今回は「原敬(はらたかし)暗殺事件」について、子どもでも分かるようにやさしく解説していきます。

日本の総理大臣が東京駅で突然、命をうばわれた――。

とてもショッキングな事件ですが、なぜそんなことが起きたのでしょうか? そして犯人はどんな人物で、どんな理由があったのでしょうか?

事件の背景や影響、そして今も残る現場についても見ていきますので、最後まで読んで学んでくださいね!

※AmazonのKindle Unlimitedは月額980円ですが、3ヶ月無料期間があります。その間、読み放題対象の電子書籍は全部無料。途中で解約ももちろん自由。そのため、電子書籍が実質0円で読めます。以下に、歴史の語呂合わせに関連する無料書籍を載せておきます。

↓実質無料で読めるおすすめ歴史の読み物↓

著:河合敦, 著:房野史典
¥1,617 (2025/07/04 03:22時点 | Amazon調べ)
著:ぴよぴーよ速報
¥1,529 (2025/07/04 03:24時点 | Amazon調べ)

原敬暗殺事件の理由と死因をわかりやすく解説

ここでは、原敬がどうやって命を落としたのか、そしてなぜ暗殺されたのかという「理由」について解説します。犯人の動機や当時の社会の様子にもせまりますよ。

原敬の死因は刺殺!東京駅で起きた暗殺事件の概要

原敬が暗殺されたのは、1921年11月4日の夜のことです。場所は東京駅の「丸の内南口」というところ。当時、原は京都で行われる会議に出るため、汽車に乗ろうとしていました。

ところが、駅の改札口に向かっていたそのとき、一人の若者が突然あらわれ、原を短刀(たんとう)で刺したのです。刺された場所は胸。原はすぐに駅長室に運ばれましたが、まもなく亡くなってしまいました。死因は心臓を刺されたことによる「失血死(しっけつし)」でした。

これは日本の総理大臣が、現職のまま暗殺されるという、当時としては大事件でした。多くの人が驚き、悲しみにくれました。

暗殺犯・中岡艮一の動機

犯人の名前は中岡艮一(なかおか こんいち)という19歳の青年でした。事件当時、鉄道の職員として働いていて、東京駅での原の予定を知っていたといわれています。中岡がなぜ原を刺したのか、その理由はひとつではありません。大きくわけて次のような背景があります。

1つ目は「政治への不満」です。第一次世界大戦のあと、日本は不景気になり、失業する人がふえました。また、「シベリア出兵」といって、海外に兵士を送る政策もあり、多くの人が不満を持っていました。

2つ目は「個人的なつらさ」です。中岡は子どものころに父を亡くし、生活が苦しい中で育ちました。そして失恋したことも暗殺の理由のひとつだったともいわれています。

さらに当時は、有名なお金持ち・安田善次郎(やすだぜんじろう)も暗殺されたばかりで、世の中に「不満を暗殺でぶつける」空気があったことも関係していると考えられます。

中岡艮一の素顔と生い立ち:事件当時は19歳の鉄道職員

中岡艮一は1903年に栃木県で生まれました。父は足尾銅山で働いていた技師でしたが、家庭は決して裕福ではありませんでした。中学校には行かず、小学校を卒業したあとは印刷所などで働きました。

しかし長続きせず、やがて鉄道省に入り、大塚駅で「転轍手(てんてつしゅ)」という仕事をしていました。これは列車の進む線路を切りかえる仕事です。

真面目に働いていたとされますが、世の中に対して強い怒りを感じていたこともわかっています。そして、ある日ふと「この世の中が悪いのは原敬のせいだ」と思い込み、犯行におよんでしまいました。

とても若くして、重大な事件を起こしてしまったのです。

原敬が狙われたのはなぜ?“平民宰相”の立場

原敬は「平民宰相(へいみんさいしょう)」と呼ばれました。これは、それまでの総理大臣がみんな貴族や武士の出身だったのに対し、原は庶民出身だったからです。

そのため多くの国民からは親しまれていましたが、一方で、昔ながらの「藩閥政治(はんばつせいじ)」を好む人々からは敵視されていたのです。また、原は選挙を重視し、政党の力を使って内閣を動かす「政党内閣」をつくった最初の総理でした。今で言う「国民の声を大事にする政治家」だったのです。

しかしそのぶん、「選挙のためにお金を使いすぎている」とか「汚職が多い」などの批判も受けました。そのような立場の人だったからこそ、恨みを買いやすい面もあったのかもしれません。

安田善次郎事件との関係や社会的影響も紹介

原敬暗殺がとても注目されたのには、理由があります。

まず、つい最近「安田善次郎」という大金持ちが暗殺されたばかりだったこと。安田はたくさんの寄付をしていた人物ですが、そのことを公表していなかったため、「金持ちのくせに社会に貢献していない」と勘違いされていました。

犯人はそんな誤解から安田を殺し、世の中の一部では「よくやった」と言う声さえあがったのです。こうした風潮の中で、中岡艮一も「原敬も世の中を悪くしている張本人だ」と考え、犯行にふみきったとされます。

メディアの影響も大きく、新聞などが犯人の名前や考えを大きくとりあげたことで、「テロリストに同情する空気」がうまれてしまいました。これはとてもこわいことですね。

原敬暗殺事件が日本に与えた影響:歴史的な意味

ここからは、原敬が暗殺されたことが、その後の日本にどんな影響をあたえたのかを見ていきます。政治の流れや、犯人のその後、そして事件が今どう伝えられているかについても解説します。

政党政治はどう変わった?暗殺後の政治の行方

原敬が暗殺されたあとの日本では、政党による政治が一時的に弱まりました。原のあとをついだのは高橋是清(たかはし これきよ)ですが、政党内閣としての安定性はゆらぎ、やがて軍部の力が強くなっていきます。

原が進めていた「選挙を通じた政治」は、少しずつ後退してしまいました。そして、のちに「昭和の軍国主義」へと進んでいく一つのきっかけとなったともいわれています。

原敬の死は、ただの一つの事件ではなく、日本の民主主義の発展を止めてしまうほどの大きな出来事だったのです。

原敬が恐れていた未来が現実に?昭和の軍国化との関係

原敬は生前から「日本はアメリカとの関係を大事にしなければならない」と考えていました。特に中国との関係では、アメリカとの対立を避けるために、冷静な外交をめざしていたのです。

ところが原が亡くなったあと、日本の外交は軍部によって強気の方向に進みます。そして1930年代には満州事変、1937年には日中戦争が始まり、ついには1941年の日米開戦へと向かいます。

原がもっと長く総理大臣を続けていたら、日本は違う未来を歩んでいたかもしれません。暗殺によって、そうした「穏やかな外交」の道が閉ざされてしまったともいえるでしょう。

なぜ暗殺事件は繰り返されるのか?日本近代史における暗殺の系譜

実は、原敬だけでなく、日本の近代には政治家が暗殺される事件が何度も起こっています。たとえば1932年の五・一五事件では、総理大臣だった犬養毅(いぬかい つよし)が軍人に撃たれて亡くなりました。

さらに1936年には二・二六事件が起こり、多くの政治家や軍人が襲撃されました。こうした事件の背景には、社会の不満や、政治への怒り、軍人たちの思いこみなどがあります。

一つの暗殺が、次の暗殺を呼んでしまうという悪い流れができてしまっていたのです。原敬の事件は、そのはじまりだったといえるかもしれません。

犯人・中岡艮一のその後と改宗の意外なエピソード

中岡艮一は裁判で「無期懲役(むきちょうえき)」の判決を受け、13年間も刑務所に入っていました。しかし、3回の恩赦(おんしゃ:罪がゆるされること)を受けて、1934年に出所します。

出所後の中岡は、なんと中国の満州(まんしゅう)に渡り、日本の陸軍で働いていました。そして、そこで出会ったイスラム教徒たちに影響され、イスラム教に改宗します。

その後、イスラム教徒の女性と結婚し、日本に帰国してからは目立った政治活動はしていません。1980年に77歳で亡くなりました。犯人の人生にもまた、波乱があったのです。

今も残る“原首相遭難の地”とは?東京駅の記念プレートを訪ねて

原敬が暗殺された東京駅には、いまも事件のことを伝える記念のプレート(銘板)があります。場所は「丸の内南口」、ちょうど原が刺された場所の近くに設置されています。

このプレートには「原首相遭難現場(そうなんげんば)」と書かれていて、訪れた人に事件のことを伝えています。駅を利用する多くの人たちが行き交う中、静かに事件の記憶を伝えているのです。

このプレートを実際に見に行くと、歴史の重みや、命の大切さを感じることができます。もし東京駅を訪れる機会があれば、ぜひ立ち寄ってみてくださいね。

総括:原敬暗殺事件を分かりやすく解説まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

  • 原敬は1921年11月4日、東京駅で暗殺されました。
  • 犯人は当時19歳の鉄道職員・中岡艮一(なかおか こんいち)でした。
  • 原の死因は、胸を刺されたことによる失血死でした。
  • 犯行の理由には、政治への不満・貧困・失恋・世の中の雰囲気などがありました。
  • 中岡は「平民宰相」として知られる原を、世の中の不満の象徴だと思い込みました。
  • 直前に起きた安田善次郎暗殺事件の影響もありました。
  • 原の死後、政党政治は弱まり、軍部が力を持つようになりました。
  • 原が目指した「アメリカとの平和的な外交」は、軍国主義に取って代わられました。
  • 犯人・中岡艮一は13年の服役後、イスラム教に改宗し、晩年は静かに暮らしました。
  • 東京駅には、今も事件を伝える記念プレートが残されています。