今回は「広田弘毅(ひろた こうき)」という人物が、なぜ東京裁判で処刑されてしまったのか?について、分かりやすく解説していきます。

彼は軍人ではなく外交官出身で、しかも戦争を望んでいたわけではないのに、なぜ絞首刑になったのでしょうか?実はそこには「命令しなかった罪」「止めなかった責任」といった、ちょっと難しい考え方があるのです。

一緒にゆっくり読みながら、日本の戦後の歴史と、リーダーに求められる責任について学んでいきましょう。

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広田弘毅はなぜ処刑されたのか?絞首刑の理由

広田弘毅は、戦争を積極的に進めたわけではないのに、なぜ東京裁判で死刑判決を受けたのでしょうか?

それには、戦後の国際社会の考え方や、外務大臣としての「責任の重さ」が深く関係していました。ここでは、広田の処刑理由を5つの視点から詳しく解説していきます。

処刑理由は「不作為」:自らの命令ではないが止めなかった罪

塾長がまず伝えたいのは、「広田は命令していないのに罪に問われた」という点です。これを「不作為(ふさくい)」と言います。

東京裁判では、「自分で命令を出さなかったとしても、止める力があったのに止めなかった人」も責任を問われました。広田弘毅は外務大臣として、戦争犯罪を止める立場にありました。

とくに問題になったのは、南京事件です。日本軍が中国・南京で多くの市民を殺害したとされるこの事件を、外務省は知っていたのに止めなかった。この点が、広田に「不作為の責任」があると判断され、死刑に結びついたのです。

南京事件を止めなかった責任

南京事件とは、1937年に日本軍が南京を占領したときに起きた大量虐殺です。広田が外相だった時期、この情報は各国の外交官や新聞記者などを通して外務省にも届いていました。

外相とは、海外の国々とやりとりする外交のトップです。戦地の情報がいち早く集まる立場にありました。つまり、軍の暴走を止めるチャンスがあったのに、それを実行しなかった。ここが大きな問題とされたのです。

文官として直接の命令権はなかったものの、外交ルートで抗議したり、政府内で軍の行動を止める働きかけはできたと考えられたため、「見て見ぬふり」は許されないと判断されました。

「軍部大臣現役武官制」復活との関係

広田弘毅が首相だった時代、1936年に「軍部大臣現役武官制」を復活させました。これは、陸軍大臣や海軍大臣を“現役”の軍人しか務められないというルールです。この制度により、軍が政治に強く口を出せるようになってしまいました。

この復活が戦争拡大に繋がったとも言われています。しかし、東京裁判ではこの制度改正そのものよりも、先ほどの「南京事件の黙認」が重く見られたため、処刑理由としては間接的な影響にとどまりました。

ただ、この制度復活がなければ、軍の独走を防ぐことができたかもしれません。そういう意味では、広田の政治判断にも批判の声がありました。

「戦争推進派ではなかったのに」なぜ文官で唯一死刑?

ここで多くの人が疑問に思うのが「広田は戦争を推進していないのに、なぜ死刑になったのか?」という点です。

実は広田は、日中戦争を止めようとした「トラウトマン工作」という和平交渉にも関わっていました。つまり、本来は戦争を回避したかった立場の人です。

しかし、国際法の考え方では「やったかどうか」よりも「止めることができたかどうか」が重要です。広田のように高い地位にある人には、「抑止責任」があるとされました。

そのため、「文官なのに」「戦争を望んでいないのに」という点は考慮されず、外相という責任ある立場ゆえに処刑されることになったのです。

死刑判決を下した東京裁判の性質と批判

東京裁判は、第二次世界大戦後に行われた戦争責任を問う裁判ですが、その正当性については今でも議論があります。

「戦勝国が敗戦国を裁くだけの“勝者の裁き”だ」という批判もあり、実際に連合国側の戦争行為は問われませんでした。

広田弘毅の死刑も、こうした「一方的な裁判」の影響を受けた可能性があります。また、広田の死刑判決には、欧米の外交官からも「重すぎる」とする嘆願書が出されていました。

しかし、GHQ(連合国軍最高司令部)の方針もあって判決は変わらず、絞首刑が執行されたのです。

広田弘毅はなぜ処刑?最期の様子

広田弘毅がなぜ処刑されたのかは前半でお話ししました。後半では、彼の最期の様子や処刑当日の出来事、さらにはその後にどんな評価がされたのかまで、詳しく見ていきましょう。

戦争責任やリーダーの在り方について、現代にも通じる教訓がたくさんありますよ。

最期の言葉と態度:「自然に生き、自然に死ぬ」

処刑を目前にして、多くの人が取り乱したり、泣き叫んだりする中、広田弘毅の最期はとても静かで落ち着いていたと言われています。彼が残したとされる言葉は「何もありません、自然に生き、自然に死ぬ」。まるで悟りを開いたお坊さんのような境地です。

これは、彼の実家が禅宗だったことや、もともと精神的に強い人物だったことも影響しているのでしょう。東京裁判で死刑になった他の戦犯たちと同じく、広田も最期まで笑顔を見せ、教誨師(きょうかいし)に感謝の言葉を述べながら刑場へと向かいました。

この静謐(せいひつ)な態度は、「気高さ」や「誇り」として後世に語り継がれています。

処刑日は12月23日:なぜ皇太子の誕生日が選ばれたのか

広田弘毅を含むA級戦犯7人が処刑されたのは、1948年12月23日。この日は、当時の皇太子(現在の上皇陛下)の誕生日でした。偶然だったと思いたいところですが、実は「日本の再出発」を象徴するために、あえてこの日が選ばれたとも言われています。

戦争責任を取らせる日と、新しい時代を迎える日を重ねることで、日本国民に「もう過去の戦争は終わったんだよ」と伝えたかったのかもしれません。しかし一方で、「お祝いの日に処刑をするなんて残酷だ」という意見もあり、この日付の選び方についても議論が残されています。

他のA級戦犯との違い:なぜ広田だけが文官で死刑になった?

東京裁判で死刑となった7人の中で、広田弘毅は唯一の「文官(ぶんかん)」でした。軍人ではないにもかかわらず、なぜ彼だけが死刑になったのでしょうか?

その理由は、外務大臣という職務の重みです。

戦時中、外務大臣は世界中の情報を集める立場にありました。その立場を利用して戦争を止める努力ができたのに、黙認した責任があるとされたのです。

実はドイツでも同じようなケースがありました。ナチスの外相リッベントロップも同じく「止めることができたのに何もしなかった」として処刑されています。つまり、「文官だから軽い罪」という考えは通用しなかったのです。

海外からの嘆願と無念:各国外交官が助命嘆願を出していた

広田弘毅は戦前、オランダ公使やソ連大使を務め、世界の外交官たちからも信頼されていました。そのため、東京裁判で死刑が確定した後、欧米の外交官たちが「彼を死刑にしないでほしい」と嘆願書を提出しています。

特にアメリカやイギリスの外交関係者の中には、「広田は戦争に消極的だった」「死刑は重すぎる」という意見が多くありました。しかし、GHQの戦後方針や中国・ソ連の圧力もあって、最終的には受け入れられず、処刑が実行されました。

この事実からも、彼の死は政治的な要素が色濃く影響していたといえるでしょう。

広田弘毅の死が現代に残したもの

広田弘毅の処刑が現代に残した一番大きな教訓は、「止めなかった責任」も非常に重いということです。これはリーダーという立場にある人すべてに通じる考え方です。

たとえば、部下が問題を起こしたときに、それを知っていて何もしなかった上司にも責任がある。今の社会にもある考え方ですね。

広田の死は、戦争犯罪そのもの以上に、「どうすればそれを止められたか」「誰が責任を取るべきだったのか」を問いかけ続けています。その意味で、広田弘毅という人物の処刑は、単なる過去の出来事ではなく、今の私たちにも多くの示唆を与えてくれているのです。

総括:広田弘毅はなぜ処刑?絞首刑になった理由まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

✅ 広田弘毅が処刑された理由

  • 「命令はしていないが止めなかった責任(不作為)」が死刑の主因
  • 外務大臣として南京事件の情報を知りながら黙認したとされた
  • 他の文官より多くの情報にアクセスできる立場だったため責任が重いと判断された

✅ 関連する政治的背景

  • 「軍部大臣現役武官制」復活などで軍の影響力を高めたが、これ自体は死刑理由に直接関係なし
  • 広田は戦争推進派ではなく、和平交渉にも関与していた

✅ 東京裁判における特徴

  • 広田は唯一の文官で死刑となったA級戦犯
  • 東京裁判は「勝者の裁き」とも批判されている
  • ドイツの外相リッベントロップと同様の責任理論が適用された

✅ 処刑当日の様子と最期

  • 広田は処刑前に「自然に生き、自然に死ぬ」と語るなど落ち着いた態度を見せた
  • 1948年12月23日、皇太子(現・上皇陛下)の誕生日に処刑が行われた
  • 多くの外国人外交官が助命嘆願を出していたが受け入れられず

✅ 現代に残した教訓

  • 命令しなかったことより「止めなかった責任」が問われる時代に入った
  • リーダーや上に立つ人の「責任の重さ」を考えさせられる事例
  • 広田の死は今も「戦争責任とは何か」を考えるきっかけになっている