今日は、江戸時代に出された「異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)」について分かりやすく解説します。
この法令は、日本に近づく外国船を撃退するよう命じたものですが、いったい誰が出したのでしょうか?また、なぜそんな厳しいルールが必要だったのでしょうか?
この記事では、異国船打払令を出した将軍や老中、発布の背景や影響まで詳しく解説していきます。テストにもよく出る内容なので、しっかり学んでいきましょう!
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異国船打払令は誰が出した?将軍や老中を詳しく解説
異国船打払令は、江戸時代後期の1825年(文政8年)に発布された法令です。当時の日本は「鎖国(さこく)」といって、外国との交流を厳しく制限していました。
しかし、外国船がしつこく日本にやってくるようになり、幕府は対応に困っていました。その結果、幕府は「もう話し合いはしない!外国船が来たらすぐに追い払え!」という方針を決めたのです。
では、この異国船打払令を決めたのは誰なのでしょうか?一緒に見ていきましょう!
異国船打払令を出したのは徳川家斉!発布時の将軍を確認
異国船打払令を出した時の将軍は、第11代将軍・徳川家斉(とくがわいえなり)です。
徳川家斉は、なんと50年以上も将軍の座についていた長期政権の人物です。しかし、この頃の日本では、将軍が全ての決定をしていたわけではありません。実際に政策を決めていたのは「老中(ろうじゅう)」と呼ばれる幕府の高官たちです。
将軍・家斉は、多くの子どもを持ち、贅沢な生活をしていたことでも知られています。そのため政治の実権は老中たちが握っており、異国船打払令も彼らの判断によって決められました。
異国船打払令を決定したのは誰?当時の老中を紹介
実際に異国船打払令を決めたのは、当時の老中たちです。
1825年に老中を務めていたのは、青山忠裕(あおやまただひろ)、松平乗保(まつだいらのりやす)、酒井忠進(さかいただゆき)、水野忠成(みずのただなり)、大久保忠真(おおくぼただざね)などです。
この時代の老中は、日本近海に次々と現れる外国船に対して「何とかしなければ!」と考えていました。そして、外国船に対する強硬策として、異国船打払令を発布することに決めたのです。
異国船打払令が出された具体的な日付は?
異国船打払令が正式に発布されたのは1825年(文政8年)2月18日です。この日は、幕府が「これからは外国船を撃退せよ!」と全国の藩に通達を出した日になります。
なぜこの日なのかというと、それまでに何度も外国船の来航があり、日本の安全が脅かされていたからです。特に、1824年の「大津浜事件」や「宝島事件」では、イギリス人が日本に上陸し、地元の人々とトラブルを起こしました。
こうした事件を受けて、幕府はついに「もう甘い対応はしない!」と決断したのです。
異国船打払令の別名とは?試験で役立つ知識を整理
異国船打払令には、他にもいくつかの呼び方があります。その一つが「無二念打払令(むにねんうちはらいれい)」です。
「無二念(むにねん)」とは、「迷わず、ためらわず」という意味です。つまり、「外国船が来たら、迷わず撃て!」という強い意志を込めた名前なのです。
この法令は、外国船に対して「もう交渉の余地はない!」という幕府の姿勢をはっきりと示したものでした。テストにも出る可能性が高いので、この別名もしっかり覚えておきましょう!
語呂合わせで覚える異国船打払令の発布年「一発ゴーン(1825)」
歴史の年号を覚えるのは大変ですよね。でも、語呂合わせを使えば簡単に覚えられます!
異国船打払令が出された1825年 は、「一発ゴーン(1825)」という語呂合わせで覚えましょう!「一発(18)」→「砲撃の音(25)」→「ゴーン!」というイメージです。
これで、1825年に外国船を撃退する法令が出されたことをしっかり記憶できますね!
異国船打払令はいつ・なぜ出された?背景や影響
異国船打払令が発布された背景には、江戸時代後期に日本近海に次々と現れる外国船の存在がありました。特に、イギリスやロシア、アメリカの船が頻繁に来航し、通商を求めてきたことが幕府にとって大きな脅威となったのです。
では、幕府はなぜ異国船打払令を出す必要があったのでしょうか?その理由や影響について詳しく見ていきましょう!
異国船打払令はいつ出された?発布の背景を時系列で整理
異国船打払令が発布されるまでの流れを、時系列で整理すると以下のようになります。
- 1808年(文化5年):フェートン号事件
→ イギリス軍艦「フェートン号」が長崎に侵入し、日本に圧力をかける。 - 1811年(文化8年):ゴローニン事件
→ ロシアの軍人ゴローニンが日本に捕らえられるが、後に解放される。 - 1824年(文政7年):大津浜事件・宝島事件
→ イギリス人が日本に上陸し、地元の人々とトラブルを起こす。 - 1825年(文政8年):異国船打払令発布
→ 幕府が「外国船を見つけ次第、撃退せよ」と命じる。
このように、異国船打払令は、外国の脅威が次第に高まっていく中で発布されたことが分かります。
異国船打払令はなぜ必要だった?幕府の危機感とは
幕府が異国船打払令を発布した大きな理由は、「鎖国を守るため」と「日本を外国の侵略から守るため」の2つです。
① 鎖国を守るため
江戸時代の日本は、「鎖国政策(さこくせいさく)」によって、オランダ・中国・朝鮮・琉球王国以外の国との交流を禁止していました。しかし、イギリスやアメリカは日本と貿易をしたいと考え、何度も接触を試みていました。幕府はこれを断固拒否し、「外国とは交渉しない」という姿勢を示すために異国船打払令を出したのです。
② 外国の侵略から守るため
幕府は、ロシアやイギリスの軍事力に対して強い警戒心を抱いていました。特に、ロシアが樺太(からふと)や千島列島に進出していることは、日本の安全にとって大きな脅威でした。そのため、「日本の沿岸に近づく外国船は、すぐに撃退する!」という強い姿勢を打ち出したのです。
異国船打払令の内容とは?オランダ・中国船は例外だった!
異国船打払令は、基本的に「日本沿岸に近づいた外国船を、無条件で砲撃して追い払う」というものです。しかし、例外がありました。それがオランダ船と中国船です。
オランダと中国は、江戸時代を通じて日本と貿易を続けていたため、幕府は「この2カ国の船だけは長崎での貿易を許可する」としていました。そのため、異国船打払令の対象からは外されていました。
一方で、イギリスやアメリカ、ロシアなどの国の船は例外なく砲撃の対象とされ、もし船員が上陸した場合は「拘束するか、斬り捨てる」という厳しい対応が求められました。
異国船打払令の影響と問題点とは?モリソン号事件を例に解説
異国船打払令が実施されたことで、外国船とのトラブルはますます増えていきました。特に有名なのが「モリソン号事件(1837年)」です。
モリソン号事件とは?
アメリカの商船「モリソン号」は、漂流していた日本人を送り届けるために来航しました。しかし、日本側は異国船打払令に従い、モリソン号に砲撃を加えました。これにより、日本人を助けようとしたアメリカ側は大きなショックを受け、日本に対する不信感を強めることになりました。
また、日本国内でも「この対応は間違っているのでは?」という批判が高まりました。蘭学者の高野長英(たかのちょうえい)や渡辺崋山(わたなべかざん)などの知識人たちは、幕府の外交方針を批判しましたが、逆に弾圧されてしまいました(これが「蛮社の獄(ばんしゃのごく)」です)。
このように、異国船打払令は一時的な対策としては機能しましたが、長期的には「日本はこのままで良いのか?」という議論を引き起こすきっかけとなったのです。
異国船打払令の撤回!天保の薪水給与令との関係を解説
異国船打払令は、結局1842年(天保13年)に廃止されました。そのきっかけとなったのが、「アヘン戦争(1840年〜1842年)」です。
アヘン戦争では、中国(清)がイギリスに大敗しました。これを知った幕府は、「日本もイギリスと戦ったら負けてしまうかもしれない…」と考え始めます。そして、異国船打払令の厳しすぎる対応を見直し、新たに「天保の薪水給与令(てんぽうのしんすいきゅうよれい)」を発布しました。
この法令では「外国船が遭難した場合に限り、薪(たきぎ)や水、食料を与えて退去させる」という柔軟な対応が取られることになりました。これにより、日本は少しずつ「開国」に向けて動き始めることになります。
総括:異国船打払令は誰が出したかまとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 異国船打払令の発布(1825年)
- 幕府が外国船を無条件で砲撃・撃退する法令を制定。
- 第11代将軍・徳川家斉の時代に出されたが、実際に決定したのは老中たち。
- 主要な老中には青山忠裕、松平乗保、酒井忠進、水野忠成、大久保忠真などがいた。
- 発布の背景
- 幕末にかけて外国船の来航が増加し、日本の鎖国政策が脅かされる。
- フェートン号事件(1808年)やゴローニン事件(1811年)が発生。
- 大津浜事件・宝島事件(1824年)を受け、幕府が対応を強化。
- 法令の内容と対象
- 日本沿岸に接近した外国船は即時砲撃。
- 上陸した外国人は拘束・処罰。
- オランダ・中国の船は例外として、貿易を許可。
- 異国船打払令の影響
- モリソン号事件(1837年)で、アメリカ船を誤って攻撃し、国際的な批判を招く。
- 幕府の外交政策に対する批判が高まり、知識人の高野長英・渡辺崋山が処罰(蛮社の獄)。
- 異国船打払令の廃止(1842年)
- アヘン戦争(1840年~1842年)で清(中国)がイギリスに敗北。
- 幕府は西洋の軍事力の脅威を認識し、法令を廃止。
- 「天保の薪水給与令」を発布し、遭難した外国船に限り燃料や食料の提供を許可。