江戸幕府の11代将軍・徳川家斉(とくがわいえなり)をご存じですか?家斉は、歴代将軍の中でも特に長く将軍の座についていたことで有名です。50年間ものあいだ江戸幕府を率い、最終的には69歳で亡くなりました。

ですが、その死因についてはあまり知られていません。

「徳川家斉はどうして亡くなったの?」「最後の様子はどんな感じだった?」そんな疑問を持っている人も多いでしょう。

そこで今回は、徳川家斉の死因や最期の様子について、わかりやすく解説します!江戸時代の将軍の暮らしや、大奥での豪華な生活についても触れていきますよ。

それでは、一緒に学んでいきましょう!

徳川家斉の死因とは?何歳で死亡したのか?

徳川家斉は、1841年(天保12年)の閏1月7日に亡くなりました。享年69歳です。当時の日本人の平均寿命が30〜40歳だったことを考えると、とても長生きした将軍といえますね。

では、家斉はなぜ亡くなってしまったのでしょうか?

実は「腹膜炎(ふくまくえん)」が死因とされています。ですが、家斉の最期の様子については、幕府が正式に公表しなかったため、詳しいことはわかっていません。さらに、家斉の死はすぐには発表されず、数週間のあいだ隠されていたともいわれています。

なぜ幕府は将軍の死を隠したのでしょうか?その背景もあわせて解説していきます。

徳川家斉の死因は「腹膜炎」だった!最期の病状とは?

徳川家斉の死因は「腹膜炎」といわれています。腹膜炎とは、お腹の中にある「腹膜(ふくまく)」が炎症を起こす病気です。原因はさまざまですが、当時の医療では治療が難しい病気でした。

家斉は晩年、何度もお腹の痛みを訴えていたそうです。記録によると、「疝痛(せんつう)」と呼ばれる激しい腹痛に悩まされていたとのこと。現代の医学で考えると、盲腸が破裂したことが原因で腹膜炎を引き起こした可能性もあります。

また、家斉はとても贅沢な食事をしていたことでも知られています。美味しいものをたくさん食べていたため、内臓に負担がかかり、体調を崩してしまったのかもしれません。最期の頃には体力も落ちていて、侍医(じい=お医者さん)が治療を試みましたが、回復することはありませんでした。

徳川家斉は69歳で死去!江戸時代の平均寿命と比較

家斉は69歳で亡くなりました。江戸時代の平均寿命は30〜40歳といわれていますので、これはとても長生きした方です。では、歴代将軍の寿命と比べるとどうだったのでしょうか?

  • 徳川家康(初代将軍):75歳
  • 徳川吉宗(8代将軍):68歳
  • 徳川慶喜(15代将軍):77歳

家斉は歴代将軍の中でも比較的長寿の部類に入りますね。ただし、当時の医療は現代ほど発達していませんでしたので、どんなに裕福な人でも病気になれば命を落としてしまうことが多かったのです。

将軍なのに孤独死?死の直前に何が起きたのか

将軍といえば、常に多くの人に囲まれているイメージがあるかもしれません。しかし、家斉の最期は意外にも孤独だったといわれています。

なぜなら、家斉は将軍の座をすでに12代将軍・家慶(いえよし)に譲っており、「大御所(おおごしょ)」という立場になっていたからです。実権はまだ持っていましたが、病気が悪化するにつれて、幕府の中での影響力は薄れていきました。

家斉が亡くなる直前には、家慶を中心に新しい幕政が進められており、家斉の死を待つような状況だったともいわれています。

家斉の死亡日は2つある?幕府による死の秘匿

家斉の死は、すぐには公表されませんでした。正式な死亡日は「閏1月30日」とされていますが、一部の記録には「閏1月7日」に亡くなったと記されています。

なぜこんな違いがあるのでしょうか?実は、幕府が政治的な理由で家斉の死を隠していた可能性があるのです。将軍の死は大きな影響を与えるため、政権の混乱を避けるために「発表を遅らせた」と考えられています。

また、家斉の死後、すぐに新たな政治改革「天保の改革」が始まりました。これは、家斉が長年行っていた贅沢な政治を改めようとするものでした。幕府は、家斉が亡くなったことを慎重に扱いながら、改革をスムーズに進めたかったのかもしれませんね。

死後の儀式と葬送絵巻に残る家斉の最期

徳川家斉の葬儀は、将軍としての格式を保ちながら行われました。彼の葬送の様子は『紙本著色文恭院殿葬送絵巻』という記録にも残されています。

江戸時代の将軍の葬儀は非常に厳粛なもので、特に家斉のような長期在位した将軍の死は大きな出来事でした。家斉の遺体は江戸城から上野の寛永寺(かんえいじ)に運ばれ、多くの人が葬列を見守ったといわれています。

また、家斉の墓は歴代将軍の墓所にある「寛永寺」にあります。現在も東京の上野に行けば、その歴史を感じることができますよ。

徳川家斉の死因の後に:最後の様子&大奥と幕府の混乱

徳川家斉の晩年は、贅沢な生活と政治の混乱が交錯する時代でした。家斉は将軍の座を譲った後も「大御所」として実権を握り続けましたが、次第にその力は弱まり、最後は静かに幕を閉じました。

ここでは、家斉の最期の生活や、大奥の様子、さらには死後の幕府の動きを詳しく見ていきましょう。

死の直前まで続いた贅沢な生活

家斉は、死の直前まで贅沢な生活を続けていました。彼は将軍在位中、大奥に莫大な費用をかけ、数多くの側室と子どもをもうけました。家斉の死因となった「腹膜炎」は、食生活が原因だった可能性も指摘されています。

彼は美食家であり、贅を尽くした料理を楽しんでいました。現代でいうと、高級食材をふんだんに使ったコース料理を毎日食べていたようなものです。その結果、消化器系に負担がかかり、体調を崩しやすくなったのかもしれません。

また、家斉の時代は「文化・文政時代」と呼ばれ、江戸の町人文化が大きく発展しました。しかし、それを支える幕府の財政は悪化し、改革の必要性が高まっていました。こうした状況のなか、家斉は晩年を迎えました。

家斉の死で大奥が大混乱!「智泉院事件」とは?

家斉が亡くなると、大奥では大きな事件が発生しました。それが「智泉院事件(ちせんいんじけん)」です。これは、家斉の側室・お美代の方の父である僧侶・日啓(にっけい)が、大奥の権力を利用して不正を行ったとして、幕府によって摘発された事件です。

お美代の方は家斉から特別に寵愛(ちょうあい)を受け、父の寺「智泉院」も優遇されていました。しかし、家斉の死後、幕府はこの特権を見直し、お美代の方の家族を粛清しました。日啓は密通や不正な金銭取引の罪で逮捕され、遠島(えんとう=島流し)の刑を言い渡されましたが、獄中で亡くなりました。

この事件をきっかけに、大奥の勢力図が大きく変わり、家斉時代の華やかで贅沢な大奥は終わりを迎えたのです。

家斉の死後すぐに始まった「天保の改革」

家斉が亡くなると、新将軍・徳川家慶(いえよし)はすぐに「天保の改革(てんぽうのかいかく)」を始めました。この改革の目的は、家斉が行ってきた放漫(ほうまん)な財政を見直し、幕府の財政を立て直すことでした。

改革を主導したのは、新しく老中首座(ろうじゅうしゅざ=幕府の政治を取りまとめる役職)に就任した水野忠邦(みずのただくに)です。水野忠邦は、贅沢を禁止し、物価を安定させるために厳しい政策を行いました。

例えば、

  • 贅沢な服装を禁止する「倹約令(けんやくれい)」
  • 江戸の人々を農村に移住させる「人返しの法」
  • 商人の力を抑えるための「株仲間解散令」

しかし、これらの政策は庶民に大きな負担をかけ、反発を招きました。結局、天保の改革はうまくいかず、水野忠邦は失脚してしまいました。

家斉の死が江戸幕府崩壊の始まり?

家斉が亡くなったことで、幕府の権力バランスが大きく崩れました。家斉が生きているあいだは、彼の存在が幕府の安定を保っていました。しかし、彼の死後、幕府の統治能力は低下し、内部の混乱が目立つようになりました。

この影響は、約20年後の「黒船来航(くろふねらいこう)」にもつながります。1853年、アメリカのペリー提督(ていとく)が日本に開国を求めて来航したとき、幕府は適切な対応を取ることができず、日本国内で大きな混乱を引き起こしました。

また、家斉の死後、幕府は財政難に陥り、家慶やその次の将軍・家定(いえさだ)も十分な政治を行うことができませんでした。結果的に、1868年の「明治維新(めいじいしん)」で江戸幕府は終わりを迎えることになります。

家斉の死後も続く「大奥の遺産」

家斉が築き上げた大奥は、彼の死後も影響を残しました。特に、家斉の娘たちは、多くの大名家に嫁ぎ、幕府内で強い影響力を持ち続けました。

家斉の娘のうち、特に有名なのが溶姫(ようひめ)です。彼女は加賀藩(かがはん)の前田斉泰(まえだなりやす)に嫁ぎました。このときに新しく建てられたのが、現在の「東京大学赤門」です。

この赤門は、溶姫の婚儀のために作られたものであり、家斉の影響が現代にまで残っている証拠といえるでしょう。

また、家斉の子孫は明治時代以降も生き残り、徳川家の一族として歴史をつないでいきました。家斉の死後も、彼の影響力は幕末や明治維新の時代まで続いたのです。

総括:徳川家斉の死因まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

  • 徳川家斉の死因は「腹膜炎」とされているが、正式な発表はなかった。
  • 1841年(天保12年)閏1月7日に死亡し、享年69歳。
  • 当時の日本人の平均寿命が30~40歳 だったことを考えると長寿だった。
  • 晩年は激しい腹痛(疝痛)に苦しみ、侍医の治療も効果がなかった。
  • 家斉の死はすぐには公表されず、閏1月30日まで隠されていた可能性がある。
  • 将軍職はすでに12代・家慶に譲っていたため、晩年は孤独な最期だった。
  • 家斉の死後、「天保の改革」が開始 され、幕府の政治が大きく変わった。
  • 「智泉院事件」が発生し、大奥の権力争いが激化。
  • 家斉の死後、幕府の統治能力が低下し、最終的に江戸幕府崩壊の原因の一つになった。
  • 家斉の娘たちは多くの大名家に嫁ぎ、その影響は幕末や明治時代まで続いた。
  • 東京大学の「赤門」は家斉の娘・溶姫のために建てられたもの。
  • 家斉の墓は東京・上野の寛永寺にあり、現在も訪れることができる。