今回は「野口英世(のぐちひでよ)」という、昔の日本に生まれて世界で活やくしたすごい医者・研究者についてお話します。

野口英世は、千円札にもなったことで名前を聞いたことがある子もいるかもしれませんね。でも、「結局、何をした人なの?」「どうして有名なの?」と聞かれると、答えられない人も多いはず。

そこで今日は、野口英世がどんなことをしたのか、なぜ今でも語りつがれているのかを、子どもにもわかりやすく解説します!

野口英世は何をした人か簡単に解説:細菌学の功績

野口英世は、日本を代表する細菌学者として世界的に有名です。彼の医学的な功績や、命をかけて取り組んだ研究についてわかりやすく解説します。これを読めば、野口英世が何をした人なのか、すぐに理解できるようになりますよ。

野口英世は何をした人?細菌の研究でノーベル賞候補に

野口英世は「細菌学者(さいきんがくしゃ)」といって、目に見えない小さな細菌(ばい菌)を研究するお医者さんでした。病気を引きおこす細菌を見つけたり、それにどう立ち向かうかを研究したりして、多くの人の命を救ったんです。

特に注目されたのは「黄熱病(おうねつびょう)」や「梅毒(ばいどく)」などの、当時とてもこわかった病気の原因を見つけるために、命がけで研究を続けたこと。何度もノーベル賞の候補に名前がのぼるほど、世界中から評価されました。

彼の努力は、日本だけでなく世界の医療の発展に大きく役立ったんですよ。

梅毒の病原菌を見つけた研究で世界に注目

野口英世の一番有名な研究の一つが、「梅毒(ばいどく)」という感染症の病原菌を特定したことです。

当時、梅毒はとてもこわい病気で、体が弱ってしまうだけでなく、ほかの人にうつることもありました。その正体をつきとめるのは、医学の世界で大きな課題だったのです。

野口英世は、アメリカの研究所でこの病原菌をピュアな形(純粋培養)で取り出すことに成功しました。この発見は医学の歴史を前に進める大きな一歩で、彼の名前は世界に知られるようになりました。

つまり、見えない敵とたたかう「名探偵」のような働きをしたわけですね!

黄熱病の研究中に命を落とすほど熱心になる

黄熱病(おうねつびょう)は、アフリカや南アメリカなどで広がっていた、とてもこわい感染症です。高い熱や頭痛、そして命をうばうこともある病気で、当時はワクチンも治療法もありませんでした。

野口英世は、「なんとかしてこの病気を止めたい」という思いから、アフリカにわたり、現地で黄熱病の研究に取りくみました。毎日寝る間もおしんで研究を続けましたが、その研究のさなか、自分自身も黄熱病にかかってしまい、51歳で亡くなってしまいました。

「人を助けたい」という気持ちがどれだけ強かったか、よくわかりますね。まさに命をかけた研究者でした。

千円札の顔になった理由

「野口英世って千円札の人だよね!」と知っている子も多いと思います。でも、なぜ彼が千円札の顔になったのか知っていますか?

それは、彼が医学の世界でとても大きな功績(こうせき)を残したからなんです。世界中の病気とたたかい、人の命を守るために努力した野口英世は、日本を代表する人物としてえらばれました。

2004年から新しい千円札の顔として使われ、「日本の誇り」として今でも多くの人に親しまれています。ただ顔がかっこいいからじゃないんですよ(笑)!

ノーベル賞は受賞していない?その理由

「ノーベル賞の候補になったのに、なんで受賞していないの?」と思った子もいるかもしれません。

実は野口英世の研究のうち、「黄熱病の原因」として発表した細菌は、のちに本当の原因ではないことが分かってしまったんです。黄熱病の本当の原因は、ウイルスでした。

でも、野口英世の研究があったからこそ、後の研究者たちが本当の病原体を見つけることができました。つまり、失敗だったとしても「医学の前進」に大きく役立ったんですね。

だからこそ、ノーベル賞はとれなかったけれど、世界中の人から尊敬されているんです。

野口英世が何をした人か簡単に:生涯を子ども向けにわかりやすく

さて、ここからは野口英世がどんな子どもだったのか、どんな人生を送ったのかを紹介します。ただ「すごい人」と言われても、どんな思いで頑張ってきたのかを知らないと、本当のすごさは伝わりませんよね。

じつは英世の人生は、けっして楽なものではありませんでした。たくさんの困難をのりこえて、夢をかなえたからこそ、今でも多くの人に尊敬されているのです。それでは、英世の物語を見ていきましょう!

子ども時代:やけどを乗り越え医者を目指す

野口英世は1876年、福島県の猪苗代(いなわしろ)という町で生まれました。とても貧しい農家の家に生まれ、1歳半のとき、囲炉裏(いろり)という火のある場所に落ちてしまい、左手に大やけどを負いました。

そのやけどのせいで、英世の左手の指はくっついてしまい、うまく動かせないまま育ちました。まわりの子どもからは「てんぼう(手が棒のようになっている)」などとからかわれ、つらい思いもたくさんしたそうです。

でも、英世はあきらめませんでした。「いつかこの手を治したい。そして医者になりたい!」という気持ちが、彼の人生のスタートだったのです。

学生時代:先生や友だちの支えで手術に成功

英世が15歳のとき、学校の先生や友だちが「英世の左手を手術しよう」と、お金をあつめてくれました。みんなの支えで、英世は会津若松にある病院で手術を受け、見事に左手が動くようになったのです。

この体験は、英世にとってとても大きな意味がありました。「医学ってすごい!」「自分も人を助ける医者になりたい!」と心から思うようになったのです。

その後、英世は一生けんめい勉強して、医者の免許をとり、もっと深く病気のことを知るために研究者の道へと進んでいきました。みんなの応援が、英世の夢をかなえるきっかけになったんですね。

研究生活:アメリカで活躍し&世界の病気と向き合う

英世は、日本で医者として働いたあと、さらに研究を深めるためにアメリカへと渡ります。そこでは英語の壁(ことばのちがい)や文化のちがいに苦しみながらも、たくさんの病気に関する研究を続けました。

アメリカの「ロックフェラー医学研究所」では、梅毒や蛇毒、トラコーマなど、世界中の人が苦しんでいた病気の原因をつきとめようと努力しました。多くの国を旅しながら研究を重ね、いくつもの学会で表彰されるほど、評価されたんです。

「どんな国の人でも病気はこわい。だから国や人種をこえて、助け合いたい」という思いが、英世の中にはずっとあったんですね。

死因:黄熱病にかかりアフリカで亡くなる

1927年、野口英世はアフリカに渡ります。目的は、黄熱病の研究です。この病気をなんとかしたいという思いから、英世は現地で実際に調査・研究を続けました。

しかし、翌年の1928年。研究のさなかに英世自身が黄熱病にかかってしまいます。そして治療のかいもなく、アフリカの地で51歳という若さで亡くなってしまいました。

日本でも、そして世界中でも、彼の死は大きなニュースになりました。それだけ多くの人が、英世の努力と人のために生きた姿に感動していたということです。

野口英世の名言と教訓:「努力は天才なり」から学ぶこと

野口英世が残した有名な言葉に、こんなものがあります。

「誰よりも三倍、四倍、五倍勉強する者、それが天才だ」

この言葉には、「生まれつきの才能よりも、努力することの方が大事だよ」というメッセージがこめられています。英世自身も、体にハンデがあって、家も貧しくて、苦しいことばかりでした。それでも努力をつづけて、世界に名前を知られる人になったんです。

「自分にはムリかも…」と思ってしまうときこそ、この言葉を思い出してみてくださいね。あなたにもきっと、野口英世のように大きな夢がかなえられるはずです!

総括:野口英世は何をした人か簡単に解説まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

  • 野口英世は、日本を代表する細菌学者で、世界中の感染症の研究に取り組んだ。
  • 特に「梅毒」の病原菌を特定し、世界的に注目を集めた。
  • アフリカで「黄熱病」の研究に命をかけ、自らも感染して51歳で亡くなった。
  • その功績により、2004年から千円札の肖像として選ばれている。
  • ノーベル賞の候補には何度もなったが、黄熱病の研究に一部誤りがあり、受賞はしていない。
  • 幼少期に大やけどを負い、左手が不自由になるも、手術を経て医者を志す。
  • 学校の先生や友人の支援で手術を受けた体験が、医学の道を目指すきっかけとなった。
  • アメリカの研究所で活躍し、世界各国で感染症の研究を行った。
  • 野口英世の名言「努力は天才なり」は、努力の大切さを教えてくれる。
  • 困難に負けず努力し続けた姿勢が、今も多くの人々に感動を与えている。