチオピアだけが独立を維持できたのでしょうか?その特異性と影響を詳しく解説します!
アフリカ分割と植民地支配の中でなぜエチオピアだけ独立できたのか?
19世紀後半から20世紀初頭、ヨーロッパの国々はアフリカの土地を奪い、植民地化を進めました。この動きを「アフリカ分割」と呼びます。
1884年~1885年に開かれたベルリン会議では、ヨーロッパ列強がアフリカの土地を自由に分割することが決められました。その結果、アフリカのほぼすべての国が植民地となりました。
しかし、エチオピアはこの波にのみ込まれませんでした。その理由はアドワの戦いでの勝利だけでなく、独自の文化や政治体制を長く保ち、国家としての強い団結があったことも大きな要因です。エチオピアは古くから強力な王国を築き上げており、国としてのまとまりがあったため、簡単に侵略されることはなかったのです。
キリスト教とエチオピア正教の存在が独立維持に貢献
エチオピアは、アフリカの中でも特に歴史が長い国であり、キリスト教が4世紀ごろから根付いていました。エチオピア正教という独自の宗教文化を持ち、ヨーロッパのキリスト教国とも一定のつながりを持っていたのです。
この宗教的なつながりがあったことで、ヨーロッパの国々はエチオピアに対して他のアフリカ諸国とは異なる視線を向けていました。特にロシアやフランスはエチオピアを支持し、武器の供与などの支援を行っていました。
これにより、エチオピアは強力な軍を持つことができ、独立を守ることができたのです。
イタリアの2度目の侵略「第二次イタリア=エチオピア戦争」とは?
エチオピアは一度はイタリアの侵略を防ぎましたが、1935年にムッソリーニ率いるイタリアが再びエチオピアを侵略しました。これが第二次イタリア=エチオピア戦争です。
イタリアは当時、軍事力を増強し、エチオピアを完全に植民地化しようとしました。1936年にはエチオピアの首都アディスアベバを占領 し、一時的にイタリアの支配下に置かれました。しかし、エチオピアの人々は激しいレジスタンス(抵抗運動)を展開し、1941年にはイギリスの支援も受けてイタリア軍を追い出すことに成功しました。
この戦争によって、エチオピアの人々は大きな犠牲を払いましたが、最終的には独立を取り戻しました。このことからも、エチオピアがどれほど強い独立心 を持っていたかが分かります。
エチオピアがアフリカ独立運動の象徴になった理由とは?
エチオピアはアフリカで唯一の独立国だったため、他のアフリカ諸国の独立運動に大きな影響を与えました。
特に、エチオピアの皇帝ハイレ・セラシエ1世は、アフリカ全体の団結を呼びかけました。彼は「アフリカの団結なくして真の自由はない」と訴え、1963年にはアフリカ統一機構(OAU、現在のアフリカ連合)を設立しました。
この機関の本部はエチオピアの首都アディスアベバに置かれ、エチオピアはアフリカ独立の象徴的な国となりました。
エチオピアの存在があったからこそ、アフリカの他の国々も独立を目指すことができたのです。
エチオピアの独立が現代に与えた影響とは?
エチオピアが独立を維持したことは、現在の世界にも大きな影響を与えています。例えば、国際社会において「アフリカのリーダー」としての役割を果たしていることが挙げられます。
また、エチオピアの独立はアフリカのアイデンティティの象徴となり、多くのアフリカ諸国が自国の歴史や文化を見直すきっかけになりました。さらに、現在のアフリカ連合(AU)の設立や、アフリカ全体の国際的な影響力の向上にもつながっています。
このように、エチオピアの独立はアフリカの未来にもつながる重要な出来事だったのです。
総括:エチオピアが植民地にならなかった理由まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- アドワの戦いで勝利(1896年)
- メネリク2世率いるエチオピア軍が、イタリア軍を撃退し、独立を維持。
- フランスやロシアから武器を調達し、軍隊を強化していた。
- 地理的要因(山岳地帯)
- 標高2000m以上の山岳地帯に囲まれ、外部からの侵略が困難だった。
- 海に面していないため、海上からの攻撃も受けにくかった。
- メネリク2世の巧みな外交戦略
- 列強間の対立を利用し、フランスやロシアと同盟を結び、武器を購入。
- ウッチャリ条約を破棄し、イタリアの支配を拒否。
- エチオピア正教とキリスト教の影響
- 4世紀からキリスト教が根付いており、ヨーロッパのキリスト教国と一定のつながりを持つ。
- ヨーロッパ列強の中にはエチオピアを支援する国もあった(ロシア・フランスなど)。
- 第二次イタリア=エチオピア戦争(1935年~1941年)
- 一時的にイタリアの占領を受けるも、1941年にイギリスの支援を受け独立を回復。
- 激しいレジスタンス(抵抗運動)が行われた。
- アフリカ独立運動への影響
- エチオピアの独立維持はアフリカ諸国の希望となり、多くの国が独立を目指すきっかけとなった。
- 1963年、アフリカ統一機構(OAU、現アフリカ連合)の設立を主導。
- 現代への影響
- 「アフリカのリーダー」として国際社会で重要な役割を果たしている。
- アフリカ諸国のアイデンティティや歴史認識の象徴となっている。