今日は「北里柴三郎(きたさと しばさぶろう)」という人について分かりやすく説明します。名前はむずかしいかもしれませんが、じつはとてもすごい人で、新しい千円札の顔にもなった人物です。

病気とたたかうためにがんばったお医者さんで、たくさんの人の命を救いました。とくに「細菌(さいきん)」という小さな生き物の研究で世界中から注目されたんですよ。

ではさっそく、北里柴三郎が何をしたのか、やさしく見ていきましょう!

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北里柴三郎は何をした人か簡単に解説!功績やすごさ

北里柴三郎(きたさとしばさぶろう)は、たくさんの人を病気から救ったすごいお医者さんです。彼の発見や活やくを、わかりやすく紹介していきます。

破傷風の治療法を世界で初めて発見した人

北里柴三郎がいちばん有名になったきっかけは、「破傷風(はしょうふう)」という病気の治し方を見つけたことです。破傷風とは、けがをしたときに体の中に入ってくる菌(ばい菌)が原因で、体がカチカチにかたまってしまう、こわい病気です。昔はこの病気でたくさんの人が亡くなっていました。

北里はドイツに留学していたとき、破傷風の研究をしていました。そして世界で初めて、その菌をきれいに取り出すことに成功しました。それだけでなく、動物を使った実験で、破傷風の毒を打ち消す「血清(けっせい)」というものも見つけたのです。

これにより、破傷風にかかった人でも助かるようになり、多くの命が救われました。この研究で、北里柴三郎は世界中の医学者から「すごい!」とよばれるようになりました。

ペスト菌を発見してたくさんの人を救った

もうひとつ、北里柴三郎がすごいといわれる理由は、「ペスト菌(きん)」を見つけたことです。ペストとは、昔のヨーロッパで大流行して、たくさんの人が亡くなったとてもこわい病気です。

1894年、ペストが香港ではやっていたとき、日本政府は北里柴三郎を現地に送りました。北里さんは、だれもやりたがらない「亡くなった人の体を調べる」という、きけんな仕事をすすんで行いました。

そしてとうとう、ペストの原因となる「菌」を世界で初めて発見したのです。さらに、どうやったら広がらないかを調べて、消毒やネズミの退治を行い、ペストの流行をおさえることに成功しました。

北里は、「命をかけてでも病気とたたかう」というすごい覚悟を持っていた人だったのです。

日本で初めての伝染病研究所をつくった人

北里柴三郎は、海外だけでなく日本でも大きなことを成しとげました。それが「伝染病研究所(でんせんびょうけんきゅうじょ)」という、日本で初めての病気の研究施設をつくったことです。

当時、日本には伝染病について本格的に研究できる場所がありませんでした。でも北里は、「病気を防ぐためには、しっかり研究しないといけない!」と思い、福沢諭吉(ふくざわ ゆきち)の助けを借りて、1892年に伝染病研究所をつくりました。

この研究所では、さまざまな病気の原因や、どうやって治すかを調べることができました。たとえば結核(けっかく)や赤痢(せきり)、インフルエンザなどの研究もここで行われました。

北里がつくった研究所のおかげで、日本の医学はぐんとレベルアップしたのです。

血清療法を使って病気とたたかった「予防医学の父」

北里柴三郎は、病気になってから治すだけでなく、「病気になる前にふせぐことが大事だ!」と考えました。これを「予防医学(よぼういがく)」といいます。

北里が行った「血清療法(けっせいりょうほう)」という治療法は、体に抗体(こうたい)を作って、病気に負けないようにする方法です。これはワクチンのもとにもなった大事な発見です。

この考え方が広まったことで、伝染病にかかる人を減らすことができるようになりました。今の時代、インフルエンザやコロナのワクチンがあるのも、北里さんが残した研究のおかげです。

このように、北里柴三郎は「予防医学の父」とよばれるくらい、病気とたたかう新しい方法を世の中に広めたのです。

新しい千円札の顔に選ばれた理由

北里柴三郎は、2024年から発行される新しい千円札の肖像(しょうぞう)としてえらばれました。これはとても名誉(めいよ)なことです。なぜ彼がえらばれたのでしょうか?

それは、北里が「たくさんの人の命を救ったから」です。破傷風の治療法を見つけたり、ペストの流行を止めたり、日本で初めての研究所をつくったり…。どれも国や世界にとって、とても大きな功績(こうせき)です。

お札になる人は、「多くの人に知られていて、尊敬されていて、社会に役立った人」という条件があります。北里柴三郎はそれをすべて満たしていたため、千円札の顔にえらばれたのです。

北里柴三郎は何した人か簡単に:人物像や豆知識

ここからは、北里柴三郎の性格や人柄(ひとがら)、おもしろい豆知識を紹介していきます。どんな気持ちで研究に取り組んでいたのか、どんな先生だったのかが分かると、もっと北里に親しみがわいてきますよ。

では、やさしく解説していきましょう!

「雷おやじ」と呼ばれた理由

北里柴三郎は、まじめでとても熱心な先生でした。弟子(でし)たちからは「ドンネル先生」とよばれていました。これはドイツ語で「雷(かみなり)」という意味です。つまり「雷おやじ」というニックネームがつけられていたのです。

なぜそんなあだ名がついたのでしょうか?れは、北里さんが研究や勉強にとてもきびしく、ちょっとでも手をぬいたり、ミスをしたりすると「何をやっているんだ!」と本気でしかっていたからです。

でもそれは、医学や命のことを大切に思っていたから。人を助ける仕事にはまちがいがあってはいけない、という強い気持ちのあらわれでした。弟子たちも、最初はこわがっていましたが、のちに「本当にありがたい先生だった」と感謝していたそうです。

弟子は野口英世や志賀潔など

北里柴三郎は、自分だけが研究するのではなく、たくさんのすばらしい弟子を育てました。その中には、日本だけでなく世界で活やくした人たちがいます。

たとえば「野口英世(のぐち ひでよ)」は、黄熱病(おうねつびょう)という病気の研究で有名な人です。彼はアメリカやアフリカで命がけの研究を行い、人類のために尽くしました。

また、「志賀潔(しが きよし)」は、赤痢(せきり)という病気の原因になる「赤痢菌」を発見した人です。これによって赤痢の予防や治療ができるようになりました。

このように、北里柴三郎のもとで学んだ人たちは、日本や世界の医学を前に進める大きな力になったのです。まさに「名指導者」でもあったのですね。

なぜ「キタサト」と読むの?名前の読み方のヒミツを解説

「北里柴三郎」の「北里」という名字、どう読むか分かりますか?じつは昔は「キタザト」と読むのが正しかったそうです。でも、ある理由から「キタサト」と呼ばれるようになったのです。

その理由は、北里がドイツに留学していたときのこと。ドイツの人たちは「ザト」と発音しづらくて、「キタサト」と言っていたんです。すると北里も「そのほうが分かりやすいね」と思い、それ以来「キタサト」と名乗るようになりました。

今では「キタサト」という読み方がふつうになっています。ちょっとしたきっかけで、名前の読み方が変わったというのも、おもしろい話ですね。

北里大学って何?北里柴三郎との関係

みなさんは「北里大学(きたさと だいがく)」という学校を聞いたことがありますか?じつはこの大学、北里柴三郎と深い関係があります。

北里大学は、北里柴三郎がつくった「北里研究所」の50周年を記念して作られた大学です。医学や薬学、看護学(かんごがく)など、人の命や健康を守る勉強ができる大学で、今もたくさんの学生ががんばっています。

つまり、北里柴三郎が大切にした「病気とたたかうための研究」や「人を助ける医療の心」は、今も北里大学にしっかりと受けつがれているんです。

北里柴三郎の年表で人生を時系列でざっくり

最後に、北里柴三郎の一生を年表で見てみましょう。いつ、どんなことをしたのかがわかると、すっきり整理できますね。

出来事
1853年熊本県に生まれる
1883年東京大学医学部を卒業
1885年ドイツに留学。コッホ博士のもとで研究開始
1889年破傷風菌の純粋培養に成功
1890年血清療法を確立
1894年ペスト菌を発見
1892年私立伝染病研究所を設立
1914年慶應義塾大学医学部を創設
1931年78歳で亡くなる(東京)

北里柴三郎は、人生のほとんどを「人の命を守るため」にささげたすばらしい人物だったのです。

総括:北里柴三郎何をした人か簡単に解説まとめ

最後に本記事のまとめを残しておきます。

  • 北里柴三郎は病気とたたかうお医者さんで、新しい千円札の顔にもなった人物。
  • 世界で初めて破傷風の治療法を発見し、多くの命を救った。
  • ペスト菌を発見し、広がりを防ぐ方法も考えた。
  • 日本で初めての伝染病研究所をつくり、病気の研究を広めた。
  • 血清療法を使って「予防医学」を広め、ワクチン開発にも影響を与えた。
  • 「雷おやじ」と呼ばれるほど研究に熱心で、厳しくも愛のある先生だった。
  • 弟子には野口英世や志賀潔など、世界で活やくした医学者がいる。
  • 「北里」の読み方は留学先のドイツで「キタサト」と呼ばれたのがきっかけ。
  • 北里大学は、北里の研究精神を受けつぐ大学として設立された。
  • 北里柴三郎は、一生を通じて人々の健康と命を守るために努力した人物。