今回は「原敬(はらたかし)」という人物が作った「本格的な政党内閣(せいとうないかく)」について、子どもでも分かるようにやさしく解説していきますよ!
「政党内閣ってなに?」
「どうして“本格的”と言われるの?」
「それまでの内閣と何が違うの?」
など、テストに出そうな大事なポイントをしっかりおさえながら学んでいきましょう!
原敬の政党内閣をわかりやすく!本格的と言われる理由

原敬の政党内閣は日本政治に大きな影響を与え、特に「本格的な政党内閣」として注目されています。その理由と背景を理解することで、政党政治の重要性や日本の政治の転換点を知ることができます。
ここでは、原内閣がどのようにして成立したのか、そしてなぜ「本格的」と呼ばれるのかについて解説します。
原敬の政党内閣とは?政党員中心の内閣が生まれた背景
まず、「原敬の政党内閣」とは、1918年に成立した日本で初めての“本格的な”政党中心の内閣のことです。このとき原敬は、立憲政友会(りっけんせいゆうかい)という政党のリーダーでした。
これまでの内閣は、政党に関係のない軍人や官僚が中心でしたが、原敬は内閣のほとんどの大臣を自分の政党の仲間でそろえました。こうすることで、議会と内閣が同じ方向を向き、スムーズに政治ができるようになったのです。
政党内閣が登場する前は、内閣と議会がけんかしてばかりで、法律がなかなか決まらなかったんですよ。原敬の登場は、そんなもめごとを減らし、政治の安定につながりました。
本格的な政党内閣と呼ばれる理由は?隈板内閣との違いに注目
では、なぜ原敬の内閣が「本格的な政党内閣」と呼ばれるのでしょうか?
それには、1898年に一度だけできた「隈板(わいはん)内閣」との違いを知ることが大切です。隈板内閣は、日本で最初の政党内閣といわれていますが、たった4ヶ月で終わってしまいました。党内でのもめごとが原因で、政策もほとんど進まなかったんです。
一方、原敬の内閣は約3年続き、多くの政策を実行しました。たとえば選挙制度の改革や外交の見直しなど、しっかりとした実績があります。だから「形だけ」で終わった隈板内閣とは違い、「本格的な」政党内閣と呼ばれるのです。
この違いは、歴史のテストでもよく問われるので要チェックです!
原敬の内閣成立のきっかけは米騒動!民意が動かした政変
原敬の政党内閣が誕生した大きなきっかけは、1918年に起こった「米騒動(こめそうどう)」です。このとき、米の値段が急に上がり、全国の人々が「生活できない!」と怒って大きなデモや暴動を起こしました。
この米騒動によって、当時の寺内内閣(ちょうぜんしゅぎの内閣)は国民の信頼を失い、辞めることになりました。国民の怒りの声が政府を動かした、まさに民意の勝利だったんですね。
この混乱をおさめるために選ばれたのが、国民に人気のあった原敬でした。そして、原敬は政党の力を活かして内閣を作り、国民の声を反映する政治をスタートさせたのです。
なぜ超然主義から政党内閣に変わったのか?元老の方針転換も鍵
それまでの日本は「超然主義(ちょうぜんしゅぎ)」という考え方で政治をしていました。これは、政党とは距離をおいて、政府が主導で政治をするスタイルです。
この超然主義をずっと守っていたのが「元老(げんろう)」と呼ばれる政治の大物たちでした。なかでも山縣有朋(やまがたありとも)は、政党内閣に強く反対していたことで知られています。
でも、米騒動のような大きな事件を受けて、「このままでは国が混乱してしまう」と元老たちも考えを変え始めました。そして、当時最大の政党である立憲政友会の原敬に政権を任せることにしたのです。
こうして、政党中心の政治が日本で本格的に始まりました。
原敬の身分にも注目!平民初の総理としてのインパクト
原敬が注目されたもう一つの理由は、「平民出身の総理大臣」だったことです。
それまでの総理大臣は、すべて「華族(かぞく)」という特別な身分の人たちばかりでした。
しかし、原敬はふつうの家庭に生まれた「平民」でした。だから、たくさんの国民が「自分たちの声を届けてくれそう」と期待したのです。
このことから、原敬は「平民宰相(へいみんさいしょう)」と呼ばれ、多くの人たちに親しまれました。政治の世界において、身分に関係なく活躍できる時代が来たという象徴でもありました。
その人気と信頼があったからこそ、原敬の政党内閣は支持され、長く続けることができたのです。
原敬政権のの政党内閣をわかりやすく:政策を解説

さて、ここからは原敬がどんな政治を行い、日本にどんな影響を与えたのかを見ていきましょう。「本格的な政党内閣」として、ただ人気があっただけでなく、しっかりとした政策を実行していたことが分かります。
この時代の流れをつかんでおくと、大正時代の政治がスッと頭に入ってきますよ!
外交の転換:国際協調路線へのシフトとは?
原敬の外交政策で大きなポイントは、それまでの「強気な外交」から「国際協調(こくさいきょうちょう)」へと方向転換したことです。
それまでは中国などに対して強引に要求を出したり、他国とぶつかるような外交をしていました。ところが原敬は、これを改めて、アメリカなどの列強とも仲良くやっていこうというスタイルに変えたのです。
その結果、日本は1920年に「国際連盟(こくさいれんめい)」という世界の平和を目指す組織の常任理事国に選ばれました。これは、世界からの信頼を得た証といえます。
この協調外交は、のちの「ワシントン会議」にもつながっていきます。原敬が進めたこの路線は、日本の立場を安定させるうえで、とても大きな一歩だったのです。
朝鮮統治の見直しと三・一独立運動の影響
1919年には、当時日本の植民地だった朝鮮で「三・一独立運動(さんいちどくりつうんどう)」が起こりました。これは、日本からの独立を求めて朝鮮の人々が立ち上がった大きな運動です。
この出来事をきっかけに、原敬内閣は朝鮮支配のあり方を見直しました。たとえば、それまで軍人がトップに立っていた「朝鮮総督(ちょうせんそうとく)」のポストを、文官でも務められるように制度を変えたり、軍隊のような警察=「憲兵警察」をやめたりしました。
ただし、制度は変わったものの、実際に文官が総督になることはありませんでした。それでも、武力に頼らないやり方を目指そうとした原敬の姿勢は、当時としては新しい考え方だったのです。
選挙制度改革と小選挙区制の導入
原敬は、選挙制度にも大きな改革を行いました。その中でも大きなポイントは「小選挙区制(しょうせんきょくせい)」の導入です。
この制度は、1つの選挙区から1人の代表を選ぶという方法で、地方ごとに強い支持を集めていた原敬の政党「立憲政友会(りっけんせいゆうかい)」に有利に働く仕組みでした。
その結果、1920年の選挙では政友会が大勝利をおさめ、議会で過半数の議席を取ることに成功します。これで原内閣は、ほかの政党に遠慮せず、自由に政策を進められるようになったのです。この小選挙区制の導入は、原敬が自分の政党を強くするための「選挙戦略」としてもとても巧妙でした。
普通選挙は実現しなかった?その理由を解説
原敬に対して多くの国民が期待していたのが「普通選挙(ふつうせんきょ)」の実現でした。当時の選挙は、25歳以上の男子で、しかも「お金(税金)を10円以上払っている人」しか投票できませんでした。
原敬は選挙制度を少しだけ緩め、10円以上の条件を「3円以上」に引き下げましたが、普通選挙を導入するまでは踏み切りませんでした。
その理由は、社会主義や過激な考えを持った人たちが政治に入り込むのを心配したからです。「今はまだ早い」と判断した原敬は、段階的な改革を選んだのです。
国民の期待を裏切る形となり、これが原敬の人気を少しずつ下げるきっかけにもなってしまいました。
原敬の死と政党内閣の行方は?暗殺の背景とその後の影響
原敬は1921年11月、東京駅で暗殺されてしまいます。犯人は中岡艮一(なかおかこんいち)という青年でした。
彼は、原敬が財閥や政府と結びつき、庶民を見捨てたと考えていたようです。人気があった反面、原敬は「自分たちの味方じゃなかった」と失望する国民の声も受けるようになっていたのです。
原敬の死は、政党内閣にとって大きな痛手でした。その後、後継者の高橋是清(たかはしこれきよ)が総理になりますが、政党内はバラバラになっていきます。
そして原敬が果たせなかった「普通選挙」は、1925年にようやく実現されることになるのです。原敬の政党内閣は、日本の政治に新しい風を吹き込んだ大きな転換点だったといえるでしょう。
総括:原敬の政党内閣をわかりやすく解説まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 原敬は1918年に日本初の「本格的な政党内閣」をつくった総理大臣。
- 政党内閣とは、与党の政党メンバーを中心に構成される内閣のこと。
- 過去にあった隈板内閣は短期間で終わり、実績が少なかったため「本格的」とは言われない。
- 原敬内閣の成立は、米騒動による民衆の怒りと超然主義の限界がきっかけ。
- 元老たちも時代の流れを受けて、原敬のような政党リーダーに政権を任せた。
- 原敬は平民出身初の総理であり、「平民宰相」として国民の支持を集めた。
- 外交では国際協調を目指し、国際連盟の常任理事国にも選ばれた。
- 朝鮮統治を見直し、武力弾圧からの転換をはかった。
- 選挙制度改革で小選挙区制を導入し、与党である立憲政友会が有利になった。
- 普通選挙は実現せず、条件緩和にとどまったため、国民の期待を裏切る結果に。
- 1921年に東京駅で暗殺され、政党内閣の安定にも大きな影響を与えた。
- 原敬の死後、普通選挙は1925年にようやく実現された。