今日はフランス革命で処刑された王妃、マリーアントワネットのお話をしましょう。
彼女はギロチンで処刑されましたが、その後、首や遺体はどうなったのか知っていますか?実は、彼女の遺体には驚くべき運命が待っていたのです。
今回は、処刑の瞬間から埋葬、そして改葬までを分かりやすく解説します!
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マリーアントワネットの首はどうなった?処刑後の真相
マリーアントワネットは、フランス革命の嵐の中で処刑されました。その後、彼女の首や遺体がどのように扱われたのか、詳しく見ていきましょう。
ギロチンで処刑された後に見世物になった
マリーアントワネットの処刑は1793年10月16日、パリの革命広場(現在のコンコルド広場)で行われました。ギロチンの刃が落とされると、処刑人は彼女の首を高く掲げ、群衆に見せました。すると、「共和国万歳!」「自由万歳!」という歓声が上がったのです。
当時、ギロチンでの処刑は見せしめの意味もありました。王政を終わらせたことを市民に知らしめるため、重要な人物の処刑は多くの人々が見守る中で行われました。マリーアントワネットの場合も例外ではなく、革命の象徴として処刑され、その首は一瞬ですが見せしめとなったのです。
処刑後:首と遺体はすぐに埋葬されなかった
マリーアントワネットの処刑後、遺体はすぐに埋葬されたわけではありませんでした。彼女の遺体は長い籠に入れられ、パリ市内のマドレーヌ墓地へと運ばれました。しかし、すぐに埋葬命令が出ず、約2週間もの間、墓地の隅に放置されていたのです。
この冷たい扱いの背景には、当時の革命政府の方針がありました。王政を否定するために、元王妃の遺体も尊重されることはなく、最低限の処理しかされませんでした。埋葬が行われるまでの間、遺体は野ざらしの状態だったとも言われています。
首は切り離されたまま埋葬されたのか
「ギロチンで処刑された人の遺体は、首と胴体が別々に埋葬されたのか?」という疑問を持つ人もいるでしょう。実際には、マリーアントワネットの首と胴体はそのまま棺に入れられ、一緒に埋葬されました。
ただし、処刑後に特別な儀式や丁寧な扱いを受けることはなく、簡素な方法で埋葬されました。
埋葬時には、彼女の遺体を特定するための記録はほとんど残されませんでした。しかし、1815年に遺体が改葬された際、靴下止めと特徴的な顎の形を手がかりに、マリーアントワネットの遺体が確認されたのです。
首が切り落とされた後:意識があったという話は本当?
「ギロチンで首を切られた後も、意識がしばらく残る」という話を聞いたことがあるかもしれません。実際に、当時の科学者たちがこの現象を研究していました。
例えば、フランスの科学者ラヴォアジエは、自らの処刑時に「斬首後もまばたきを続ける」と言い、実際に数回まばたきをしたという記録があります。また、マリーアントワネットの処刑を見た人々の中には、「彼女の首が一瞬、まばたきをしたように見えた」と証言する人もいました。
しかし、現代の医学では、これは「神経反射」によるものであると考えられています。つまり、意識があるわけではなく、筋肉が自動的に動いただけということです。
革命政府はマリーアントワネットの首に特別な処理を施したのか?
マリーアントワネットの遺体には、特別な防腐処理などは施されませんでした。革命政府は、彼女を処刑後すぐに葬ることに関心がなく、最低限の処理しか行わなかったのです。
ただし、一部の王党派の人々は、彼女の遺体を回収しようと試みました。しかし、それは成功せず、彼女は無名の墓として埋葬されることとなりました。
マリーアントワネットの遺体はどこへ?改葬の歴史と現在
マリーアントワネットの遺体は、一度は無名の墓に埋葬されましたが、その後、王政復古によって名誉が回復され、正式な王族の墓へと移されました。その過程を詳しく見ていきましょう。
マドレーヌ墓地からの発掘&遺体の発見と王族の名誉回復
フランス革命が終わった後、ナポレオンの時代を経て、1814年にルイ16世の弟、ルイ18世が国王として即位しました。ルイ18世は、処刑された兄夫妻の名誉を回復することを決意し、マリーアントワネットとルイ16世の遺体を探すよう命じました。
マドレーヌ墓地の墓掘り人夫たちの証言をもとに捜索が行われた結果、1815年1月18日、特徴的な顎の形や靴下止めの跡から、マリーアントワネットの遺体と確認されました。同じ場所からルイ16世の遺体も発見され、王族として改めて埋葬されることになったのです。
サン・ドニ大聖堂への改葬、正式な埋葬の儀式
ルイ16世とマリーアントワネットの遺体は、それぞれ鉛の棺に納められました。そして、1815年1月21日、ルイ16世の命日に、フランス歴代国王の墓所であるサン・ドニ大聖堂へと改葬されました。

この時、棺の上には「ここに、きわめて高潔で、きわめて力強く、きわめて優れたマリー・アントワネット・ジョゼフィーヌ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ、オーストリア大公女、きわめて高潔で、きわめて力強く、きわめてすぐれたルイ16世公の妻、神の恩寵によるフランスとナヴァールの王の妻の遺骸がある」という文字が刻まれました。
こうして、王妃としての名誉は取り戻されたのです。
ルイ17世の心臓とともに祀られる王家の象徴
マリーアントワネットとルイ16世の息子であるルイ17世は、革命中にタンプル塔で獄死しました。彼の死は当時のフランス政府によって隠され、公式な埋葬も行われませんでした。
しかし、その後、彼の心臓が密かに保存されていたことが判明しました。この心臓は長い間、さまざまな場所を転々とした後、DNA鑑定によって本人のものであると確認されました。
そして、2004年6月8日、ルイ17世の心臓はサン・ドニ大聖堂に正式に納められました。現在、マリーアントワネットとルイ16世、そしてルイ17世の心臓は同じ場所で祀られています。
現在のマリーアントワネットの墓とフランス国民の評価
現在、マリーアントワネットの墓があるサン・ドニ大聖堂は、フランスの歴代国王が眠る神聖な場所として、多くの観光客が訪れています。彼女の墓は、大理石の彫刻が施された美しいもので、彼女の波乱の生涯を象徴するかのような存在感を放っています。
フランス国民の間では、マリーアントワネットの評価は時代とともに変化してきました。かつては「贅沢な王妃」として批判されていましたが、近年では「悲劇の王妃」として同情を集めています。彼女の人生を描いた映画や小説も多く、特に日本では「ベルサイユのばら」の影響もあり、根強い人気を誇っています。
マリーアントワネットの処刑をめぐる都市伝説と真実
マリーアントワネットの処刑については、さまざまな都市伝説が存在します。その中でも有名なのが、「ギロチン後も意識があった」「血が保存されていた」という話です。
しかし、現代の研究では、ギロチンで首を切られた後に意識が残ることは科学的にありえないとされています。また、「マリーアントワネットの血が保存されていた」という説もありますが、これを証明する確かな証拠は見つかっていません。
一方で、霊能者が彼女の霊視を行ったという話や、コンコルド広場で彼女の霊を見たという証言もあります。これらの話が真実かどうかは分かりませんが、それだけ彼女が多くの人々の記憶に残る存在であることは間違いありません。
総括:マリーアントワネットの首はどうなった?まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 処刑の瞬間と首の扱い
- 1793年10月16日、パリの革命広場(現コンコルド広場)でギロチン処刑。
- 処刑後、執行人が彼女の首を群衆に見せ、歓声が上がった。
- 遺体の埋葬までの経緯
- 遺体はマドレーヌ墓地へ運ばれたが、すぐに埋葬されず約2週間放置された。
- 最終的に簡素な方法で埋葬されたが、特別な処理は施されなかった。
- 首は切り離されたまま埋葬されたのか?
- 首と胴体は同じ棺に入れられ、一緒に埋葬された。
- 「ギロチン後も意識があった」という説について
- 一部の目撃者が「まばたきをした」と証言。
- 科学者ラヴォアジエも処刑時にまばたきを試みた記録あり。
- 現代医学では「神経反射」とされ、意識はなかったと考えられる。
- 王政復古後の改葬
- 1815年、ルイ18世の命令でマドレーヌ墓地から遺体を発掘。
- 特徴的な顎や靴下止めで身元を特定。
- 同年1月21日、サン・ドニ大聖堂へ改葬され、正式な王族の墓に納められた。
- ルイ17世の心臓とともに祀られる
- ルイ17世の心臓は長年保管され、DNA鑑定で本人のものと確認。
- 2004年にサン・ドニ大聖堂に納められ、家族と共に祀られる。
- 現在の評価と都市伝説
- 現在、サン・ドニ大聖堂は歴代王族の墓所として観光地に。
- 近年は「悲劇の王妃」として同情を集める。
- 霊視や血が保存されたという都市伝説があるが、科学的証拠はない。
