今日は「十返舎一九(じっぺんしゃいっく)」という江戸時代の作家について分かりやすく解説します。
「十返舎一九って何をした人なの?」
「東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)ってどんな本?」
「面白いエピソードはあるの?」
こんな疑問を持っている人も多いでしょう。
一九は日本初の“職業作家”とも言われる人で、笑いを届ける名人でした。彼の代表作『東海道中膝栗毛』は、今でいう「漫才コンビ」が旅をするような楽しい話です。さらに、彼の生き方も破天荒で、晩年の辞世の句まで面白いのです!
それでは、十返舎一九の生涯や代表作、面白エピソードについて学んでいきましょう!
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十返舎一九は何した人?生涯と代表作を簡単に解説
十返舎一九は、江戸時代の最も有名な戯作者(ユーモア作家)であり、特に『東海道中膝栗毛』という作品で広く知られています。この作品は、彼のユーモアや独特の視点で描かれた旅物語で、江戸の庶民から大名まで多くの人々に愛されました。
十返舎一九がどんな人物だったのか、そしてその生涯を簡単に振り返りながら、彼の魅力について深掘りしていきます。
十返舎一九は江戸時代のベストセラー作家!代表作は『東海道中膝栗毛』
十返舎一九は、江戸時代後期のベストセラー作家です。彼が書いた『東海道中膝栗毛』は、当時の庶民に大人気でした。この本は、弥次郎兵衛(やじろべえ)と喜多八(きたはち)の二人組が旅をする話で、旅の途中でさまざまな面白い出来事が起こります。今でいう「漫才」や「コメディ映画」のような作品です。

江戸時代の庶民は、旅行に憧れていました。でも、実際に旅をするのは大変でお金もかかります。そこで、『東海道中膝栗毛』は「読んで旅をした気分になれる本」として大ヒットしました。江戸の人たちは、本を読みながら弥次さん喜多さんの冒険にワクワクしたのです!
この本はなんと20年以上続くシリーズになり、今の連載漫画のように人気を集めました。江戸時代にも「続きが読みたい!」とワクワクしていた人がたくさんいたのですね。
十返舎一九の生い立ちと武士から戯作者への転身
一九は1765年(明和2年)、今の静岡県にあたる駿河国(するがのくに)で生まれました。本名は重田貞一(しげた さだかず)です。もともとは武士の家に生まれましたが、大人になると武士の仕事を辞め、文筆の世界に飛び込みました。
若い頃の一九は、大坂町奉行のもとで働いていました。でも、武士の仕事は彼に向いていなかったのか、すぐに辞めてしまいました。その後、「近松与七(ちかまつ よしち)」という名前で浄瑠璃(じょうるり)という語りの物語を書くようになります。こうして、作家としての道を歩み始めたのです。
その後、江戸へ戻り、版元(出版社のようなもの)である蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)のもとで働きながら、作家活動を本格化させました。
そして30歳のときに『心学時計草(しんがくとけいぐさ)』という本を出し、作家としてデビューします。
『東海道中膝栗毛』はなぜ人気だったのか?
『東海道中膝栗毛』が人気になった理由はいくつかあります。
- 江戸の庶民が旅に憧れていた
- 江戸時代、一般の人々は自由に旅をすることができませんでした。そんな時代に「もし旅をしたら?」という楽しい物語が大ヒットしたのです。
- 笑える会話が魅力的
- 弥次さんと喜多さんのボケとツッコミが面白く、まるで漫才のような軽快なやり取りが人気でした。
- 当時の流行を取り入れた
- 江戸の文化や言葉遊びをふんだんに使い、読者を楽しませました。
- 挿絵が豊富で分かりやすい
- 文章だけでなく、絵も一緒に描かれていたので、今の漫画のように気軽に楽しめました。
こうした工夫が、『東海道中膝栗毛』を長く愛される作品にしたのですね!
十返舎一九の代表作一覧!『東海道中膝栗毛』以外の名作
一九は『東海道中膝栗毛』だけでなく、たくさんの作品を書きました。代表作をいくつか紹介します。
- 『心学時計草(しんがくとけいぐさ)』(1795年)
- 初めて書いた本で、黄表紙(きびょうし)と呼ばれる風刺(ふうし)のきいた絵本です。
- 『恵比良之梅(えびらのうめ)』(1801年)
- 洒落本(しゃれぼん)というジャンルの作品で、遊郭(ゆうかく)を舞台にした風刺的な物語です。
- 『滑稽 江の島土産(こっけい えのしまみやげ)』(1809年)
- 旅をテーマにしたユーモアたっぷりの作品です。『東海道中膝栗毛』と並ぶ人気作でした。
- 『清談峯初花(せいだん みねのはつはな)』(1819年)
- 人情本(にんじょうぼん)と呼ばれるジャンルで、庶民の恋愛や人間模様を描いた物語です。
彼の作品は、どれもユーモアにあふれ、人々を楽しませるものばかりでした。
十返舎一九は日本初の職業作家!作家だけで生活できた理由
一九は、日本で初めて「作家としての収入だけで生活した人」だと言われています。
江戸時代の作家は、本を書いてもあまりお金をもらえませんでした。でも、一九は毎年20冊以上の本を出版するほどの多作(たくさんの本を書くこと)だったので、作家業だけで生活ができたのです。これは当時としてはとても珍しいことでした。
また、一九はマーケティングの才能もありました。彼の作品は、当時の流行や人々の関心をしっかりつかんでいたため、次々と売れていったのです。まさに、江戸時代のヒットメーカーですね!
十返舎一九は何した人?面白いエピソードや逸話
十返舎一九の人生には、彼らしいユーモアあふれるエピソードがたくさんあります。死に際にまで笑いを取ろうとしたエピソードや、生活の中で見せた愉快な一面など、彼の作品だけでなく、彼自身が人々を楽しませる存在でした。
ここでは、彼のユニークな人生の一端を紹介し、どのようにして人々に笑いを届けたのかを掘り下げていきます。
十返舎一九はユーモアの天才!辞世の句まで面白かった
十返舎一九は、最後の最後まで人を笑わせようとした作家でした。彼の辞世の句(じせいのく=死ぬ前に残した言葉)は、まさにユーモアたっぷりのものだったのです。
「此世(このよ)をば どりゃお暇(いとま)に せん香(こう)と ともにつひには 灰左様(はいさよう)なら」
この句の意味を簡単に言うと、
「そろそろこの世をお暇しますね。線香の煙と一緒に、はい、さようなら!」
というものです。
「線香(お線香)」と「灰(火葬後の灰)」、そして「はい、さようなら!」というダジャレを組み合わせた句で、一九らしいユーモアが詰まっています。江戸時代の人々も「最後まで粋(いき)な人だったなあ」と思ったことでしょう。
死んだときに花火を仕込んだって本当?
一九の死には、もう一つ有名なエピソードがあります。それは、「彼の遺体には花火が仕込まれていた」という話です。
一九は「自分が死んだときは火葬にしてくれ」と弟子たちに頼みました。そして、実際に火葬すると……「ドーン!」と大きな音とともに花火が打ち上がったのです!
これは、一九が死装束(しにしょうぞく=死ぬときに着る服)の中に花火を忍ばせていたからだと言われています。「死んでもみんなを楽しませたい!」という彼のサービス精神の表れだったのかもしれませんね。
しかし、実際のところこれは創作だと言われています。江戸時代には火葬が一般的ではなく、一九も普通に土葬された可能性が高いのです。でも、もし本当に花火を仕込んでいたなら、とても彼らしい最期だったでしょう。
お金にルーズすぎる!家財を売っても酒に使う生活
一九はとてもお酒が好きで、原稿料をもらってもすぐに酒代に使ってしまうことで有名でした。
彼の家には、家財道具がほとんどなかったと言われています。なぜかというと、お金がなくなるたびに、タンスや布団などを質屋に入れてしまったからです。
あるとき、友人が一九の家を訪ねると、部屋の中には何もなく、壁にはタンスの「絵」が描かれていたそうです。一九は、「タンスはもうないけど、これを見れば気分だけはタンスがあるだろう?」と笑いながら話したとか。
まさに、どんな状況でも笑いを忘れない作家だったのですね!
名前の由来が面白い!「十返舎一九」の意味とは?
「十返舎一九(じっぺんしゃいっく)」という名前は、とてもユニークな響きですよね。実は、この名前にはいくつかの意味が隠されていると言われています。
① 香木「蘭奢待(らんじゃたい)」の伝説から
- 「十回燃やしても香りが残る」という逸話がある香木「蘭奢待」にちなんで、「十返し(じっぺん)」という言葉を使った説です。
- 「自分の作品もずっと読まれ続けるように」という願いが込められていると言われています。
② 「十返舎」と「一九」を別々に読むと?
- 「十返舎(じっぺんしゃ)」は、「どんなに失敗しても何度でもやり直す!」という意味があるとも言われます。
- 「一九(いっく)」は、彼の幼名「市九(いちく)」から取ったと考えられています。
③ ダジャレ説
- 「舎(しゃ)」と「一」を並べ替えると、「舗(ほ)」になります。
- さらに「十返舗九(とうへんぼく)」と読めることから、「気が利かない偏屈な人」という意味もあるのでは?と言われています。
どの説が本当かは分かりませんが、一九らしい遊び心を感じますね!
十返舎一九の影響を受けた作品は?
一九の『東海道中膝栗毛』は、日本の文学や文化に大きな影響を与えました。
① 後の滑稽本(こっけいぼん)に影響
- 『膝栗毛』のように、ユーモアたっぷりの旅物語がたくさん作られるようになりました。
- 明治時代になると、仮名垣魯文(かながき ろぶん)の『西洋道中膝栗毛』などが登場しました。
② 漫画や映画にも影響を与えた
- 弥次さんと喜多さんのキャラクターは、後の漫才コンビやバディものの原型になったと言われています。
- 実際に『東海道中膝栗毛』は、何度も映画化やドラマ化されました。
③ 旅ガイドの元祖
- 『膝栗毛』は、現代の旅行記やガイドブックの原型になったとも言われています。
- 「旅を楽しむ本」というジャンルを作ったのが、一九の大きな功績なのです!
総括:十返舎一九は何した人か簡単に解説まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 十返舎一九とは?
- 江戸時代後期のベストセラー作家で、『東海道中膝栗毛』の作者。
- 日本初の職業作家とも言われ、ユーモアあふれる作品を多く執筆した。
- 代表作『東海道中膝栗毛』とは?
- 弥次郎兵衛と喜多八の二人が旅をする滑稽本(コメディ小説)。
- ボケとツッコミの漫才のような会話が特徴で、江戸時代の庶民に大人気だった。
- 20年以上続く長編シリーズとなり、続きが待ち望まれた。
- 十返舎一九の生い立ちと転身
- 1765年、静岡県(駿河国)生まれ。本名は重田貞一。
- もとは武士だったが、奉公を辞めて作家に転身。
- 江戸で出版社(版元)の蔦屋重三郎に見出され、本格的に作家活動を開始。
- 『東海道中膝栗毛』がヒットした理由
- 旅ブームを反映し、読者が旅気分を味わえる内容だった。
- 登場人物の会話が面白く、江戸の庶民の笑いのツボに合っていた。
- 挿絵が多く、視覚的にも楽しめる作品だった。
- 十返舎一九のユーモアあふれる逸話
- 辞世の句:「此世をば どりゃお暇に せん香と ともにつひには 灰左様なら」
→「線香の煙と一緒に灰になりますね」とダジャレを効かせた言葉。 - 「死んだ時に花火を仕込んで火葬された」という逸話があるが、創作の可能性が高い。
- 酒好きでお金がないと家財を売り、最後はタンスの絵を壁に描いてごまかした。
- 辞世の句:「此世をば どりゃお暇に せん香と ともにつひには 灰左様なら」
- 「十返舎一九」という名前の由来
- 「十返しの香」という香木の名前から取った説。
- 幼名「市九(いちく)」から「一九」を採用した説。
- 「十返舎」と「一九」を並べ替えると「とうへんぼく(頓珍漢)」と読めるという説も。
- 十返舎一九が後世に与えた影響
- 漫才コンビの原型を作ったとされる。
- 旅をテーマにしたユーモラスな作品の先駆けとなり、後の旅文学やガイドブックに影響。
- 彼のスタイルを受け継いだ作家が続々と登場し、江戸時代の娯楽文化を発展させた。