今回は、護憲運動とは何か簡単にお伝えします。歴史の中でも重要なこの運動について、子どもでもわかるように優しく解説していきます。

「いつ起こったの?」
「なぜそんな運動が必要だったの?」


という疑問にもしっかり答えますので、学校のテスト対策にもぴったりです。さあ、いっしょに学んでいきましょう!

護憲運動とは簡単にいうと何か?いつなぜ起きたのか

護憲運動は、日本の政治が「国民の声を反映するもの」に変わるために、非常に重要な役割を果たしました。この運動がいつ、なぜ起こったのかを理解することで、今の政治の根本にある「立憲政治」の重要性が見えてきます。まずは、護憲運動がどんなものだったのか、簡単に解説します。

護憲運動とは「憲法に基づいた政治を守る運動」

護憲運動(ごけんうんどう)とは、簡単にいうと「憲法を守って、ちゃんとしたルールのある政治をしよう!」という運動のことです。

昔の日本では、総理大臣や政治のリーダーが、国民の声をあまり聞かず、勝手に決めごとをすることがありました。これを「超然主義(ちょうぜんしゅぎ)」といいます。そんな中で、「国民の声をもっと大事にしよう」「ちゃんとルール(憲法)にしたがって政治をしよう」という考えが広まり、護憲運動が始まりました。

この運動は、2回にわたって行われました。1912年ごろの第一次護憲運動と、1924年ごろの第二次護憲運動です。どちらも、国民の気持ちを政治に反映させたいという願いから始まりました。

いつ起きた?第一次と第二次の時期を年表で整理

護憲運動は2つの大きな時期に分かれています。

  • 第一次護憲運動:1912年〜1913年ごろ(大正元年〜2年)
  • 第二次護憲運動:1924年(大正13年)

第一次は、第三次桂太郎内閣という「国民の意見を無視した内閣」に対して怒った国民や政治家たちが立ち上がったことがきっかけです。そして、そのあと第一次世界大戦(1914〜1918年)があり、国民の中では「もっとみんなに選挙権を!」という声が高まりました。これが普通選挙運動です。

第二次護憲運動は、その普通選挙運動の流れの中で、もう一度「国民の意見を大事にする政治にしよう!」と政党が中心になって始まった運動です。特に1923年の関東大震災のあと、非立憲的な清浦奎吾内閣が誕生したことがきっかけでした。

なぜ起こった?背景には超然主義と民意の対立

護憲運動が起こった一番の理由は、当時の内閣が「民意(国民の声)」を無視していたからです。たとえば、桂太郎や清浦奎吾(きようらけいご)といった総理大臣は、選挙で選ばれたわけではなく、天皇にえらばれて突然首相になりました。

こうしたやり方を「超然主義(ちょうぜんしゅぎ)」といいます。「私は偉いから、みんなの声なんて関係ない」と言わんばかりの政治ですね。これに対して、「国民の意見をちゃんと聞く政治に変えよう」という流れが生まれたのです。

また、当時は選挙で投票できる人がとても少なく、お金持ちの男性だけでした。多くの人たちは「自分の意見を政治に伝える手段がない」と感じていました。こうした不満が積み重なり、護憲運動へとつながったのです。

第一次護憲運動とは

第一次護憲運動が始まったのは1912年、第三次桂太郎内閣ができたときです。この内閣は、政党の意見を無視してつくられたもので、国民から「また勝手に政治を決めるのか!」と反発されました。

そこで、犬養毅(いぬかいつよし)や尾崎行雄(おざきゆきお)といった政治家が中心になり、各地で演説会を開きました。「憲政(けんせい)を守れ!」「閥族(ばつぞく)政治をやめろ!」と訴え、都市に住む人々もこれに賛成してデモや抗議活動を行いました。

この運動によって、桂太郎内閣は1か月ほどで倒れました。国民の声が政治を動かした大きな一歩です。しかし、このときはまだ「普通選挙」は実現せず、ほんの少しだけ民意が反映されたにすぎませんでした。

第二次護憲運動とは

第二次護憲運動は、1924年に起こった運動です。今度は国民だけでなく、政党が中心となって活動しました。

きっかけは、清浦奎吾が貴族院の力を借りて内閣をつくり、国会を軽視するような「超然内閣」を行ったことです。これに対して、政友会(高橋是清)、憲政会(加藤高明)、革新倶楽部(犬養毅)の3つの政党が手を組み、「護憲三派」として反対しました。

この三派は「憲政擁護、普選断行、貴族院改革」というスローガンを掲げて選挙に挑み、見事に勝利しました。そして、加藤高明が首相となり、1925年にはついに普通選挙法が成立します。

ただし、このとき同時に「治安維持法」も作られました。これは「今の政治に反対する人を厳しく取り締まる」という内容で、自由と制限がセットになった政策だったのです。

護憲運動とは何か簡単に:意味とその後の影響

護憲運動は、ただの「政治に反対する運動」ではありませんでした。それは、日本の政治が「国民の声を反映するもの」へと変わっていくための、大きな転換点だったのです。

ここからは、護憲運動が歴史の中でどんな意味を持っていたのか、そしてその後の影響について、やさしく解説していきます。

護憲運動の意味

護憲運動の「護憲」とは、文字通り「憲法を守る」ことです。でも、もっと正確にいうと「国民の声を反映した政治(=立憲政治)を守ること」が目的でした。

このときの日本では、まだ天皇の力が強く、政府が勝手に内閣を決める「超然主義」が続いていました。しかし、それに対して「政治は国民の意見をもとに進めるべきだ」という新しい考え方が出てきたのです。

このような考えは「民本主義(みんぽんしゅぎ)」と呼ばれました。民本主義は、吉野作造(よしのさくぞう)という学者が提唱し、「民意=国民の考えを尊重しよう」という思想です。

つまり、護憲運動は「天皇やお偉いさんの言いなりではなく、みんなの声で政治を動かそう!」という、日本の民主主義のはじまりともいえる重要な運動だったのです。

護憲運動と普通選挙の関係

護憲運動と「普通選挙」は、とても深い関係にあります。

もともと日本では、お金持ちの男性しか選挙に参加できませんでした。最初のころは、直接国税15円以上を納めている25歳以上の男子だけが投票できたのです。これは、全人口のたった1.1%にすぎませんでした。

でも、第一次世界大戦後の不景気や米騒動、そして労働運動などが広がる中で、「もっと多くの人が政治に参加できるべきだ!」という声が強くなりました。

その流れの中で、第二次護憲運動が起こり、1925年に普通選挙法が成立します。これによって、25歳以上の男子すべてに選挙権が与えられるようになったのです。これは、日本の民主主義の大きな一歩でした。護憲運動は、民意の力で政治のルールを変えた、まさに「歴史を動かした運動」だったのです。

護憲運動と治安維持法の関係

普通選挙法と同じ年、1925年にはもうひとつ重要な法律ができました。それが「治安維持法(ちあんいじほう)」です。

治安維持法とは、「今の政治の仕組みを変えようとする思想や運動を取り締まる」ための法律です。とくに、社会主義や共産主義のような、政府に反対する考えを持った人たちを厳しく取り締まりました。

この法律が作られた背景には、1922年のロシア革命や、日本国内でも広まりつつあった労働運動・農民運動などへの不安がありました。

政党のリーダーたちは「今のうちに国民の不満をうまく取り込まないと、社会が不安定になる」と考えていました。そこで、普通選挙というアメ(ごほうび)と、治安維持法というムチ(制限)をセットにして、国民を「善導」しようとしたのです。

このように、護憲運動の成果には、自由の広がりと同時に、新しい制限もついてきたという複雑な一面があるのです。

第一次と第二次護憲運動の違い

護憲運動には、第一次と第二次の2回がありますが、それぞれの特徴はけっこう違います。

比較ポイント第一次護憲運動第二次護憲運動
時期1912年~1913年1924年
参加者民衆(都市市民)中心議会政党(憲政会など)中心
目的閣僚の勝手な政治に反対普通選挙と政党内閣の実現
手段デモ・演説・新聞攻撃など政党選挙・議会での対決
民衆の関与非常に強いあまり広がらず政党主導

第一次は、犬養毅や尾崎行雄の演説に市民が熱狂し、まさに「民衆の力」で政治を動かしました。一方、第二次は「政党の力」で内閣を倒し、普通選挙法を成立させるという、もっとおだやかで議会中心の動きでした。

このように、どちらの運動も政治を変える大事な出来事でしたが、アプローチのしかたや参加者の顔ぶれは大きく違っていたのです。

護憲運動の影響:政党政治と戦前日本の変化をまとめ

護憲運動の最大の成果は、「政党内閣」が日本のあたりまえになったことです。
とくに第二次護憲運動のあと、加藤高明内閣をきっかけに、8年間にわたって政党内閣が続くことになります。これを「憲政の常道(けんせいのじょうどう)」といいます。

「憲政の常道」とは、「総理大臣は、選挙で勝った政党のリーダーがやるべきだ」という、今では当たり前のルールです。護憲運動は、この考え方を日本に根づかせた運動だったのです。

しかし、その後の日本は、しだいに軍部(軍隊のえらい人たち)の力が強くなっていきます。1930年代には政党政治が弱まり、軍人が首相になるような時代が始まります。

でも、戦前の短いあいだでも、国民の声で政治を動かした護憲運動の経験は、のちの日本国憲法や戦後の民主主義にもつながっている大切な歴史です。

総括:護憲運動とは何か簡単に解説まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

  • 護憲運動とは:「憲法に基づいた政治(立憲政治)を守ろう」という運動のこと。
  • 起こった時期
    • 第一次護憲運動:1912年〜1913年(第三次桂内閣に反発)
    • 第二次護憲運動:1924年(清浦内閣に反発)
  • なぜ起こった?
    • 民意を無視する内閣(超然主義)への反発
    • 選挙権が一部の人にしかなかったことへの不満
  • 第一次護憲運動の特徴
    • 犬養毅・尾崎行雄らが民衆とともに運動
    • 「憲政擁護・閥族打破」をスローガンに展開
  • 第二次護憲運動の特徴
    • 政党(護憲三派)が中心
    • 選挙で勝利し、普通選挙法を実現
    • 同時に治安維持法も制定された
  • 護憲運動の意味
    • 国民の声を政治に反映させようという動き(民本主義)
    • 民主主義のスタート地点
  • 護憲運動と普通選挙の関係
    • 運動の結果、1925年に25歳以上の男子に選挙権が与えられた
  • 護憲運動と治安維持法の関係
    • 普通選挙と同時に反体制を取り締まる法律も成立(自由と制限のセット)
  • 第一次と第二次の違い
    • 第一次は民衆中心、第二次は政党中心
    • 手段や広がり方にも違いあり
  • その後の影響
    • 政党内閣が8年間続く「憲政の常道」が定着
    • 戦後の民主主義につながる重要な歴史