みなさんは「御成敗式目(ごせいばいしきもく)」を知っていますか?
鎌倉時代に作られた武士のための法律ですが、現代の感覚では「やばい!」と思うようなルールがたくさんあるのです。
この記事では、御成敗式目のやばいポイントを分かりやすく解説します。
さらに、どのような背景で制定され、どんな影響を与えたのかも詳しく紹介していきますので、ぜひ最後まで読んでくださいね。
御成敗式目がやばいと言われる理由

御成敗式目が「やばい」と言われる理由は、現代の法律と比べると過激で独特なルールがたくさんあるからです。鎌倉時代は、武士が初めて全国を統治するようになった時代ですが、それまでの貴族中心の法律では武士の社会を治めることができませんでした。
ここからは、御成敗式目のやばいポイントを詳しく見ていきましょう。
御成敗式目がやばいのは「過激な刑罰」があったから
現代では、犯罪を犯しても裁判を受け、刑務所に入ることが一般的ですが、鎌倉時代の刑罰はとても厳しいものでした。御成敗式目には、驚くような刑罰がたくさんあったのです。
たとえば、「文書偽造」の罪を犯すと「顔に焼き印を押される」という罰則がありました。偽の証拠を作ることは許されない行為とされ、一生その罪を背負って生きていくことになったのです。
また、「不倫」をした場合、領地の半分を没収されるというルールもありました。武士にとって土地は非常に重要なものであり、家の存続にも関わるため、このような厳しい処罰があったのです。
さらに、「殺人」や「放火」の罪は死刑でした。武士の世界では、名誉を守ることが何よりも大切だったため、犯罪にはとても厳しい罰則が設けられていました。
「女性の権利」が意外と認められていた
鎌倉時代の女性は、現代よりも自由で、意外にも権利が認められていました。たとえば、御成敗式目では「女性も土地を相続できる」と決められていたのです。
これは、鎌倉時代の武士社会が戦乱の中で成り立っていたことと関係があります。男性が戦で命を落とすことが多く、その場合に女性が家を守る役割を担うことがあったため、女性にも土地の相続権が認められていました。
また、「悔返し(くいかえし)」という制度もありました。これは、いったん子供に相続させた土地を、親が「やはり返してほしい」と言えば取り戻せるというルールです。この制度があったため、親は安心して娘に土地を譲ることができました。
さらに、鎌倉時代には「女性の地頭(じとう)」も存在していました。地頭とは、幕府が各地に派遣した土地の管理者のことですが、男性だけでなく女性も地頭になれるケースがあったのです。
超アバウトな運用方法
御成敗式目は、厳しい刑罰がある一方で、意外といい加減な運用がされていました。
たとえば、同じ法律が何度も出されていることから、「みんなあまり法律を守っていなかったのでは?」と考えられています。鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡(あづまかがみ)』にも、似たような法律が繰り返し出されていたことが記録されています。
さらに、幕府の法律が適用される範囲も明確ではありませんでした。たとえば、鎌倉の境界線もはっきり決まっておらず、「なんとなくこの辺りが鎌倉」という曖昧なルールで運用されていたのです。
また、幕府の役人でさえ、自分たちの出した法律をすべて把握していなかった可能性もあります。鎌倉幕府の終わり頃になって、ようやくまとめられた「追加法」の記録が残っていることから、それまでの間は適当な対応が多かったのではないかと考えられています。
「土地の所有ルール」が複雑すぎ
武士にとって最も重要だったのは「土地」でした。そのため、御成敗式目にも土地に関するルールが多く盛り込まれていました。
たとえば、「20年間持ち続けた土地は、誰にも奪われない」という決まりがありました。つまり、たとえ元々の持ち主がいたとしても、20年間実際に支配していれば、その人のものになるのです。
また、「御下文(みくだしぶみ)」という将軍の発行する証明書がなくても、長期間支配していれば土地の所有権が認められることもありました。
しかし、地頭や名主(なぬし)といった土地の管理者が増えたことで、所有権をめぐる争いが頻繁に起こるようになりました。さらに、朝廷の法律(公家法)、寺社の法律(本所法)、幕府の法律(武家法)が並立していたため、どの法律を適用するべきかが複雑になり、裁判が長引くことも多かったのです。
御成敗式目はやばい:なぜ作られた?内容は?

御成敗式目は、鎌倉幕府が武士のために作った最初の法律です。
それまでの法律は貴族のためのものであり、武士の社会には合っていませんでした。そのため、幕府が全国を統治するためには、武士にとって分かりやすく、公平な基準を作る必要があったのです。
「承久の乱」の後に生まれた法律
御成敗式目が作られるきっかけとなったのは、「承久の乱(じょうきゅうのらん)」という戦いでした。
この戦いは1221年に起こり、朝廷側(後鳥羽上皇)が幕府を倒そうとして兵を挙げました。しかし、幕府軍が圧勝し、朝廷の力は大きく弱まりました。これによって、幕府の支配が全国に広がり、特に西日本にも多くの武士が派遣されることになりました。
しかし、西国に派遣された武士たちが土地をめぐって争うようになり、問題が続出しました。これまでの法律(貴族の公家法)では、武士の問題を解決することができなかったのです。
そこで、鎌倉幕府の3代執権・北条泰時(ほうじょうやすとき)は、武士の社会を正しく治めるために、新しい法律を作ることを決めました。
こうして、1232年に御成敗式目が制定されたのです。
「武士のための法律」として誕生
御成敗式目は、それまでの貴族中心の法律とは大きく異なりました。何よりも、武士の生活や考え方に基づいて作られていたのが特徴です。
たとえば、武士にとって最も重要だったのは「土地」でした。そのため、御成敗式目では「領地の所有権」や「相続」に関するルールが細かく決められました。
また、武士の価値観に合わせて、「忠誠心」や「名誉」を重視する内容も多く含まれました。たとえば、謀反(むほん)を企てた者は一族もろとも処罰されるという厳しい決まりがありました。
さらに、裁判の際に「先例」を重視する考え方が導入されました。これは、過去の裁判結果をもとに判決を決めるという方式で、現在の法律にも通じる考え方です。
「シンプルなルール」だから長く使われた
御成敗式目は、わずか51ヵ条という短い法律でした。しかし、その内容は非常にシンプルで分かりやすかったため、長く使われることになりました。
幕府は、御成敗式目の基本を守りながら、新しい問題が起きるたびに「追加法」を出すことで対応しました。これにより、時代の変化に柔軟に対応できたのです。
さらに、御成敗式目は「簡単な言葉」で書かれていました。これまでの法律は漢文(中国語のような書き方)で書かれていましたが、武士の多くは漢文を読めませんでした。そこで、できるだけ分かりやすい言葉で書くことで、武士でも理解できるように工夫されたのです。
このシンプルな仕組みのおかげで、御成敗式目は室町時代や江戸時代に入っても、武士の法律として長く使われ続けました。
御成敗式目が「武家政権の礎」となった理由
御成敗式目が制定されたことにより、鎌倉幕府は「武士による政治」を本格的に始めることができました。
それまでの日本は、天皇や貴族が中心となって政治を行う「公家政権」でした。しかし、御成敗式目が作られたことで、武士が政治を行う「武家政権」が確立されたのです。
また、それまでの政治は「将軍の命令」で決まることが多かったのですが、御成敗式目によって「法律に基づいて政治を行う」という考え方が生まれました。これにより、幕府の権力が安定し、武士たちの不満を減らすことにもつながったのです。
御成敗式目の現代に残る影響
御成敗式目は、現代の法律にも影響を与えています。
たとえば、「法の下の平等」という考え方です。御成敗式目では、「すべての武士は同じ法律のもとで裁かれるべきだ」とされていました。この考え方は、現在の「法治国家」の基本的な考え方と同じです。
また、裁判の際に「先例」を参考にするというルールも、現代の法律に受け継がれています。現在の裁判でも、過去の判例(はんれい)が重視されるのは、御成敗式目がその基礎を作ったからなのです。
さらに、会社の「就業規則」や「社内ルール」といった仕組みも、御成敗式目と似た考え方に基づいています。これは、「あらかじめルールを決めておくことで、トラブルを防ぐ」という考え方が現代にも生きているからです。
総括:御成敗式目がやばいと言われる理由まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 御成敗式目は、武士のために作られた日本初の武家法。
- 顔に焼き印を押す、不倫で土地没収など、現代では考えられない厳しい刑罰。
- 女性の権利が意外と認められており、土地を相続できるルールもありました。
- 承久の乱後に制定され、武士の社会を安定させる役割を果たす。
- シンプルなルールだったため、室町時代・江戸時代まで使われ続けた
- 現代の法律にも影響を与え、法の下の平等や先例を重視する考え方が受け継がれている。
