今日は「日本が国際連盟を脱退した理由」について、子どもでも分かるように、やさしい言葉でくわしく解説していきます。

日本はむかし、国際連盟という世界の平和を守るためのグループに入っていました。でも、あることをきっかけに脱退(やめてしまうこと)してしまったのです。

その理由や背景、そしてその後どうなったのかを、時系列で分かりやすく見ていきましょう。

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日本が国際連盟を脱退した理由をわかりやすく

日本が国際連盟を脱退した理由は、単なる外交の問題ではなく、歴史的背景や日本国内の状況が絡み合っています。

ここでは、その経緯を時系列で分かりやすく解説し、なぜ日本が国際連盟をやめる決断をしたのか、そしてその後どうなったのかを追っていきましょう。

「満州事変」がきっかけだった

日本が国際連盟を脱退するきっかけになったのは、1931年に起きた「満州事変(まんしゅうじへん)」という出来事です。これは、中国の満州(今の中国東北部)で、日本の軍隊「関東軍(かんとうぐん)」が、自分たちで鉄道を爆破して「中国がやった」とうそをつき、戦争を始めた事件でした。

本当は関東軍が勝手にやったことで、日本の政府や天皇にも知らせていませんでした。でも、関東軍はどんどん満州を占領していき、ついには「満州国(まんしゅうこく)」という国を勝手に作ってしまったのです。

この行動が、国際的に大きな問題になり、国際連盟でも話し合われることになりました。つまり、「満州事変」が日本脱退のスタートだったのです。

脱退の直接の原因はリットン報告書と国際世論の反発

満州事変のあと、国際連盟は「リットン調査団(ちょうさだん)」というグループを満州に送りました。調査団は、日本と中国の両方を調べて、1932年に「リットン報告書(ほうこくしょ)」というまとめを出しました。

この報告書では、「日本の行動は自衛とは言えない」「満州国は地元の人たちがつくった国ではなく、日本の軍隊に支えられている」と書かれていました。つまり、「日本のやったことはダメですよ」と言われたのです。

これに対して日本は、「自分たちの正当な行動が理解されなかった」と怒り、ますます国際社会との関係が悪くなっていきました。この報告書こそが、日本が国際連盟をやめる決定打になったのです。

日本政府と軍部の対立が脱退決定を後押しした理由

当時の日本は、政府と軍隊の考え方がバラバラで、うまくまとまっていませんでした。政府は「戦争を大きくしたくない」と思っていたのですが、軍部は「中国の土地をもっと取りたい!」と考えていました。

特に関東軍は政府の言うことを聞かず、独断で行動してしまいました。そして、政府もそれを止める力がなかったのです。これを「軍の暴走(ぼうそう)」といいます。

このように、国の中で意見が割れていたことも、結果的に「国際連盟とはもう一緒にやっていけない」と日本が思ってしまった原因のひとつです。日本は、内側からも外側からも孤立していったのです。

国際連盟での勧告案と松岡洋右の退場劇で決定的に

1933年、国際連盟では「日本は満州から撤退しなければならない」という勧告案(けんこくあん)が出されました。この案に、日本をのぞく42か国が賛成し、日本だけが反対しました。

このとき、日本の代表だった松岡洋右(まつおかようすけ)は、「そんな決定は受け入れられない!」と言って、なんとその場から退場してしまいました。この場面はニュースでも大きく取り上げられ、日本中で話題になりました。

松岡は帰国後、国民から拍手で迎えられましたが、この退場劇がきっかけとなり、日本はついに正式に脱退を通告します。これが1933年3月のことでした。

日本国民の反応と新聞報道が脱退を後押しした背景

国際連盟からの脱退が決まったとき、多くの日本人はそれを「誇り高い行動」として応援しました。新聞やラジオも、関東軍や政府の行動を「正義の戦い」として伝え、多くの国民が信じてしまったのです。

また、当時の日本は「昭和恐慌(きょうこう)」という大きな不況で、人々の生活がとても苦しかった時代でした。そうした中で、「満州には土地や仕事がある」という期待が高まり、国民は軍の行動を支持するようになっていきました。

このようにして、国民の声やマスコミの報道も、日本が脱退へと進む後押しをしてしまったのです。

日本が国際連盟を脱退した理由の後に:孤立と戦争への道

国際連盟を脱退した日本は、その後どうなってしまったのでしょうか?

「やめた」ことでどんな影響があったのか、世界との関係や戦争とのつながりについて、しっかり見ていきましょう。

日本はどうなった?国際的な孤立とドイツとの接近

国際連盟をやめたあと、日本は他の国々からだんだんと距離を置かれるようになりました。特にアメリカやイギリス、中国などとの関係は悪化し、「国際社会の中で孤立してしまった(仲間外れになった)」のです。

その一方で、同じように国際連盟を脱退したナチス・ドイツやイタリアと近づくようになります。特に日本とドイツは、「ソ連(旧ロシア)に対抗しよう」という目的で、日独防共協定(にちどくぼうきょうきょうてい)を結び、どんどん協力するようになっていきました。

こうして、日本は「世界の平和を守る仲間」から、「軍事力で行動する国」に変わっていったのです。

満州国を守るための外交政策が戦争の引き金に

日本は、自分たちが作った「満州国」を守るために、どんどん強い態度をとるようになりました。他の国が満州国を認めなかったことで、日本は「ならば自分たちで守るしかない!」という考えに傾いていきます。

この考え方は「自衛(じえい)」のように見えるかもしれませんが、じっさいには他国との対立をどんどん深める原因になってしまいました。

さらに、日本は中国全土への進出を目指して日中戦争を始め、その後はアメリカやイギリスとも戦う「太平洋戦争」へと進んでいきます。満州国を守るという名目で始まった行動が、大きな戦争の引き金になってしまったのです。

日本の孤立はなぜ問題だった?連盟脱退のデメリットを整理

日本が国際連盟をやめてしまったことで、どんな困ったことが起こったのかを整理してみましょう。

まず、国際的な話し合いの場を失ってしまったため、平和的に問題を解決するチャンスがなくなりました。その結果、日本は「武力(ぶりょく)」に頼るしかなくなり、戦争に向かっていく道を選ばざるを得なくなったのです。

また、日本は国際的な信用も失ってしまいました。連盟の決定を一方的に拒否し、脱退したことで「日本は話し合いを無視する国」というイメージが広がってしまったのです。これにより、経済や外交でも不利な立場に追い込まれていきました。

日本の国際連盟脱退から学べる教訓と現在へのつながり

国際連盟を脱退したことは、日本の歴史にとって大きなターニングポイントでした。このことから、私たちはいくつかの大切な教訓を学ぶことができます。

まず1つ目は、「国際社会との協力がいかに大切か」ということです。どんなに自分の国の立場を守りたいと思っても、他の国々と話し合い、ルールを守ることが、世界の平和と自国の安全につながります。

2つ目は、「情報を正しく受け取ることの重要性」です。当時の新聞やラジオは、戦争をあおるような内容ばかりで、国民は正しい情報を知らずに軍を応援してしまいました。今の時代も、情報に流されず、何が本当なのかを見極める力が大切ですね。

テスト対策にも使える!覚えておきたい用語と年表まとめ

ここでは、テストにも出やすい重要なキーワードや年号をまとめておきましょう。しっかり覚えておけば、学校のテストでもばっちりです!

用語説明
満州事変1931年に関東軍が自作自演で始めた戦争。日本の脱退のきっかけ。
満州国日本がつくった新しい国。国際的には認められなかった。
リットン報告書国際連盟の調査団がまとめた、日本を批判する内容の報告書。
松岡洋右国際連盟の総会で退場し、脱退を表明した日本代表。
国際連盟脱退1933年、日本が連盟から正式に脱退した出来事。

重要な年表

出来事
1931年満州事変が起こる
1932年満州国が建国される
1933年国際連盟で日本の行動が批判され、松岡洋右が退場
同年日本が国際連盟脱退を通告
1935年日本の脱退が正式に発効する

総括:日本が国際連盟を脱退した理由まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

  • 日本が国際連盟を脱退したきっかけは、1931年の「満州事変」だった
  • 満州事変は、関東軍が自作自演で中国に攻撃を仕掛けたことが原因
  • 国際連盟が派遣した「リットン調査団」が日本の侵略行為と認定した
  • 日本はリットン報告書に反発し、「正当な行動が理解されない」と怒った
  • 政府と軍部の意見の対立が、日本の孤立を深め、脱退を後押しした
  • 1933年、国際連盟で日本を批判する勧告案が採択され、松岡洋右が退場
  • 日本国内では新聞やラジオが軍の行動を正当化し、国民も脱退を支持した
  • 日本は国際社会から孤立し、ドイツやイタリアと接近するようになった
  • 満州国を守るための外交方針が、日中戦争や太平洋戦争の引き金になった
  • 国際連盟脱退は、平和的解決の機会を失い、日本の国際的信頼も下げた
  • 現代の教訓として、国際協力や正しい情報の重要性を学ぶべきである
  • テスト対策として「満州事変」「リットン報告書」「松岡洋右」などが重要用語