歴史の授業で「持統天皇(じとうてんのう)」という名前を聞いたことはありますか?持統天皇は、日本で初めて「太上天皇(だいじょうてんのう)」になった女性で、飛鳥時代を代表する重要な天皇です。
夫である天武天皇(てんむてんのう)の遺志を継ぎ、中央集権国家の礎を築きました。
「でも、具体的に何をしたの?」と思いますよね。
そこで今回は、持統天皇の功績やエピソード、さらには性格や死因について、分かりやすく解説していきます!日本史のテストや受験勉強にも役立つ内容なので、ぜひ最後まで読んでくださいね。
持統天皇は何をした人か簡単に:政治・功績・エピソード

持統天皇は、飛鳥時代に活躍した女性天皇です。彼女は日本の第41代天皇であり、女性でありながら国をまとめる強いリーダーシップを発揮しました。
ここでは、持統天皇が実際に行った政治的な業績や、彼女にまつわるエピソードについて詳しく見ていきましょう。
持統天皇は飛鳥時代の女帝!日本の第41代天皇とは?
持統天皇は、西暦645年(大化の改新の年)に生まれました。本名は鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)といい、父は天智天皇(てんじてんのう)、母は蘇我遠智娘(そがのえちのいらつめ)です。
もともと彼女は天皇になる予定ではありませんでした。
しかし、夫である天武天皇が亡くなり、後継者と考えられていた息子・草壁皇子(くさかべのみこ)も若くして亡くなってしまいました。そこで、持統天皇は「この国を守るのは私しかいない!」と決意し、自ら天皇として即位することを決めたのです。
また、持統天皇は「太上天皇(だいじょうてんのう)」という新しい制度を作りました。これは、天皇の座を次の世代に譲った後も政治に関わることができる制度です。こうして、持統天皇は自分の孫である文武天皇(もんむてんのう)を次の天皇にするための準備を進めたのです。
持統天皇の最大の功績!日本初の本格的な都「藤原京」の造営
みなさんは「藤原京(ふじわらきょう)」を知っていますか?藤原京は、日本で初めて本格的に作られた都です。持統天皇は、夫・天武天皇の遺志を継いでこの都を作ることを決めました。
藤原京は、現在の奈良県橿原市(かしはらし)にあり、694年に完成しました。この都のすごいところは、日本で初めて「条坊制(じょうぼうせい)」という都市計画が採用されたことです。これは、道を碁盤の目のように整備して、整った街を作るシステムです。中国の都を参考にして、日本の新しい時代のスタートを切ったのです。
藤原京は16年間続き、その後の奈良時代の「平城京(へいじょうきょう)」に発展していきました。つまり、持統天皇の決断が、日本の都市作りの歴史を大きく変えたのです!
律令制度の整備!「飛鳥浄御原令」の施行とその影響
持統天皇の時代には、「律令(りつりょう)」と呼ばれる新しい法律が作られました。その中でも特に重要なのが「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」です。
この法律は、税制や土地の管理、役人の仕組みなどを整えるために作られました。また、「庚寅年籍(こういんのねんじゃく)」という全国の戸籍(こせき)を作る制度も導入されました。これによって、誰がどこに住んでいるのか、どのくらいの税を納めるべきかが明確になりました。
これらの制度は、後に奈良時代の「大宝律令(たいほうりつりょう)」へと発展していきました。
つまり、持統天皇の時代に作られた法律が、その後の日本の政治の基礎になったのです。
万葉集にも登場!持統天皇が詠んだ和歌と文化的影響
持統天皇は、政治だけでなく文化の面でも重要な人物です。実は、彼女の歌が「万葉集(まんようしゅう)」や「百人一首(ひゃくにんいっしゅ)」に収録されているのです。
有名な和歌がこちらです。
「春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天の香具山」
(春が過ぎて夏が来たらしい。白い衣を干しているのが見える、天の香具山で)
この歌は、季節の移り変わりをシンプルに表現していて、とても美しいですね。持統天皇は、こうした和歌を通じて自分の感情や政治的な意志を表現していたとも言われています。
持統天皇と天武天皇の関係!夫婦で築いた政治体制
持統天皇は、夫・天武天皇とともに、日本の政治を大きく変えました。特に、天皇中心の国家を作るために「壬申の乱(じんしんのらん)」を乗り越えたことが大きな出来事です。
天武天皇は、「天皇が日本を治めるべきだ!」という考えを持っていました。そして、その遺志を受け継いだ持統天皇も、律令制度や藤原京の建設などを進め、日本の統治体制を整えていきました。
また、持統天皇は、天武天皇の死後も彼の政策を守り続けました。これは、二人の強い信頼関係があったからこそできたことなのです。
持統天皇は何をした人か簡単に:性格・エピソード・死因

持統天皇は、ただの天皇ではなく、日本の歴史に大きな影響を与えた人物です。
彼女はどのような性格の持ち主だったのでしょうか?また、彼女の生涯にはどんなエピソードがあるのでしょうか?さらには、どのような最期を迎えたのかを詳しく見ていきましょう。
持統天皇の性格は?冷徹な政治家か、それとも情の深い母か
持統天皇は、「冷静で計画的な政治家」としての一面を持ちながら、「家族を深く愛する母親」でもありました。彼女の性格を一言で表すならば、「戦略家でありながら情の深い女性」です。
まず、政治家としての持統天皇は、非常に計算高く、戦略的に行動していたことが分かります。特に、孫である文武天皇を天皇にするために、自らが天皇となり、国を整えたことは、その計画性をよく表しています。また、「藤原京の造営」や「律令制度の整備」など、大きな改革を次々に進めたことからも、優れた政治家であったことが分かります。
しかし、一方で家族への愛情も深かったことがうかがえます。彼女が息子・草壁皇子に対して強い思いを持っていたことは、多くの史料に記されています。草壁皇子が若くして亡くなった時、彼女は大きなショックを受けたと言われています。
冷徹な政治家でありながらも、家族を思いやる母親の一面を持っていた——それが持統天皇の性格だったのです。
持統天皇と草壁皇子の関係!母の愛と過保護の狭間で
持統天皇は、一人息子の草壁皇子をとても大切に育てました。しかし、その愛情が「過保護」だったのではないかという指摘もあります。
持統天皇は、息子を次の天皇にするためにさまざまな手を尽くしました。例えば、天武天皇の後継者争いでは、ライバルとなる可能性があった大津皇子(おおつのみこ)を処刑するという冷徹な決断を下しました。このことから、「草壁皇子を守るためなら、どんな手でも使った」と言われることもあります。
しかし、草壁皇子自身は、あまり政治に向いていなかったとも言われています。『日本書紀』などの記録を見ても、草壁皇子の功績についてあまり詳しく書かれていません。実際、彼が天皇になっていたとしても、強いリーダーシップを発揮できたかどうかは分かりません。
結果的に、草壁皇子は28歳の若さで病死してしまいました。持統天皇は深く悲しみましたが、それでも前を向き、孫である文武天皇を天皇にするための道を作っていきました。
持統天皇とライバルたち!女性天皇が戦った権力争いとは?
飛鳥時代は、天皇の座をめぐる争いが激しかった時代です。持統天皇も、権力を守るために多くの戦いを経験しました。
最も有名なのが「壬申の乱(じんしんのらん)」です。持統天皇の夫・天武天皇は、この戦いに勝利し、天皇の座を手に入れました。しかし、その後も権力争いは続き、持統天皇は多くの敵と戦わなければなりませんでした。
特に、天武天皇の息子である「高市皇子(たけちのみこ)」や「大津皇子」は、持統天皇にとって脅威となる存在でした。持統天皇は、彼らを排除することで、草壁皇子や孫の文武天皇を天皇にする道を作っていきました。
つまり、持統天皇は「女性だから」と遠慮することなく、強いリーダーシップを発揮していたのです。
持統天皇の晩年と最期!彼女はどんな死を迎えたのか?
持統天皇は、孫の文武天皇に天皇の座を譲った後も、政治に関わり続けました。これは、日本で初めての「上皇(じょうこう)」という立場でした。つまり、「天皇を引退した後も、影響力を持ち続ける」という新しい形を作ったのです。
しかし、702年(大宝2年)、持統天皇は58歳で亡くなりました。亡くなる直前まで政治に関わっていたと言われています。死因についてははっきりとした記録がありませんが、病気だったと考えられています。
持統天皇は、夫・天武天皇と同じ「天武・持統合葬陵(てんむ・じとうごうそうりょう)」に埋葬されました。これは、日本で初めての「合葬陵(ごうそうりょう)」とされており、今でも奈良県にその墓が残っています。
持統天皇が後世に残したもの!現代にも影響を与えた功績とは?
持統天皇が築いた政治体制や文化は、現代の日本にも影響を与えています。特に、以下の3つの点で、彼女の功績が今でも生き続けています。
- 律令制度の基盤を作った
→ 持統天皇が整えた制度は、後の「大宝律令」へとつながり、日本の法律の基礎を作りました。 - 藤原京の都市計画
→ 彼女が作った藤原京の都市計画は、その後の奈良・平安時代の都にも影響を与えました。 - 文化の発展
→ 持統天皇が詠んだ和歌は、万葉集や百人一首に残り、今でも日本の文化の一部となっています。
持統天皇のリーダーシップと決断力があったからこそ、私たちの国の歴史が形作られたのです。
総括:持統天皇は何をした人か簡単に解説まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
1. 持統天皇とは?
- 飛鳥時代の女性天皇(第41代天皇)
- 父は天智天皇、夫は天武天皇
- 息子・草壁皇子が早世し、自ら即位
2. 持統天皇の主要な功績
- 藤原京の造営(694年)
→ 日本初の本格的な都、後の奈良・平安京の基礎に - 飛鳥浄御原令の施行
→ 律令制度の基礎を築き、戸籍制度(庚寅年籍)を導入 - 天皇の継承制度を確立
→ 孫・文武天皇へ皇位を譲るために「太上天皇(上皇)」の制度を創設
3. 持統天皇の性格
- 冷静で計画的な政治家
→ 国家運営において強いリーダーシップを発揮 - 家族を深く愛する母親
→ 息子・草壁皇子の即位を目指し、政治的工作を行う
4. 持統天皇のエピソード
- 壬申の乱を乗り越え、夫と共に新体制を築く
- 大津皇子の処刑に関与?
→ 皇位継承争いにおいて冷徹な一面を見せる - 万葉集・百人一首に和歌を残す
→ 代表作:「春過ぎて 夏来にけらし 白妙の…」
5. 持統天皇の最期
- 孫・文武天皇に譲位し「太上天皇(上皇)」に
- 702年に58歳で死去(死因不明)
- 奈良県の「天武・持統合葬陵」に夫と共に埋葬
6. 持統天皇が後世に残した影響
- 律令制度の基礎を築き、日本の政治体制を整える
- 日本の都市計画(藤原京)が後の都のモデルに
- 和歌文化の発展に貢献し、現代にも影響を与える
