今回は「日比谷焼き討ち事件(ひびややきうちじけん)」という歴史の大事件について、分かりやすく解説していきます。
この事件は明治時代に起こった、今でいう「大規模なデモ」や「暴動」のようなもので、多くの人が怒り、建物をこわしてしまったのです。
では、なぜそんなことが起きたのでしょうか?
それは、日露戦争に勝ったのに、思ったようなごほうび(賠償金など)がもらえなかったからです。でも、それだけではありません。国民の怒りにはいろいろな理由がありました。
一緒に順番に見ていきましょう!
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日比谷焼き討ち事件はなぜ起きたのか?原因をわかりやすく
日比谷焼き討ち事件が起きたのはポーツマス条約への不満から
日比谷焼き討ち事件が起きた一番大きな理由は、「ポーツマス条約(こうわじょうやく)」への不満です。
1904年から1905年にかけて、日本はロシアと「日露戦争(にちろせんそう)」という戦争をしていました。この戦争では、日本が海でも陸でも勝利しました。国民は「これでお金(賠償金)や土地をたくさんもらえるぞ!」と期待していたのです。
しかし、戦争の終わりにアメリカの仲立ちで結ばれた「ポーツマス条約」の内容を知った国民は、がっかりします。ロシアからお金はまったくもらえず、もらえた土地も期待よりずっと少なかったのです。
たくさんの犠牲を出して勝ったのに、なぜこんなに成果が少ないのか?国民のあいだには「裏切られた!」という気持ちが広がりました。これが、怒りの火種となり、「日比谷焼き討ち事件」へとつながっていくのです。
なぜ国民はそこまで怒ったのか?重税と生活苦が限界に達していた
それにしても、なぜここまで怒りが大きくなったのでしょうか?実は、国民の生活がすでに苦しい状態だったことが大きく関係しています。
日露戦争のあいだ、日本政府は戦争にたくさんのお金を使いました。そのため、国民に重い税金をかけたり、国債(こくさい)という借金を発行したりして、戦費をまかなっていました。これにより物価が上がり、生活がますます苦しくなったのです。
しかも、戦争でたくさんの兵士が命を落とし、家族を亡くした人も多くいました。国民は「これだけ苦しい思いをして、やっと戦争に勝ったのだから、きっと明るい未来が待っている」と信じていたのです。
ところが、その結果が「賠償金ゼロ」。生活が良くなるどころか、さらに増税されるかもしれない…。そのショックが、怒りとして爆発したのです。
日比谷焼き討ち事件の引き金は警察の集会妨害だった
国民の怒りはどんどんふくらみ、ついに1905年9月5日、東京の日比谷公園で「講和条約反対」の大きな集会が開かれました。この集会には、3万人以上の人が集まったといわれています。
しかし、政府はこの集会を止めようとし、警察が日比谷公園の入口にバリケード(さく)を作って人々の入場をふせごうとしました。この対応が、さらに人々の怒りをあおってしまいます。
「自分たちの気持ちを伝える場を奪うなんて、ひどい!」と感じた人たちは、警察とぶつかり合い、公園に乱入。その後、一部の人たちが近くの建物をこわし始め、暴動へとつながっていったのです。
つまり、警察の強引な行動が、怒りのボルテージを一気に爆発させてしまったのです。
教会や警察署がなぜ狙われたのか?襲撃対象の理由とは
日比谷焼き討ち事件では、ただ集まってデモをしただけではありません。人々は、警察署や新聞社、さらにはキリスト教の教会なども襲いました。
なぜそうなったのでしょうか?ひとつは、「警察は政府の味方」と見なされていたことです。集会を妨害し、力で押さえつけようとした警察に対して、怒りの矛先が向けられました。
また、「講和に賛成した新聞社」や「外国と関係があると見なされた教会」も狙われました。とくにキリスト教の教会は、当時のロシアやアメリカと関係があると思われていて、「外国の味方をするやつらだ!」と誤解されていたのです。
こうした誤解や偏見から、教会や新聞社が襲撃されるという、悲しい事件につながっていきました。
事件の背後にあった排外主義と「国民意識」の高まり
この事件の背景には、ただの怒りだけでなく、「排外主義(はいがいしゅぎ)」という考え方がありました。排外主義とは、「外国や外国人を嫌う考え方」です。
明治時代の日本は、西洋に追いつこうと必死にがんばっていましたが、心のどこかで「自分たちは下に見られている」という劣等感(れっとうかん)を持っていたのです。
日露戦争に勝ったことで、「日本も強いんだ!」という自信が生まれました。しかし、講和条約の内容がふに落ちないものだったため、「やっぱり外国にはめられた!」という不満が爆発。これが「外国のもの=悪」と見なす考えにつながり、教会などへの攻撃につながっていったのです。
でも一方で、この事件を通して「私たち国民も、国のことに意見を言うべきだ!」という意識が生まれていきました。これは後の大正デモクラシーのきっかけにもなっていくのです。
日比谷焼き討ち事件はなぜ?その後の影響
日比谷焼き討ち事件は、ただの暴動ではありませんでした。この事件をきっかけに、日本の社会や政治は大きく変わっていきます。ここからは、「事件のその後」に注目して、何がどう変わったのかをわかりやすく見ていきましょう!
戒厳令が発令された理由
事件の翌日、政府はとうとう「戒厳令(かいげんれい)」という特別な命令を出しました。戒厳令とは、警察だけでは手に負えないと判断されたときに、軍隊が治安を守るために動けるようにする制度です。
ふつうの都市が、まるで戦場のような雰囲気になってしまったのです。実際に東京では、兵隊が街中に出て、人々を追い払ったり、騒ぎをおさえたりしていました。
それほどまでに事件は重大だったということです。警察署は燃やされ、教会や新聞社も破壊され、東京の街はまるで戦争のあとような光景でした。明治政府は、自分たちが「国民の怒り」をコントロールできなかったことにショックを受け、危機感をつのらせたのです。
大衆運動と政治参加の流れが加速
日比谷焼き討ち事件が特別だったのは、「ふつうの人たち」が自分たちの意見を表すために立ち上がったという点です。
それまでの日本では、政治や外交のことは「政府が決めるもの」であり、一般の人々が口を出すことは少なかったのです。でも、この事件では、3万人以上の人が集まり、「講和条約に反対だ!」と大声で訴えました。
この出来事は、民衆が「国民」としての自覚を持ち始めた証拠といえます。つまり、「私たちも日本という国の一員なんだ。国のことを決める場に関わっていきたい」という気持ちが強くなったのです。
この流れは、その後の「大正デモクラシー」や「普通選挙運動」など、民衆が政治に関心を持ち、参加しようとする大きなうねりにつながっていきます。
大正デモクラシーの関係とは?
大正デモクラシーとは、大正時代におこった「自由と平等、民衆の政治参加」を求める動きのことです。この考え方の背景には、日比谷焼き討ち事件での経験がありました。
事件を通して、多くの人が「国民の声を無視する政府」に疑問をもちました。
「上の人たちだけで物事を決めていいのか?」「国民の気持ちをもっと大事にするべきでは?」という考え方が広がっていきました。
また、新聞や雑誌がこの事件を大きく取り上げ、「国民の怒りは正当だ」といった意見も世の中に出回るようになりました。これが、政治への関心を高めるきっかけになったのです。
つまり、日比谷焼き討ち事件は、「政治はえらい人だけのものではない。国民も参加するべきだ!」という大きな気づきを生んだ、時代の転換点だったのです。
事件の被害とその補償:どのくらいの損害があったのか?
日比谷焼き討ち事件では、実際にどれくらいの建物が壊されたのでしょうか?
報告によると、警察署が2か所、警察の分署が7か所、派出所や交番はなんと203か所が焼かれました。また、教会や新聞社、さらには電車や外国公館も被害を受けています。
とくに外国の教会がひどく破壊されたことで、外交上のトラブルにもなりました。外国から「日本は大丈夫なのか?」と心配されてしまったのです。
これに対して、政府は一部の建物に対して補償を行いましたが、十分とはいえませんでした。また、事件をきっかけに、街の防犯体制や集会のあり方を見直す動きも出てきました。
日比谷焼き討ち事件から見る明治政府の限界と変化
この事件は、明治政府にとって大きな教訓となりました。それは、「民衆の声を無視し続けてはいけない」ということです。
明治政府は、中央集権的にすべてをコントロールしようとしていましたが、国民が力を持ち始めたことで、これまでのやり方が通用しなくなってきたのです。
事件のあと、政府は表向き「取り締まり」を強化しましたが、その裏で、民意をくみ取ることの大切さにも気づき始めました。これがのちの政党政治の発展や、国会の活性化へとつながっていきます。
つまり、日比谷焼き討ち事件は、「国民と政府の関係を変えた事件」でもあったのです。
総括:日比谷焼き討ち事件はなぜ起きた?理由まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 日比谷焼き討ち事件は1905年、ポーツマス条約への不満から起きた暴動です。
- 日本は日露戦争に勝利したのに賠償金が得られず、国民は「裏切られた」と感じました。
- 戦時中の増税や生活苦、兵士の犠牲などが怒りを増幅させました。
- 日比谷公園での講和反対集会を警察が妨害し、これが暴動の引き金となりました。
- 警察署・新聞社・キリスト教会などが「政府の手先」や「外国の味方」と見なされて襲撃されました。
- 背景には排外主義と、「国民としての意識」の高まりがありました。
- 暴動の激化で政府は戒厳令を発令し、東京は軍隊による鎮圧状態になりました。
- 事件をきっかけに、民衆の政治参加意識が高まりました。
- 日比谷焼き討ち事件は大正デモクラシーの土台となる「民意の覚醒」を促しました。
- 被害は警察署・教会・新聞社など200か所以上に及び、外交問題にも発展しました。
- 明治政府は事件を通じて民衆の力と世論の重要性を痛感し、政治の在り方が変わるきっかけとなりました。