豊臣秀吉は、戦国時代の乱世を生き抜き、最終的には天下統一を果たした戦国武将です。しかし、彼の出自は決して恵まれたものではなく、農民の家から身を立て、織田信長に仕えることで武士としての地位を確立しました。
信長亡き後、豊臣秀吉は明智光秀を討ち、柴田勝家や徳川家康といった強敵と戦いながら、日本全国を制圧していきます。
今回は、豊臣秀吉がどのようにして天下統一を果たしたのか、その戦略と政策を時系列で詳しく解説していきます。
豊臣秀吉は天下統一をどうやって実現した?時系列で解説

豊臣秀吉は、戦国時代という激動の時代において、その地位を不動のものにし、ついには日本を統一しました。彼の成功には、巧妙な戦略と政治手腕が必要不可欠でした。
今回は、その過程を時系列で追い、どのようにして天下統一を達成したのかを詳しく見ていきましょう。
天下統一の第一歩:本能寺の変と中国大返し(1582年)
豊臣秀吉の天下統一への道は、1582年の「本能寺の変」から始まりました。
この事件で織田信長が家臣の明智光秀に討たれると、戦国時代の勢力図が大きく変わります。当時、秀吉は中国地方で毛利氏と戦っていましたが、信長の死を知ると、ただちに戦を終結させ、京へと戻ることを決意します。これが「中国大返し」と呼ばれる驚異的な行軍でした。
秀吉軍は約200kmの距離をわずか10日間で移動し、京都近郊の山崎で明智光秀と激突します。この「山崎の戦い」で秀吉は見事勝利し、光秀を討ち取りました。
この迅速な行動と的確な戦略が、秀吉の強さを証明する出来事となりました。本能寺の変によって織田家の実権が宙に浮いたことで、秀吉は次なる権力争いへと進んでいくのです。
「清洲会議」と柴田勝家との戦い(1582~1583年)
本能寺の変の後、織田家の後継者を決めるため「清洲会議」が開かれました。
この会議では、信長の孫である三法師を後継者とし、信長の有力家臣たちが支える形を取ることが決まりました。しかし、実際には誰が実権を握るかが大きな争点となり、織田家内で対立が生まれました。
特に対立が深刻だったのが、秀吉と柴田勝家です。柴田勝家は信長の古参の家臣であり、北陸地方に強い勢力を持っていました。しかし、秀吉は自らの地位を固めるため、勝家と対決する道を選びます。
そして1583年、「賤ヶ岳の戦い」が勃発しました。この戦いでは、秀吉の側に「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれる武将たちが活躍し、柴田勝家を打ち破ります。この勝利により、秀吉は織田家の実質的な支配者となり、次の戦いへと向かっていきました。
徳川家康との激戦:小牧・長久手の戦い(1584年)
柴田勝家を破った秀吉ですが、すぐに次の敵が現れます。それが、後に江戸幕府を開くことになる徳川家康です。家康は信長の次男・織田信雄と同盟を結び、秀吉と対立する姿勢を明確にしました。こうして1584年、「小牧・長久手の戦い」が勃発します。
この戦いでは、秀吉の軍勢が12万、対する家康軍は4万という大きな兵力差がありました。しかし、家康は巧みな戦術を駆使し、秀吉軍を苦しめます。特に長久手の戦いでは、家康軍の奇襲が成功し、秀吉軍の池田恒興や森長可といった有力武将が討ち取られました。
戦局が膠着すると、秀吉は戦いを長引かせずに、織田信雄との講和を進めます。結果として、家康を孤立させることに成功し、秀吉の天下統一への道がさらに進んでいきました。
「関白」への就任と四国・九州の平定(1585~1587年)
小牧・長久手の戦いの後、秀吉は自身の権威をさらに強化するために朝廷と接触します。そして1585年、ついに「関白」に就任し、日本の政治の頂点に立ちました。これによって、秀吉は戦国武将としてだけでなく、正式な権威を持つ統治者となったのです。
関白となった秀吉は、次々と地方の大名を服従させていきます。まず1585年には、四国の長宗我部元親を討伐し、四国を平定しました。その後、1587年には九州の島津氏と戦い、彼らを降伏させました。これにより、日本の大部分が秀吉の支配下に入ることになります。
天下統一完了:「小田原征伐」と奥州仕置(1590年)
秀吉の最後の敵は、関東地方の大名・北条氏でした。
北条氏は堅固な小田原城に立てこもり、秀吉の支配に抵抗しました。しかし、1590年、秀吉は20万もの大軍を率いて「小田原征伐」を開始します。この包囲戦は長期間にわたり、最終的に北条氏は降伏しました。
さらに、東北地方の大名・伊達政宗をはじめとする諸大名も秀吉に従い、日本全国が統一されました。この「奥州仕置」によって、名実ともに豊臣秀吉の天下統一が達成されたのです。
豊臣秀吉の天下統一どうやって:手法と政策を解説

ここからは、天下統一に必要不可欠だった秀吉の政策について見ていきます。
「刀狩令」と「太閤検地」で農民を管理
天下統一を果たした後、豊臣秀吉は領土を安定させるために「刀狩令」と「太閤検地」という2つの重要な政策を実施しました。これらの政策は、日本全体の秩序を保ち、戦国時代の混乱を終わらせるためのものです。
刀狩令
1588年、秀吉は「刀狩令」を発布し、農民から武器を取り上げました。戦国時代には農民が武器を持ち、戦争に参加することも珍しくありませんでした。
しかし、これでは統治が難しくなるため、秀吉は「刀や槍を農民から没収し、戦国の世の混乱を防ぐ」という目的で刀狩を行いました。武器を持てるのは武士だけとし、農民が戦に関与しないようにすることで、社会の安定を図ったのです。
太閤検地
もう一つの大きな政策が「太閤検地」です。これは、日本全国の田畑を測量し、それぞれの土地の面積や収穫量を正確に把握するというものでした。
これにより、どの大名がどれくらいの土地を持ち、どれほどの年貢を納めるべきかが明確になりました。従来のあいまいな領地管理を一新し、税収を安定させることができたのです。この政策により、豊臣政権の財政基盤が強化され、日本全国を統治しやすくなりました。
豊臣政権を盤石にした「惣無事令」と大名統制
秀吉が全国を統一する過程で、大名同士の争いが絶えない状態では安定した統治ができません。そこで彼が打ち出したのが「惣無事令(そうぶじれい)」という政策でした。
「惣無事令」とは?
これは、大名同士の私的な戦争を禁止する命令です。戦国時代には、武将たちが自分の領地を広げるためにしばしば戦をしていました。しかし、秀吉は「これ以上、日本国内で戦をしてはならない」と命じ、大名たちが勝手に戦争を起こすことを禁止しました。
この命令により、日本全体の平和が保たれ、秀吉の支配がさらに強化されました。
大名統制の強化
また、秀吉は大名を細かく統制し、彼らが反乱を起こさないようにしました。
例えば、大名が所領を移動する際には秀吉の許可が必要となり、勝手に同盟を結ぶこともできなくなりました。さらに、大名の婚姻も秀吉の承認が必要となるなど、統治の仕組みを整えていったのです。
このように、秀吉は「武力だけでなく、法令を使って天下を支配する」という戦略を取りました。
天下人・秀吉の「経済政策」と「商業振興」
秀吉は、単に武力で天下を治めるだけでなく、日本の経済を活性化させることにも力を注ぎました。彼の経済政策は、後の江戸時代の繁栄にもつながる重要なものとなりました。
楽市楽座の推進
秀吉は「楽市楽座(らくいちらくざ)」という政策を進め、商業を活発化させました。これは、城下町に商人を集め、自由に商売をさせることで経済を発展させる仕組みです。
税金を軽減し、商人が安心して商売をできる環境を整えることで、日本全体の流通が活発になりました。
大坂を経済の中心地に
秀吉はまた、天下の中心地として「大坂城」を築きました。大坂は物流の拠点として最適な場所にあり、全国から商人が集まる商業都市として発展しました。
彼はここに全国の富を集め、豊臣政権の経済基盤を固めました。大坂が「天下の台所」と呼ばれるようになったのは、この時代の影響が大きいのです。
「朝鮮出兵」による戦略的失敗(1592~1598年)
秀吉の野望は日本国内にとどまらず、海外にも広がりました。彼は「中国(明)を征服する」という大きな目標を持ち、その第一歩として朝鮮への出兵を決断します。しかし、この「朝鮮出兵」は大きな失敗となりました。
文禄の役(1592年)
1592年、秀吉は約16万人の大軍を朝鮮に送り込み、戦争を開始しました。日本軍は当初、釜山や漢城(現在のソウル)を占領するなど順調に進軍しました。しかし、朝鮮軍の激しい抵抗や明(中国)の援軍によって戦局が悪化し、戦争は長引いてしまいました。
慶長の役(1597年)
秀吉は再び1597年に朝鮮に出兵しましたが、この戦いも成功しませんでした。朝鮮軍のゲリラ戦や明軍の反撃により、日本軍は消耗し、秀吉の死によって撤退を余儀なくされました。
この朝鮮出兵によって、日本国内の負担が大きくなり、大名たちの不満が高まりました。また、戦争の失敗により、豊臣政権の求心力が低下し、後に徳川家康が台頭するきっかけとなったのです。
豊臣秀吉の死と天下統一の終焉(1598年)
1598年、秀吉は病に倒れ、伏見城で息を引き取りました。享年62歳でした。彼の死は、日本の歴史にとって大きな転機となりました。
五大老・五奉行による統治
秀吉は自身の死後、豊臣政権を守るために「五大老」と「五奉行」を設置しました。五大老には徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、上杉景勝が選ばれ、豊臣秀吉の幼い息子・秀頼を支える役割を持ちました。しかし、五大老の中でも特に力を持っていた徳川家康は、次第に自らの権力を強めていきます。
関ヶ原の戦い(1600年)
秀吉の死からわずか2年後、1600年に「関ヶ原の戦い」が勃発します。徳川家康率いる東軍と、石田三成率いる西軍が激突し、結果として家康が勝利しました。この戦いにより、豊臣政権は完全に崩壊し、日本は徳川家康の時代へと移行することになります。
総括:豊臣秀吉は天下統一をどうやって実現したかまとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
1. 天下統一の第一歩
- 1582年:「本能寺の変」と「中国大返し」
- 明智光秀が織田信長を討つ
- 秀吉は毛利氏と講和し、驚異的な速さで京都へ戻る
- 「山崎の戦い」で光秀を討ち、織田家の実権を握る
- 1583年:「清洲会議」と「賤ヶ岳の戦い」
- 織田家の後継者問題で柴田勝家と対立
- 「賤ヶ岳の戦い」で柴田勝家を破り、織田家の実質的支配者に
- 1584年:「小牧・長久手の戦い」
- 徳川家康と対立し戦闘開始
- 戦局が膠着し、秀吉は織田信雄との講和を進め、家康を孤立させる
- 1585~1587年:「関白就任」&「四国・九州平定」
- 朝廷と結び「関白」に就任し、政治の頂点に
- 四国の長宗我部元親、九州の島津氏を討伐し、支配地域を拡大
- 1590年:「小田原征伐」と「奥州仕置」
- 関東の北条氏を降伏させ、全国統一を達成
- 東北地方の伊達政宗らも従わせ、豊臣政権が日本全土を統治
2. 天下統一後の政策
- 「刀狩令」(1588年)
- 農民から武器を没収し、武士階級を確立
- 農民の一揆を防ぎ、平和を維持
- 「太閤検地」
- 全国の田畑を測量し、土地ごとの年貢を明確化
- 財政基盤を強化し、安定した統治を実現
- 「惣無事令」
- 大名同士の私的な戦争を禁止し、国内の争いを抑制
- 大名の所領移動や婚姻も秀吉の許可制にし、支配を強化
- 「楽市楽座」の推進
- 商業の発展を促進し、全国的な経済の活性化
- 大坂を「天下の台所」として経済の中心地に
3. 豊臣政権の衰退
- 「朝鮮出兵」(1592~1598年)
- 秀吉の海外進出計画により、朝鮮に出兵(文禄の役・慶長の役)
- 明軍と朝鮮軍の反撃により戦況が悪化し、秀吉の死後撤退
- 「豊臣秀吉の死と関ヶ原の戦い」(1598~1600年)
- 1598年、秀吉が死去し、豊臣政権の求心力が低下
- 1600年、「関ヶ原の戦い」で徳川家康が勝利し、豊臣政権が崩壊
- その後、江戸幕府が開かれ、日本は徳川の時代へ移行