鎌倉幕府は約150年間続いた武士の政権でしたが、1333年に滅亡してしまいました。「なぜ滅びたの?」「どんな流れで倒れたの?」と疑問に思う人も多いでしょう。
歴史のテストでもよく出る重要なポイントなので、しっかりと理解しておきたいですね。そこで今回は、塾長が「わかりやすく」「時系列で」解説します!
元寇の影響や幕府の政治腐敗、後醍醐天皇の討幕計画など、鎌倉幕府が滅亡した理由を詳しく見ていきましょう。
鎌倉幕府滅亡の理由をわかりやすく解説!背景と原因

鎌倉幕府が滅亡した原因はいくつかありますが、大きく分けると次の5つです。
- 元寇による御家人の経済苦
- 北条氏の専制政治による不満の拡大
- 社会の混乱と「悪党」の台頭
- 後醍醐天皇の倒幕計画
- 足利尊氏・新田義貞らの裏切り
これらの要因が重なり、1333年に幕府は滅亡しました。
では、それぞれ詳しく見ていきましょう。
鎌倉幕府滅亡の理由は「元寇後の御家人の窮乏」
鎌倉幕府滅亡の大きな原因の一つが、1274年(文永の役)と1281年(弘安の役)に起こった「元寇(蒙古襲来)」です。元(モンゴル帝国)が日本に攻めてきましたが、幕府と武士たちは懸命に戦い、これを撃退しました。
しかし、この戦いには大きな問題がありました。
それは「戦いの見返りがなかった」ことです。普通、戦争に勝てば領地が増えて恩賞(ごほうび)をもらえます。しかし、元寇は「国を守る戦い」だったので、新しい領地は手に入りませんでした。
そのため、武士たちは恩賞をもらえず、経済的に苦しくなってしまいました。
幕府は御家人(武士)の不満を解消しようと「永仁の徳政令(1297年)」を出し、借金の帳消しを命じました。しかし、これが逆効果になり、商人が武士にお金を貸さなくなり、さらに困窮していきました。
この経済苦が、幕府に対する不満を増大させたのです。
幕府の政治腐敗と北条氏の専制が不満を拡大
鎌倉幕府の執権(政治の実権を握る者)は、代々「北条氏」が独占していました。特に「得宗専制政治」と呼ばれる時代には、北条氏の家系が強い権力を持ち、他の武士たちは不満を募らせました。
また、北条氏の家臣である「内管領(ないかんれい)」と呼ばれる役職の者たちが、政治を好き勝手に動かしていました。その代表が「長崎高資(ながさき たかすけ)」という人物です。彼は権力を独占し、武士たちを無視するようになったため、ますます幕府への不満が高まりました。
武士たちは「幕府はもう信用できない」「北条氏だけが得をしている」と考えるようになり、討幕への流れが加速していきます。
悪党の台頭と社会秩序の崩壊が倒幕を後押し
「悪党(あくとう)」と聞くと、悪い人たちの集団を想像するかもしれませんね。しかし、鎌倉時代末期の「悪党」は、もともとは幕府の政策に不満を持った武士たちのことを指します。
鎌倉時代、武士の土地は「分割相続」が基本でした。つまり、親の土地を子どもたちに均等に分けるルールだったのです。しかし、土地がどんどん小さくなると、武士は生きていけなくなります。そのため、一部の武士たちは幕府に逆らい、自分たちのやり方で力をつけていきました。
代表的なのが「楠木正成(くすのき まさしげ)」です。
彼は戦いの天才で、幕府に強く反抗しました。このような悪党の台頭が、幕府をさらに弱体化させたのです。
後醍醐天皇の討幕計画と「正中の変」
「朝廷の権力を取り戻したい!」と考えたのが*後醍醐天皇(ごだいごてんのう)です。彼は幕府を倒して、自分で政治を行うことを目指していました。
1324年に「正中の変(しょうちゅうのへん)」という討幕計画を企てましたが、これは失敗に終わりました。しかし、後醍醐天皇はあきらめず、1331年に「元弘の変(げんこうのへん)」を起こしました。
幕府は後醍醐天皇を捕らえ、「隠岐(おき)の島」に流しました。しかし、ここからが後醍醐天皇のすごいところです。彼は脱出して再び討幕を試みたのです。
元弘の変と足利尊氏・新田義貞の裏切り
後醍醐天皇の呼びかけに応じた武士の中に、「足利尊氏(あしかが たかうじ)」と「新田義貞(にった よしさだ)」がいました。
最初は幕府側の武士でしたが、「もう幕府には未来がない」と考え、天皇側に寝返りました。
足利尊氏は「六波羅探題(幕府の京都の拠点)」を攻め落とし、新田義貞は鎌倉へ進軍。
最終的に1333年、鎌倉幕府は滅亡しました。
鎌倉幕府滅亡の理由:倒幕の流れを時系列で解説

鎌倉幕府が滅亡するまでには、いくつかの重要な戦いや出来事がありました。ここでは、それらを時系列でわかりやすく解説していきます。
1324年「正中の変」— 後醍醐天皇の最初の討幕計画
鎌倉幕府に対して、最初に討幕を企てたのが後醍醐天皇でした。彼は「天皇中心の政治を取り戻したい」と考え、武士たちの不満を利用して幕府を倒そうとしました。
1324年、後醍醐天皇は「正中の変(しょうちゅうのへん)」を計画。しかし、計画が事前に幕府に知られてしまい、未遂に終わります。これにより、討幕の動きは一旦鎮まりました。
この時点では、幕府の統制力はまだ強く、反乱を未然に防ぐことができたのです。しかし、後醍醐天皇はあきらめず、次の機会を狙い続けました。
1331年「元弘の変」— 後醍醐天皇の再挑戦と敗北
後醍醐天皇は1324年の正中の変の失敗を受け、「次こそは」と計画を練り直しました。そして、1331年に再び討幕を決意し、「元弘の変(げんこうのへん)」を起こします。
このとき、後醍醐天皇は奈良県の笠置山(かさぎやま)に籠城し、幕府軍と戦いました。しかし、幕府は大軍を送り込み、笠置山は落城。後醍醐天皇は捕らえられ、「隠岐(おき)の島」へ流されることになりました。
普通なら、ここで討幕の動きは終わるはずでした。しかし、後醍醐天皇の熱意と執念は、ここからさらに大きな反乱を引き起こすことになります。
1333年「後醍醐天皇の脱出と船上山での決起」
隠岐に流された後醍醐天皇は、1333年、島を脱出します。天皇を支持する武士たちが協力し、「船上山(せんじょうざん)」という場所で挙兵しました。
これを受けて、幕府は再び討伐軍を派遣。しかし、全国の武士たちの間で、「幕府の政治は腐敗している」「もはや北条氏の独裁を続けるべきではない」という意見が広まり、討幕の動きが一気に加速します。
ここで、幕府側の有力な武士であった足利尊氏と新田義貞が、後醍醐天皇側に寝返ることになります。
1333年「足利尊氏の裏切り!六波羅探題の陥落」
足利尊氏はもともと幕府の重臣でした。しかし、幕府が弱体化し、北条氏の専制が続く中で、「このままでは武士たちは救われない」と考えるようになりました。
そして、後醍醐天皇の呼びかけに応じて、突如として「六波羅探題(幕府の京都の拠点)」を攻撃!六波羅探題は短期間で陥落し、幕府の京都支配は終わります。
この出来事により、幕府の影響力は大きく後退し、関東地方でも動揺が広がりました。
1333年「新田義貞の鎌倉攻め!幕府滅亡へ」
一方、関東では、もう一人の有力武士新田義貞が挙兵し、鎌倉へ向かって進軍していました。
幕府軍も迎え撃ちますが、すでに足利尊氏の裏切りで戦力が大幅に減っており、持ちこたえることができませんでした。
そして、1333年5月、新田義貞の軍勢が稲村ヶ崎(いなむらがさき)を突破し、鎌倉に突入。幕府の中心地である鎌倉が戦場となり、最後の戦いが繰り広げられました。
ついに、幕府のリーダーである北条高時(ほうじょう たかとき)は、自らの屋敷に火を放ち、一族郎党とともに自害。こうして、鎌倉幕府は完全に滅亡しました。
総括:鎌倉幕府滅亡の理由をわかりやすくのまとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
滅亡の主な理由
- 元寇による御家人の経済苦
- 新たな領地が得られず、恩賞が不十分で武士が困窮。
- 永仁の徳政令(1297年)が商人の不信を招き、経済悪化を加速。
- 北条氏の専制政治
- 北条氏による「得宗専制政治」で他の御家人の不満が高まる。
- 内管領・長崎高資の専横が幕府への信頼をさらに失わせた。
- 悪党の台頭
- 武士たちが幕府に反抗して独自勢力を築く。
- 楠木正成らの活躍が討幕運動を支援。
- 後醍醐天皇の討幕計画
- 「正中の変(1324年)」や「元弘の変(1331年)」を企てるも失敗。
- 隠岐島への流刑後、再び脱出し挙兵。
- 足利尊氏・新田義貞の裏切り
- 足利尊氏が六波羅探題を陥落させ、幕府の京都支配を崩壊。
- 新田義貞が鎌倉へ進軍し、最終的に幕府を滅亡させた。
時系列の流れ
- 1324年:「正中の変」で討幕計画が露見(失敗)。
- 1331年:「元弘の変」で後醍醐天皇が捕らえられ、隠岐島へ流刑。
- 1333年(初頭):後醍醐天皇が隠岐島を脱出し、船上山で挙兵。
- 1333年(春):足利尊氏が六波羅探題を攻撃・陥落させる。
- 1333年(5月):新田義貞が鎌倉を攻め、北条高時が自害。幕府滅亡。
要点
- 鎌倉幕府の滅亡は、経済的困窮、不満の蓄積、後醍醐天皇の執念、武士の裏切りが複雑に絡み合った結果。
- 最後の戦いは1333年5月、新田義貞による鎌倉攻めが決定打となった。