今日は江戸時代に起こった「フェートン号事件」について、塾長の私がわかりやすく解説していきます。

この事件は、外国船が日本にやってきたことで大混乱を招いた出来事です。当時の幕府は鎖国をしていましたが、突然やってきた外国船にどう対応したのでしょうか?

事件の背景から影響まで、詳しく見ていきましょう!

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フェートン号事件をわかりやすく!なぜ起きた?幕府の対応

フェートン号事件は、1808年に日本の長崎で発生した歴史的な事件で、当時鎖国状態だった日本に外国の軍艦が突然現れるという衝撃的な出来事でした。

この事件が引き起こした混乱と、その後の日本政府の対応について詳しく解説していきます。

フェートン号事件とは?簡単に解説!

フェートン号事件とは、1808年(文化5年)にイギリス軍艦「フェートン号」が長崎港に侵入し、日本の幕府が大混乱した事件です。当時の日本は「鎖国」といって、限られた国としか貿易をしていませんでした。そのため、イギリスの軍艦がいきなりやってきたことは、幕府にとって大問題でした。

フェートン号は、オランダ船のふりをして長崎に入り、出島にいたオランダ商館員2人を拉致しました。そして、日本に対して「食料と水をよこさなければ攻撃するぞ」と脅したのです。このとき、長崎を守っていた長崎奉行・松平康英(まつだいらやすひで)は対応に苦しみました。結局、日本側はフェートン号の要求を受け入れ、食料を渡すことで解決しました。

この事件で、日本には直接的な被害はありませんでしたが、幕府の威信は大きく傷つきました。そして、この事件がきっかけで「異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)」という新しい法律が作られることになります。

フェートン号事件の原因とは?ナポレオン戦争と日本の関係

この事件の大きな原因は、ヨーロッパで起こっていた「ナポレオン戦争」です。フランス革命(1789年)の後、フランスではナポレオンという皇帝が国を支配するようになりました。そして、フランスはオランダを支配下に置き、オランダの王様はイギリスへ逃げてしまいました。

オランダがフランスの仲間になったことで、イギリスとオランダは敵同士になりました。イギリスはオランダの貿易を邪魔するために、オランダ船を襲い、貿易を妨害しようとしました。その一環で、日本の長崎にもやってきたのです。

イギリスの目的は、日本を攻撃することではなく、オランダの貿易船を捕まえることでした。しかし、日本はオランダと貿易をしていたため、長崎でオランダ船が停泊している可能性があると考えられました。そこで、イギリスはフェートン号を派遣し、オランダ船を拿捕(だほ:捕まえること)しようとしたのです。

つまり、日本にとっては「外国同士の争いに巻き込まれた事件」だったのです。しかし、幕府にとっては「鎖国しているのに外国船が自由に出入りしてしまった」という大問題でもありました。

フェートン号事件の経過!イギリス軍艦の要求と長崎奉行の苦悩

フェートン号は、長崎港に入るとすぐにオランダ国旗を掲げてオランダ船のふりをしました。出島にいたオランダ商館員たちは、それを本物のオランダ船だと思い、迎えに行きました。しかし、フェートン号は武装した兵士たちを送り込み、オランダ商館員2人を拉致したのです。

この報告を受けた長崎奉行・松平康英は大慌てしました。フェートン号は「食料と水をよこさなければ、港を攻撃する」と脅してきました。しかし、当時の長崎の警備は非常に手薄で、フェートン号に対抗する十分な兵力はありませんでした。なぜなら、長崎の警備を担当していた佐賀藩が勝手に兵の数を減らしてしまっていたからです。

松平康英はすぐに他の藩に援軍を頼みましたが、すぐには間に合いません。そこで、時間を稼ぐために、まずは少しだけ食料を渡し、「明日にはすべて用意できる」と伝えました。イギリス側はそれを受け入れ、しばらく待つことにしました。しかし、翌日になっても援軍は到着せず、結局、日本側はフェートン号の要求をすべて受け入れ、人質を取り戻すことになりました。

その後、フェートン号は長崎を離れていきましたが、松平康英は「日本の威信を傷つけた」として責任を感じ、自ら切腹しました。

フェートン号事件の影響!異国船打払令の制定と幕府の防衛強化

フェートン号事件は、日本の外交政策に大きな影響を与えました。特に幕府は「外国船に対してもっと厳しく対応しなければならない」と考えるようになりました。その結果、1825年に「異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)」が制定されました。

この法律では、「外国船が日本の沿岸に現れた場合、理由を問わずに攻撃して追い払え」という命令が出されました。つまり、これまでのように話し合いや交渉をするのではなく、最初から武力で対応する方針に変わったのです。

また、幕府は長崎の警備を強化し、外国船が簡単に侵入できないようにしました。特に、フェートン号事件で大きな失敗をした佐賀藩は、その後、近代化を進め、大砲製造など軍事力を強化していきました。幕府はこの事件を教訓にして、日本の防衛体制を見直すことになったのです。

フェートン号事件を分かりやすく:幕府や諸藩の対応とその後

フェートン号事件は単なる「外国船の侵入事件」ではなく、日本の幕府や各藩に大きな影響を与えました。この事件をきっかけに、幕府はより強硬な外交政策をとるようになり、各藩も軍事力の強化を進めました。

ここでは、フェートン号事件後の幕府の対応や、長崎警備を担当していた佐賀藩の動きを詳しく見ていきましょう。

長崎奉行・松平康英の決断!武士の誇りと切腹

フェートン号事件の最大の被害者ともいえるのが、長崎奉行の松平康英(まつだいらやすひで)です。彼は「日本の威信を守るために戦うべきだ」と考えましたが、圧倒的な戦力差や人質の存在を考慮し、イギリスの要求を受け入れるしかありませんでした。

しかし、この決断は幕府にとって「外国船の脅しに屈した」と見られ、大きな問題となりました。幕府の威信を守るため、松平康英は「自らの命をもって責任を取る」として切腹しました。享年41歳。彼の遺書には「この恥辱は幕府の不備が招いたものだが、自分が責任を負う」と記されていました。

松平康英の死は、武士の名誉を守るためのものであり、彼の忠誠心と責任感の強さを示しています。そのため、長崎の人々は彼を「図書明神(ずしょみょうじん)」として祀り、長崎の歴史に名を刻むことになったのです。

佐賀藩の改革!近代化のきっかけとなったフェートン号事件

フェートン号事件が起きた当時、長崎の警備を担当していたのは佐賀藩でした。しかし、佐賀藩は「オランダ船は来ないだろう」と勝手に判断し、警備兵を大幅に減らしていました。その結果、長崎にはわずか100名ほどの兵しかおらず、フェートン号に対抗することができませんでした。

この不手際により、佐賀藩の家老数名が責任を取って切腹し、藩主・鍋島斉直(なべしまなりなお)も100日間の閉門処分を受けました。しかし、佐賀藩はこの失敗を教訓とし、大きく生まれ変わることになります。

1830年、鍋島直正(なべしまなおまさ)が藩主になると、佐賀藩は軍事改革を開始しました。反射炉を建設し、西洋式の大砲を作るなど、近代的な兵器開発に力を入れました。その結果、幕末には薩摩藩や長州藩と並び、「四賢侯(しけんこう)」と称される有力藩となり、明治維新の原動力のひとつとなったのです。

異国船打払令の制定!幕府の強硬な外交政策

フェートン号事件の衝撃は、幕府の外交政策を大きく変えるきっかけとなりました。幕府は「日本の沿岸に外国船が現れた場合、理由を問わず攻撃せよ」という「異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)」を1825年に制定しました。

この法律により、鎖国政策がさらに厳しくなり、外国船に対する攻撃が正当化されました。しかし、この強硬策は後に大きな問題を引き起こします。1837年に起きた「モリソン号事件」では、日本人漂流民を送り届けようとしたアメリカ船が、日本の砲撃を受けて追い返されました。これにより、日本の対応が「非人道的だ」と海外から批判されることになりました。

結果的に、幕府は1842年に異国船打払令を廃止し、外国船に対して燃料や水を提供する「薪水給与令(しんすいきゅうよれい)」へと方針転換しました。これは、フェートン号事件の経験が長い時間をかけて、日本の外交政策を変えていった証拠でもあります。

フェートン号事件が幕末の開国につながる?

フェートン号事件は、直接的には日本の開国にはつながりませんでしたが、結果的に日本の外交政策を大きく変えるきっかけになりました。幕府はこの事件を機に、「もっとしっかりした防衛体制を作らなければならない」と考えるようになりました。

その後、ペリーが来航する1853年までの間に、日本沿岸には台場(砲台)が作られ、西洋の軍事技術を学ぶ動きが出てきました。また、佐賀藩のように軍事力を高めた藩も増え、幕末の日本は次第に「外国と戦える力」を持つようになっていったのです。

もしフェートン号事件がなければ、幕府は開国に向けた準備をすることもなく、さらに不利な状況で外国と向き合うことになっていたかもしれません。そう考えると、この事件は日本の近代化の第一歩だったともいえます。

総括:フェートン号事件をわかりやすく解説まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

事件の概要

  • 1808年(文化5年)、イギリス軍艦「フェートン号」が長崎港に侵入し、日本を混乱させた。
  • 当時の日本は鎖国政策を実施し、限られた国としか貿易をしていなかった。
  • フェートン号はオランダ船のふりをして入港し、出島のオランダ商館員2人を拉致した。
  • イギリスは食料と水を要求し、拒否すれば攻撃すると脅迫。
  • 長崎奉行・松平康英は対応に苦しみ、結局要求を受け入れた。

事件の背景

  • フェートン号事件の原因はヨーロッパで起こった「ナポレオン戦争」
  • フランスがオランダを支配し、イギリスとオランダが敵対。
  • イギリスはオランダ船を拿捕しようとし、日本にも侵入。

幕府の対応

  • 長崎の警備を担当していた佐賀藩が兵力を勝手に削減していたため、対抗できず。
  • 長崎奉行・松平康英は他の藩に援軍を求めるが間に合わず、イギリスの要求を受け入れる。
  • 事件後、松平康英は「幕府の威信を傷つけた責任」を取り、切腹した。

事件の影響

  • 1825年に「異国船打払令」制定(外国船を理由なく攻撃する方針)。
  • 佐賀藩が軍事改革を開始し、大砲製造・反射炉建設など近代化を進めた。
  • 幕府は防衛強化を進め、日本の外交方針をより強硬にした。
  • 幕末の開国のきっかけとなり、日本の近代化の第一歩となる。