フランス革命の有名なエピソードのひとつに「マリーアントワネットの処刑」があります。
彼女は、フランス王ルイ16世の王妃として華やかな生活を送っていましたが、革命によって処刑されてしまいました。しかし、実際に彼女は何をしたのでしょうか?「パンがなければお菓子を食べれば?」という言葉が原因だったのでしょうか?
今回は、マリーアントワネットがなぜ処刑されたのか、その背景や真相、処刑された場所や最後の言葉について、塾長が分かりやすく解説します!
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マリーアントワネットの処刑理由:背景と要因を解説
フランス革命期に処刑されたマリーアントワネット。しかし、彼女が本当に罪を犯したのでしょうか?それとも、民衆の怒りを静めるためのスケープゴートだったのでしょうか?
ここでは、彼女が処刑された理由について詳しく見ていきましょう。
マリーアントワネットが処刑された理由は「国家への反逆罪」だった
フランス革命が起こると、国民は王政を廃止しようとしました。マリーアントワネットはオーストリア出身であり、フランスの敵国と関係があったため、「外国と結託している」と疑われました。
また、革命政府は「王政を支持する人々=国の敵」とみなしていたため、ルイ16世が1793年1月に処刑されると、王妃である彼女にも死刑が求められました。
革命裁判では「国家への反逆罪」として有罪判決を受け、わずか1日で判決が決まりました。彼女に対する世論の反感が大きく影響していたのです。
マリーアントワネットの「浪費癖」が処刑の直接的理由ではなかった
「マリーアントワネットは贅沢をしすぎたから処刑された」という話を聞いたことがあるかもしれませんが、これは正確ではありません。たしかに彼女は豪華なドレスや宝石を好みましたが、王族としてそれが普通のことでした。
しかし、1785年に起きた「首飾り事件」によって彼女の評判は地に落ちます。
実際には彼女が関与していない詐欺事件でしたが、「贅沢三昧の王妃」として国民の怒りを買ってしまいました。結局、革命期に「国を破産させた原因は王妃の浪費だ」とされ、彼女は処刑の対象になってしまったのです。
ヴァレンヌ逃亡事件が「王家の裏切り」と見なされた
1791年、マリーアントワネットとルイ16世はフランスを脱出しようとしました。この計画は「ヴァレンヌ逃亡事件」として知られています。しかし、途中で市民に見つかり、2人は逮捕されてしまいました。
この出来事によって、「王妃はフランスを見捨てて逃げようとした」と国民の怒りが爆発。さらに、彼女の恋人とされるスウェーデンの貴族、フェルセン伯爵が逃亡計画に関与していたことも問題視されました。
この事件が、彼女の「国家への裏切り」を決定づける大きな理由となったのです。
「国家の母」としてのイメージ戦略が失敗した
フランス革命が進む中、マリーアントワネットは「優しい母」としてのイメージを強調しようとしました。彼女と子供たちの絵画を作成し、「家族を愛する王妃」としての印象を広めようとしたのです。しかし、革命政府はそれを許しませんでした。
政府側は、彼女を「民衆を搾取する悪女」として描き、ポルノ的な風刺画や嘲笑するパンフレットを大量に配布しました。
その結果、彼女の「国家の母」としてのイメージは完全に崩れ去り、最終的には「処刑すべき王妃」としての印象が定着してしまいました。
裁判での「反逆罪」の判決はすでに決まっていた?
マリーアントワネットの裁判は、すでに処刑ありきで進められていました。
裁判はたった2日間で終わり、彼女の罪状は「国家への反逆」と「国民を苦しめた罪」でした。しかし、証拠とされたものの中には、彼女が関与していないデマや、でっちあげられた話も多く含まれていました。
さらに、当時の裁判は「見せしめ」の意味が強く、革命政府は「王妃を生かしておくわけにはいかない」と考えていました。こうして、マリーアントワネットは裁判に勝てるはずもなく、処刑が決定したのです。
マリーアントワネットの処刑理由の後に:場所と最後の言葉
ここからは、マリーアントワネットがどのように処刑されたのか、処刑場所や彼女の最後の言葉について詳しく解説していきます。
処刑された場所はコンコルド広場(旧革命広場)だった
マリーアントワネットの処刑は、現在のコンコルド広場(当時は革命広場)で行われました。この広場は、フランス革命期にギロチン処刑が行われる場所として有名でした。

王妃の処刑の際、多くの民衆が集まりました。当時、ギロチン処刑は「見世物」としての側面もあり、人々は王妃の最期を興味深く見守っていたのです。
ルイ16世も同じ場所で処刑されており、王妃が同じ運命をたどることは、革命政府にとって象徴的な意味を持っていました。
最期の言葉「ごめんなさい、わざとではないのよ」に隠された意味
マリーアントワネットの最期の言葉は、「ごめんなさい、わざとではないのよ(Pardonnez-moi, monsieur. Je ne l’ai pas fait exprès.)」でした。
これは、処刑台に登る際に、処刑人の足を踏んでしまったことに対して謝ったものです。この言葉からは、彼女の最後までの気高さや礼儀正しさが伝わってきます。
敵である処刑人に対しても礼儀を失わなかったことは、彼女の誇りを象徴するエピソードとして語り継がれています。
マリーアントワネットの処刑直後、遺体はどうなったのか?
マリーアントワネットの処刑後、彼女の遺体はすぐに処理されることはありませんでした。ギロチンで斬首された王妃の首は、処刑人によって高く掲げられ、群衆に見せつけられました。
集まった市民たちは歓声をあげたり、罵声を浴びせたりしました。革命政府は彼女の死を「民衆の勝利」として大々的に宣伝したのです。
その後、彼女の遺体はパリのマドレーヌ墓地に埋葬されました。しかし、革命期の囚人たちはまともな埋葬をされることはなく、王妃の遺体も他の多くの処刑された者たちと共に、雑に埋められてしまいました。
1815年、ナポレオンが没落し、王政が復活すると、マリーアントワネットの遺体は発掘され、フランス王家の墓所であるサン=ドニ大聖堂へ改葬されました。遺骨の身元確認の際に、彼女が幽閉中に手作りした靴下留めが発見され、それが王妃のものと特定される決め手となったと言われています。
「血の日曜日」とも呼ばれた革命期の大量処刑
フランス革命期には、マリーアントワネット以外にも多くの人々がギロチンによって命を落としました。特にジャコバン派が政権を握っていた「恐怖政治」の時代(1793〜1794年)には、大量の処刑が行われました。
革命政府は、王党派や反革命派だけでなく、政敵や疑わしい人物までも次々と処刑しました。ギロチンは「人道的な処刑器具」とされていましたが、実際には大量処刑を迅速に行うための装置でもありました。
マリーアントワネット以外にも、以下のような人物が処刑されました:
- ルイ16世(1793年1月21日処刑)
- ロベスピエール(恐怖政治を推進したが、最終的に処刑された)
- デュ・バリー夫人(ルイ15世の寵姫で、王党派とみなされた)
- ダントン(革命初期のリーダーの一人だったが、ロベスピエールと対立)
このように、革命が進むにつれ、王族や貴族だけでなく、革命家同士も次々と粛清されていったのです。
マリーアントワネットの現在の評価
現在、マリーアントワネットはフランス国内外で「悲劇の王妃」として再評価されています。かつては「贅沢三昧の浪費家」として批判されましたが、近年の研究では「彼女がフランスの財政を破綻させた」というのは誤解であることが明らかになっています。
特に、日本では彼女の人気が高く、『ベルサイユのばら』などの作品で「悲劇の王妃」として描かれ、多くの人々の共感を呼んでいます。また、映画やドラマでも度々取り上げられ、彼女の華やかで波乱万丈な人生は今も多くの人々を魅了しています。
フランスでは、彼女の生涯をより公平に見る動きがあり、ヴェルサイユ宮殿やコンシェルジュリー(彼女が収監されていた牢獄)では、彼女に関する展示が行われています。王妃としての責任を問われるべき部分もありますが、同時に彼女が革命の犠牲者であったことも広く認識されるようになってきました。
総括:マリーアントワネットの処刑理由まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 処刑理由は「国家への反逆罪」
- フランス革命で王政が廃止され、王妃も「国民の敵」とされた。
- オーストリア出身のため「外国と結託している」と疑われた。
- 「浪費癖」が直接の処刑理由ではなかった
- 豪華な生活は王族としては普通だったが、民衆の不満の対象となった。
- 1785年の「首飾り事件」により、彼女の評判が悪化した。
- ヴァレンヌ逃亡事件が「裏切り」と見なされた
- 1791年、国王一家の脱出計画が失敗し、国民の怒りを買った。
- これにより「国家を見捨てた王妃」としての印象が強まった。
- 「国家の母」としてのイメージ戦略に失敗
- 子どもたちと一緒の肖像画を作り、母親としての印象を高めようとした。
- 革命政府が悪意のあるプロパガンダを流し、イメージが崩壊した。
- 裁判は最初から処刑が決まっていた
- 裁判は形だけで、証拠はデマや捏造が多かった。
- 革命政府の「見せしめ」のため、処刑が決定された。
- 処刑場所はコンコルド広場(旧革命広場)
- 王妃の処刑は、民衆にとって「見世物」となった。
- ルイ16世と同じ場所で処刑され、革命の象徴とされた。
- 最後の言葉:「ごめんなさい、わざとではないのよ」
- 断頭台で処刑人の足を踏み、謝罪したもの。
- 最後まで気品を保ち、礼儀を重んじた言葉とされる。
- 遺体の扱いと改葬
- 当初はマドレーヌ墓地に雑に埋葬された。
- 1815年、王政復古後に発掘され、サン=ドニ大聖堂に改葬された。
- 革命期の大量処刑
- 恐怖政治の時代に、王族・貴族・革命家までもが処刑された。
- ルイ16世、ロベスピエール、デュ・バリー夫人などもギロチンで処刑。
- 現代の評価
- 近年では「悲劇の王妃」として再評価されている。
- 日本では『ベルサイユのばら』などの影響で人気が高い。
- フランスでは彼女の生涯を公平に見る動きがある。