みなさん、「板垣死すとも自由は死せず」という言葉、聞いたことはありますか?これは明治時代に活躍した板垣退助(いたがきたいすけ)の名言として有名ですね。

でも、この言葉、本当に本人が言ったのでしょうか?

今回は、そんな板垣退助の名言に特化して、心に響くセリフや、それぞれに込められた意味を分かりやすく解説していきます!歴史のテストでも出てくる内容なので、しっかりチェックしてくださいね。

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板垣退助の心に刺さる名言集:自由への強い思い

板垣退助は、「自由民権運動」という、日本に国会を作ろうとした大きな運動のリーダーでした。彼の言葉には、国のため、民のために戦った強い意志が込められています。

ここでは、そんな名言たちをひとつひとつ紹介していきますよ!

名言①「板垣死すとも自由は死せず」

まずは一番有名なこの言葉から解説します。

1882年、岐阜で演説を終えた板垣退助は、突然暴漢に襲われてしまいます。そのときに叫んだとされるのが「板垣死すとも自由は死せず」なのです。

ところが、実はこの言葉、別の人が言ったという説もあります。自由党の仲間・内藤魯一(ないとうろいち)がマスコミに向かってそう言い、それが板垣のセリフとして広まったという話もあります。

一方で、事件を目撃していた警察の記録には、板垣本人が実際にこのような言葉を叫んだと書かれています。「吾死スルトモ自由ハ死セン」と報告されているんですね。

つまり、「本人が言った」という証拠もあるし、「仲間が言った」という説もある。どちらが正しいのか、今でもはっきりしていないのです。でも、どちらにせよ「自由は命よりも大切だ!」という熱い思いが伝わってきますね!

名言②「自由は土佐の山間より出づ」から感じる決意

この言葉は、板垣退助が政治の中心から外れ、高知県(旧・土佐藩)に戻ったときに発したといわれています。

「自由は土佐の山間より出づ」というのは、「田舎からでも自由は始まるんだ!」という意味です。都会にいなくても、地方から国を動かす力があるという、希望のこもったセリフなんですよ。

この時、板垣は「立志社(りっししゃ)」という政治団体をつくり、自由民権運動を全国に広めていきました。「自分たちの手で政治を変えよう」という気持ちがギュッとつまった言葉なんですね!

名言③「まず我が立志の民権を一町より一区に及ぼし〜」

ちょっと難しい言葉ですが、こんな意味があります。

「まずは自分の町から民権(=国民の権利)を広め、次は市、そして県、やがて全国に広げていこう!」

つまり、いきなり大きなことをしようとせず、足元からコツコツ始めようという考え方です。これは今でも使える大事な教えですね。たとえば「いじめをなくそう!」と思ったら、まずは自分のクラスから始めることが大切なんです。

板垣退助は、決して感情にまかせて暴れたりせず、言葉と行動で自由を広げようとしました。とても冷静で大人な考え方ですね!

名言④「私の行動が国家の害と思ったら〜」

板垣退助は刺されたあと、犯人に向かってこんなことを言ったそうです。

「私の行動が国家の害(=国にとって悪いこと)だと思ったら、もう一度刺しても構わない」

すごくないですか? 自分を刺した人を責めるどころか、こんなふうに冷静に語りかけたんです。しかも板垣は、その犯人の命を助けるようにお願いして、のちに釈放までされたんです。

「本当に国のことを思っての行動なら、敵でも許す」という器の大きさ、まさにリーダーの鏡ですね!

名言⑤「人は死んだら終わりだと言う〜」

板垣は、自分の死についてもこんな言葉を残しています。

「人は死んだら終わりだと言う、しかし私はそう思わない。志ある人が私の墓の前で、世の中をよくしようと決意してくれたら、私の死は終わりではない」

これはまさに、「志(こころざし)は生き続ける」というメッセージですね。

歴史に名前が残る人というのは、こうして“心”を後の世に残すんです。だからこそ、板垣退助のような人物の言葉は、今でも私たちの心に刺さるんですね。

板垣退助の名言の覚え方や関連情報

さて、ここからはテスト対策編です。板垣退助の名言は、中学や高校の歴史の授業、そして入試にもよく出てきます。今回は、覚え方や語呂合わせもまじえて、しっかり頭に入るように説明します!

垣退助の名言はテスト頻出!「自由は死せず」の文脈を理解しよう

「板垣死すとも自由は死せず」は、日本史の中でも特に有名な名言のひとつです。では、どうしてこの言葉が重要なのでしょうか?

この名言は、板垣退助が「自由民権運動」という日本に初めて本格的な国会をつくろうとした運動をリードしていたからこそ、重みがあります。「命をかけても自由は守る」という覚悟の象徴として、テストでは「自由民権運動のスローガン」や「演説中に刺されたときのセリフ」として出題されることが多いです。

テストでは、「誰が言った?」「いつの事件?」「運動の目的は?」など、文脈ごと問われますので、「自由民権運動=国会をつくるための活動」とセットで覚えておきましょう!

語呂合わせで楽しく暗記!「板垣退助」の覚え方

覚えることが苦手な人のために、塾長おすすめの語呂合わせを紹介します!

  • 「いたずら好きな 板垣(いたがき)、自由のために 死ぬ覚悟(しぬかくご)」
  • 「いたがき=イタチが自由に走る」→ 板垣退助が自由民権運動で走り回ったイメージ!

また、板垣退助の名前を「板(いた)を垣(かき)にして 退(しりぞ)いて 助ける」と考えると、「退いて(政府を去って)、民を助けた人」という印象が残りますよ!

語呂合わせはちょっとふざけた感じでもOK!記憶に残れば勝ちです!

自由民権運動とは?板垣退助が命をかけた理由を解説

自由民権運動とは、明治時代に「国民の声を政治に反映させよう」とする運動でした。

明治政府はもともと一部の偉い人たちだけで政治をしていて、庶民の声は届いていませんでした。そんな中、板垣退助は「国民も選挙で政治に関わるべきだ!」と考え、立志社をつくったり、全国で演説をしたりしました。

つまり、自由民権運動の目的は「民意を反映する議会政治の実現」です。

テストでは「この運動の主な目的は?」と問われたり、「民選議院設立建白書」などのキーワードと一緒に出てきたりしますよ!

岐阜事件とは?「板垣死すとも」の背景を整理しよう

1882年、岐阜で起きたのが「岐阜事件」です。これは、板垣退助が演説中に刺された事件ですね。

このとき刺した犯人は相原尚褧(あいはらなおふみ)という人物。もともとは小学校の先生でした。自由党の考えに反対し、板垣を「国の害だ」と思って襲ったのです。

この事件が起きたことで、板垣退助の人気はさらに高まり、「自由のために命をかけた男」として全国に知られるようになりました。

また、この事件により「板垣死すとも自由は死せず」という名言が広まり、自由民権運動の象徴的な出来事となったのです。

用語チェック!「民選議院設立建白書」や「立志社」など

名言と一緒に覚えておきたいキーワードも紹介します!

  • 民選議院設立建白書(みんせんぎいんせつりつけんぱくしょ)
     国民が選んだ代表者で議会をつくろう!という内容の提案書。板垣退助がこれを出して、自由民権運動が本格化しました。
  • 立志社(りっししゃ)
     板垣が高知でつくった政治団体。ここから自由民権運動が全国に広まりました。
  • 自由党(じゆうとう)
     日本初の政党のひとつ。板垣退助が初代総理(=今でいう代表)をつとめました。
  • 征韓論(せいかんろん)
     板垣が明治政府と対立した理由の一つ。朝鮮に開国を迫るべきだ!という意見です。

テストで「板垣退助に関係する用語を答えよ」と出たら、ここを思い出しておきましょう!

総括:板垣退助の心に刺さる名言集まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

  • 板垣退助の代表的な名言「板垣死すとも自由は死せず」は、実際に言ったかどうか諸説あるが、自由への強い覚悟を示す象徴的な言葉。
  • 「自由は土佐の山間より出づ」は、地方からでも自由の運動が始まるという希望を込めた言葉。
  • 「まず我が立志の民権を一町より一区に…」は、民権運動を一歩ずつ広げていく決意を表した言葉。
  • 刺客を許した際の「国家の害と思ったらもう一度刺しても構わぬ」という言葉からは、板垣の器の大きさが分かる。
  • 死後も志が生き続けるという意味で「人は死んだら終わりではない」と語った。
  • 名言は中学・高校の歴史テストによく出るため、語呂合わせや文脈理解が大切。
  • 語呂合わせで「板垣退助」や「自由民権運動」を楽しく覚える工夫も紹介。
  • 自由民権運動とは、国民の声を政治に反映させるための運動であり、板垣がその中心人物だった。
  • 「岐阜事件」で刺されたことが名言誕生の背景となった。
  • 関連用語「民選議院設立建白書」「立志社」「自由党」「征韓論」などもテストに出やすいので要チェック。