「後藤新平(ごとうしんぺい)」という人の名前を聞いたことがありますか?
日本の歴史に出てくる有名な政治家で、関東大震災のあとに東京を復興させた人として知られています。でも、実はそれだけじゃありません。
後藤新平は、医者からスタートして、台湾の近代化や都市計画、鉄道の整備など、日本をつくるさまざまな仕事にかかわった「なんでもできる人」だったのです!
今回は、そんな後藤新平が「何をした人」なのかを、塾長がやさしく解説します。子どもでもわかるように説明するので、安心して読み進めてくださいね!
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後藤新平は何をした人?生涯と功績をわかりやすく
後藤新平は、明治から昭和のはじめにかけて活やくした政治家です。医者としてスタートしたあと、台湾の政治や鉄道の仕事、東京の都市計画など、いろいろな分野で力を発揮しました。
ここでは、後藤新平がどんなことをしてきたのか、時代の流れにそってわかりやすく見ていきましょう。
後藤新平は医師からスタートした異色の政治家!キャリアの始まり
後藤新平は、もともとは医者として社会に出ました。生まれたのは1857年(安政4年)、岩手県奥州市です。福島県にある須賀川医学校を卒業したあと、愛知県病院で病院長になりました。若いのにすごいですね!
そのあと、国の衛生(えいせい)を良くするための意見書を出したことで、内務省という国の役所にスカウトされます。ここで公衆衛生の仕事に力を入れるようになり、「国の医者になりたい」という思いで活やくしました。
医者から役人へ、そして政治家へとキャリアを広げていった後藤新平。これが、彼のすごさのはじまりなのです。
後藤新平は台湾統治で大活躍!「生物学的統治」で近代化を推進
日清戦争のあと、日本は台湾を領有することになりました。でも、最初はゲリラ(反対勢力)が多くて統治がうまくいきませんでした。そこで登場したのが後藤新平です。彼は台湾総督・児玉源太郎のもとで民政長官として台湾を治める役目をしました。
彼のやり方は「生物学の法則」にもとづいています。「ヒラメの目をタイの目にはできない」という言葉のように、現地の文化や習慣を大切にしたのです。そのおかげで、人々に信頼され、ゲリラも少なくなりました。
さらに、上下水道や道路、鉄道、学校、病院などのインフラも整備。台湾の近代化をすすめ、「台湾を健康にした人」として今も台湾の人たちから感謝されています。
後藤新平は満鉄総裁として大陸進出を主導!都市計画にも尽力
台湾での成功が認められた後藤新平は、次に「満鉄(南満州鉄道株式会社)」の初代総裁として満州(今の中国東北部)の整備を任されました。ここでも鉄道を広げ、都市計画を進め、学校や水道、病院などをつくっていきました。
満鉄の仕事では、駅名に現地の言葉を使うなど、現地の人たちの文化も大切にしました。これは台湾での経験が生きている証拠です。
このころから、後藤は「都市をどうつくるか」というテーマに本格的に取り組むようになります。のちの東京復興につながる、都市計画のアイデアはここで育っていったのです。
後藤新平は関東大震災の復興を指揮!昭和通りなど都市基盤を整備
1923年に起きた関東大震災は、東京をはじめ関東一帯に大きな被害を出しました。そのとき、後藤新平は再び国の内務大臣になり、「帝都復興院」のトップとして東京の復興に立ち上がります。
彼は「元の通りに直す」のではなく、「もっと未来のことを考えた街をつくる」ことを提案しました。これが「復旧」ではなく「復興」という考え方です。
その結果つくられたのが、今も東京の中心にある「昭和通り」や「靖国通り」などの広い道路や、火災を防ぐための公園、しっかりした橋や学校などです。これにより、東京は災害に強い都市へと生まれ変わりました。
後藤新平は何をした人か:何がすごいのか簡単に
ここからは、後藤新平が「なぜ今でもすごい人」と言われるのか、その理由を深掘りしていきます。時代を超えて通じる考え方や行動力は、今を生きるわたしたちにも大切なヒントをくれますよ。
先見性と行動力で「復旧」ではなく「復興」を実現
関東大震災のあと、ただ元どおりに戻すだけではなく、未来を見すえた「復興」に取り組んだのが後藤新平のすごさです。当時の国家予算が15億円だったのに対し、後藤はなんと30億円の復興予算を提案しました。これは「未来への投資」だったのです。
広い道路、公園、鉄筋コンクリートの学校など、彼が考えた都市のかたちは、今の東京の基本になっています。「災害はまた来る。だから今こそ準備するべきだ」と考えたその先見性は、現代にも通じます。
大きな危機の中でもあきらめずに、より良い社会を目指して行動した後藤の姿勢は、まさに「本物のリーダー」だったのです。
現地を尊重した統治姿勢が台湾からも評価されている
後藤新平が台湾で実施した統治は、「上からの命令」ではなく「現地の人を理解して、一緒につくる」ものでした。彼は台湾の文化や歴史、習慣をしっかり調べ、それに合った政策を考えました。
その代表が、「阿片(あへん)」という麻薬に対する対応です。一気に禁止するのではなく、中毒者には医師の診断を必要とし、徐々に減らしていく「漸禁(ぜんきん)政策」をとりました。これにより、阿片の使用は大幅に減り、社会の安定につながったのです。
「相手をよく知り、尊重することが大事」という後藤の考え方は、台湾の人たちからも感謝され、今でも評価されています。
リーダーに必要な人材登用と育成のプロだった!
後藤新平は、「人材こそが国をつくる」という考えを持っていました。彼がよく言っていた言葉に「一にも人、二にも人、三にも人」というものがあります。
台湾時代には新渡戸稲造(にとべいなぞう)を招いて、製糖業を発展させました。また、若い人たちにもチャンスを与え、実力のある人にはどんどん仕事を任せました。これが、台湾や満州の近代化を支える大きな力になったのです。
後藤のすごいところは、「自分が動くだけでなく、人を動かす力があったこと」です。そして、その人たちを信じて育てる姿勢は、現代の会社や学校のリーダーにも学んでほしい点ですね。
自己犠牲で人を支える「人のお世話をする精神」
後藤新平は、自分の利益よりも他人のために尽くすことを大切にしていました。その精神は、「自治三訣(じちさんけつ)」という言葉にあらわれています。
あるとき、部下だった正力松太郎(しょうりきまつたろう)が困っていて、お金を必要としていました。後藤は自分の家を担保にして、大金を貸してあげたのです。そのことは生きている間、一度も口にしませんでした。
「人のお世話をすること」は口で言うのは簡単ですが、本当に行動で示せる人は少ないです。後藤は最後までその精神をつらぬき、借金を残して亡くなりました。けれども、彼のまいた“人を大切にする心”は、今も人々の中に生き続けています。
今も続く都市設計の原型を作った「都市計画の父」
後藤新平は「都市計画の父」ともよばれています。東京の都市設計は、関東大震災の復興を機に、彼のアイデアをもとに大きく変わりました。
たとえば、災害にそなえるために広い道路や公園をつくる、という考え方は、今の東京にもそのまま残っています。「昭和通り」「靖国通り」「明治通り」などの主要道路は、後藤の構想で計画されました。
さらに、小学校を鉄筋コンクリートで建て直すことで、火災に強い避難場所としての役割も果たすようにしました。これは、教育と防災の両方を考えた「先進的な設計」だったのです。
100年以上たった今も、そのまま使われている街のかたち。これはまさに、後藤新平がつくった未来のかたちなのです。
総括:後藤新平は何をした人かまとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 後藤新平は医師出身の異色の政治家
→ 衛生行政をきっかけに政治の世界へ - 台湾統治で民政長官として活躍
→ 現地文化を尊重する「生物学的統治」で近代化を実現 - 満鉄総裁として満州の都市計画を推進
→ インフラ整備と教育・医療を両立 - 関東大震災後、東京の復興計画を立案
→ 「復旧」ではなく「復興」の考え方で災害に強い都市へ - 「自治三訣」など、人を大切にする理念を実践
→ 私財を投げ打ち、他人を助ける自己犠牲の精神 - 人材登用と育成にも長けたリーダー
→ 新渡戸稲造など有能な人材を発掘・育成 - 都市計画の父と呼ばれるほどの先見性
→ 広い道路・鉄筋校舎・公園など、今の東京の基盤を築いた - 台湾や現代の日本でも高く評価されている人物
→ 歴史に名を残す名リーダーとして再評価が進んでいる