歴史の授業で「水戸藩」について聞いたことがありますか?

「水戸黄門」で有名な徳川光圀の藩ですが、幕末になると「やばい」と言われるほど混乱に陥った藩でした。なぜ水戸藩はそんなに激しい内紛を起こし、悲劇的な結末を迎えたのでしょうか?

この記事では、水戸藩が「やばい」と言われる理由と、幕末の大事件を分かりやすく解説します。歴史の面白さを知るために、ぜひ最後まで読んでみてください!

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水戸藩がやばいと言われる理由:幕末の動乱と内紛の真相

幕末の水戸藩は、まるで戦場のように混乱していました。尊王攘夷の思想が強く、武士たちが派閥を作って争ったため、藩の中だけで戦争のような状況になってしまったのです。

では、水戸藩が「やばい」理由を詳しく見ていきましょう。

水戸藩がやばいのは内紛が激しすぎたから

幕末の水戸藩では「天狗党」と「諸生党」が対立し、大規模な内紛が勃発しました。天狗党は「尊王攘夷を徹底しよう!」という考えのグループ。一方、諸生党は「幕府に従うべきだ!」という立場でした。

この二つの派閥は激しく対立し、ついにはお互いに武力で決着をつけようとしました。その結果、藩士同士が殺し合う異常事態に発展し、多くの犠牲者を出したのです。

天狗党の乱では、約1,000人の天狗党が京都へ向かいましたが、幕府軍に追われて降伏。最終的に、主導者の藤田小四郎をはじめ多くの人が処刑されました。藩内だけでここまでの激しい争いがあったのは、水戸藩ならではの特徴です。

水戸藩がやばいのは幕府からも朝廷からも圧力を受けたから

水戸藩は、徳川御三家の一つとして幕府を支える立場にありながら、「尊王攘夷」という思想も強く持っていました。このため、幕府と朝廷の両方から圧力を受けるという厳しい立場に置かれたのです。

特に、朝廷から直接出された「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」が大きな問題を引き起こしました。これは「幕府を正しなさい」という命令でしたが、これによって水戸藩はさらに内部で意見が割れました。

幕府を支えるべきか、それとも朝廷に従うべきか…藩内の争いはますます激しくなっていったのです。

水戸藩がやばいのは財政難が深刻すぎたから

水戸藩は、もともと財政が厳しい藩でした。江戸に常駐する「定府大名(じょうふだいみょう)」だったため、参勤交代の費用はなかったものの、江戸での生活費がかさみました。

また、2代藩主・徳川光圀が始めた「大日本史」の編纂(へんさん)など、学問に力を入れるあまり、多くのお金が使われてしまったのです。その結果、藩の財政は火の車。領民からの税負担が増え、一揆が多発しました。

財政が安定しないことが、藩の混乱に拍車をかけたのです。

水戸藩がやばいのは過激な尊王攘夷思想が広まりすぎたから

水戸藩は、「水戸学」という学問が盛んな場所でした。

この学問は、「天皇を敬い、外国を打ち払うべきだ」という尊王攘夷の考えを強く持っていました。

このため、他の藩と比べても過激な攘夷運動が広まりやすかったのです。その結果、幕末の大事件である「桜田門外の変」や「天狗党の乱」など、激しい事件が次々と起こりました。

水戸藩士たちは、自分たちの正義を貫くために戦い、命を落としたのです。

水戸藩がやばいのは藩主・家臣の性格が「三ぽい」だったから

水戸藩士の気質を表す言葉として「水戸の三ぽい」というものがあります。それは、「理屈っぽい・怒りっぽい・骨っぽい」という3つの特徴です。

つまり、物事に対して理屈を並べ立て、怒りっぽく、そして自分の意志を貫こうとする頑固な性格が多かったのです。このため、藩内の議論が白熱しすぎて収拾がつかなくなり、武力闘争に発展することもありました。

こうした気質が、水戸藩の混乱をより深刻なものにしてしまったのです。

水戸藩がやばい!幕末の悲劇と歴史に残る壮絶な事件

水戸藩の「やばさ」は、幕末にいくつもの悲劇的な事件を生みました。その中でも特に有名な出来事を見ていきましょう。

桜田門外の変:井伊直弼暗殺事件の黒幕は水戸藩

1860年に起こった「桜田門外の変」は、幕末の大事件の一つです。これは、大老・井伊直弼(いいなおすけ)を水戸藩士と薩摩藩士が暗殺した事件でした。

井伊直弼は「安政の大獄(あんせいのたいごく)」で、多くの尊王攘夷派を弾圧したことで恨まれていました。水戸藩の志士たちは「井伊直弼は許せない!」と決意し、江戸城の桜田門前で襲撃。斬りつけて殺害しました。

しかし、この事件は水戸藩にとって大きな痛手となりました。幕府の怒りを買い、多くの水戸藩士が処刑され、藩内の情勢はさらに悪化していきました。

天狗党の乱:尊王攘夷を掲げた藩士たちの悲劇

水戸藩内で起こった最も過激な事件のひとつが「天狗党の乱」です。これは、尊王攘夷を掲げた「天狗党」と、幕府寄りの「諸生党」が対立した内戦です。

天狗党は「攘夷を実行し、幕府を正すべきだ」と考え、京都へ向かい朝廷の支持を得ようとしました。しかし、途中で幕府軍に追われ、ついには降伏。結果として、天狗党のメンバーの多くは捕らえられ、約350人が斬首されるという悲劇的な結末を迎えました。

この事件は、尊王攘夷の理念を掲げながらも、力及ばずして散っていった水戸藩士たちの悲しみを象徴しています。内部の対立によって藩士同士が争い、最終的には大きな犠牲を出すことになったのです。

戊午の密勅:朝廷からの密命が水戸藩をさらに混乱させた

幕末、水戸藩は朝廷から「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」という極秘の命令を受けました。内容は「幕府を正し、尊王攘夷を実行せよ」というものでした。この命令を受け取った水戸藩は、さらに内部で分裂しました。

「朝廷の命令に従うべきだ!」という派閥と、「いや、幕府に従うべきだ!」という派閥が対立し、藩内の争いがさらに激化したのです。

密勅を受けたことで、水戸藩は幕府からも危険視され、安政の大獄の弾圧対象にもなりました。結果的に、藩内の混乱が深まり、幕府の統制が強まることで、尊王攘夷を掲げる水戸藩士たちは追い詰められていったのです。

徳川慶喜と水戸藩:幕末の将軍はなぜ孤立したのか

幕末、水戸藩出身の徳川慶喜が15代将軍となりました。しかし、彼は水戸藩を頼ることができず、次第に孤立していきます。

その理由のひとつが、水戸藩内の内紛です。尊王攘夷を掲げる天狗党と、幕府寄りの諸生党が対立し、藩内はすでに統率が取れない状態でした。さらに、慶喜自身は「公武合体(幕府と朝廷の融和)」を目指していたため、過激な尊王攘夷派の多い水戸藩と方針が合わなかったのです。

結果として、慶喜は水戸藩からの支援を受けられず、大政奉還後は鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗れると、戦わずに江戸へ逃れることになります。水戸藩の内部対立が、慶喜を孤立させる一因となったのです。

水戸藩のその後:明治維新後の悲惨な結末

明治維新が成立した後、水戸藩はどのような運命を辿ったのでしょうか?

幕末の内紛や戦争で藩内の有力な武士たちが次々と命を落としたため、水戸藩は新政府に対する影響力をほとんど持つことができませんでした。さらに、明治政府は水戸藩を「戊辰戦争に協力しなかった」と判断し、厳しい処分を下します。

その結果、水戸藩は大幅に縮小され、経済的にも衰退していきました。

江戸時代には学問の中心地として栄えた水戸藩でしたが、幕末の動乱が原因で、多くの人材を失い、明治以降の発展に大きく乗り遅れてしまったのです。

総括:水戸藩がやばいと言われる理由まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

水戸藩が「やばい」と言われる理由

  • 内紛が激しすぎた
    • 「天狗党」と「諸生党」の対立により、武士同士が殺し合う異常事態が発生。
    • 天狗党の乱では約1,000人が京都へ向かったが、最終的に処刑された。
  • 幕府と朝廷の板挟みになった
    • 尊王攘夷を掲げる一方、徳川御三家の一つとして幕府を支える立場だった。
    • 朝廷からの「戊午の密勅」により藩内で意見が割れ、さらに混乱。
  • 財政難が深刻だった
    • 江戸での生活費がかさみ、藩の財政は常に火の車。
    • 「大日本史」の編纂など学問への支出が増え、領民への負担も大きかった。
  • 過激な尊王攘夷思想が広まった
    • 「水戸学」により、尊王攘夷思想が他藩よりも過激に浸透。
    • 桜田門外の変や天狗党の乱など、多くの事件の引き金となった。
  • 水戸藩士の気質(「三ぽい」)が内紛を助長
    • 「理屈っぽい・怒りっぽい・骨っぽい」という性格が衝突を生みやすかった。
    • 意見の対立が妥協を許さず、暴力に発展しやすかった。

水戸藩が関わった幕末の悲劇

  • 桜田門外の変(1860年)
    • 井伊直弼を水戸藩士と薩摩藩士が暗殺。
    • 幕府の弾圧を受け、多くの水戸藩士が処刑。
  • 天狗党の乱(1864年)
    • 尊王攘夷を掲げた天狗党が京都へ向かうが、幕府に鎮圧される。
    • 約350人が処刑されるなど、大きな犠牲を出した。
  • 戊午の密勅(1858年)
    • 幕府を正すよう朝廷から命令を受けるが、藩内でさらなる分裂を招く。
    • 安政の大獄で尊王攘夷派が弾圧される。
  • 徳川慶喜の孤立
    • 水戸藩出身の慶喜は15代将軍になるが、藩の内紛の影響で頼れる基盤がなかった。
    • 大政奉還後、鳥羽・伏見の戦いで敗北し、江戸へ逃れる。
  • 明治維新後の衰退
    • 幕末の混乱により人材を失い、明治政府から厳しい処分を受ける。
    • 経済的にも衰退し、影響力を失う。