「勝海舟(かつかいしゅう)」という人物を知っていますか?
歴史の教科書には必ず登場する名前ですが、「結局、何をした人なの?」と思うこともあるかもしれません。実は、勝海舟は幕末から明治にかけて、日本の未来を大きく変えた人物の一人なのです。
彼がいなかったら、日本はもっと戦争に巻き込まれていたかもしれません。
今回は、そんな勝海舟が何をした人なのか、簡単に分かりやすく解説していきます!彼の功績や、ちょっと面白いエピソードも紹介するので、ぜひ最後まで読んでくださいね。
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勝海舟は何した人?その生涯と功績を簡単に解説
幕末から明治時代にかけて、日本の歴史を大きく動かした人物の一人が勝海舟です。彼は、江戸幕府の幕臣として活躍し、明治政府でも重要な役職を担いました。
特に「江戸城の無血開城」や「日本の海軍発展」に関わったことで知られています。ここでは、彼がどんな功績を残したのかを詳しく見ていきましょう。
勝海舟は江戸幕府の幕臣:明治政府でも活躍
勝海舟は1823年、江戸で生まれました。父の勝小吉(かつこきち)は、型破りな性格の人物で、借金を重ねるほどの浪費家でした。そんな環境で育った勝海舟は、幼い頃から苦労が絶えなかったようです。
しかし、彼は勉強熱心で、西洋の学問や剣術を学びました。その才能が認められ、江戸幕府の役人として働くことになります。
その後、幕府の海軍を強くしようと努力し、日本の海軍発展に貢献しました。そして、幕府が倒れた後も、新しい明治政府で活躍し、初代海軍卿(かいぐんきょう)に就任しました。
江戸城無血開城を実現:日本を内戦から救った
幕末、日本は「戊辰戦争(ぼしんせんそう)」と呼ばれる戦いの真っ最中でした。新政府軍と旧幕府軍が戦う中、東京にあたる「江戸」が戦場になりかけていました。
そこで、新政府軍の代表である西郷隆盛(さいごうたかもり)と、旧幕府側の代表である勝海舟が話し合いをしました。結果、江戸城は戦わずに明け渡されることになりました。
もしこの交渉が失敗していたら、大勢の人が犠牲になり、東京は焼け野原になっていたかもしれません。この「江戸城無血開城(むけつかいじょう)」は、日本の歴史においてとても重要な出来事です。
日本の海軍発展に尽力:「海軍の父」と呼ばれた
勝海舟は「日本に強い海軍が必要だ!」と考えた人物の一人です。彼は幕府の命令で長崎へ行き、オランダ人から西洋の海軍技術を学びました。
その後、幕府の中で海軍を作る仕事を任され、たくさんの若者を育てるため「神戸海軍操練所(こうべかいぐんそうれんじょ)」を設立しました。
この学校では、坂本龍馬(さかもとりょうま)などの若者も学びました。勝海舟の努力があったからこそ、日本の海軍は大きく発展していったのです。
日本初の太平洋横断を成し遂げた「咸臨丸」の艦長
1860年、勝海舟は「咸臨丸(かんりんまる)」という軍艦の艦長になり、日本人として初めて太平洋を横断しました。
アメリカへの航海はとても大変で、船に乗っていた日本人はほとんどが船酔いしてしまったそうです。勝海舟も例外ではなく、ほとんど船室から出られなかったとか。
しかし、この航海は日本の歴史において大きな意味を持ちました。アメリカに行き、西洋の文化を学ぶことで、日本が近代化するきっかけになったのです。
明治政府では海軍卿や参議を歴任:新政府の運営にも関わった
明治時代になると、勝海舟は新政府で海軍を指導する役割を担いました。
「海軍卿(かいぐんきょう)」という役職に就き、日本の海軍をさらに発展させるために努力しました。また、新政府の中で政治にも関わり、日本の国づくりに貢献しました。
しかし、彼は新政府の方針に納得できないことも多く、何度か辞職しています。それでも、最後まで日本の未来を考え続けた人物でした。
勝海舟は何した人か簡単に:どんな人かエピソードを紹介
勝海舟は歴史の教科書にも載るほど有名な人物ですが、その性格やエピソードを知ると、より親しみを感じられるかもしれません。
彼は単なる政治家ではなく、独特な価値観を持ち、人情に厚い「江戸っ子」でもありました。ここでは、そんな勝海舟の人柄を探ってみましょう。
勝海舟の性格は「江戸っ子気質」と「柔軟な外交力」
勝海舟は「生粋の江戸っ子」と言われています。彼はハッキリ物を言う性格で、相手が誰であろうとズバズバと意見を述べました。その一方で、柔軟な考え方を持ち、状況に応じて冷静な判断を下すことができる人物でもありました。
例えば、江戸城無血開城の交渉では、当初は徳川家を守るために強硬な姿勢を見せましたが、西郷隆盛との対話を通じて現実的な解決策を見出しました。
このように、頑固な一面と柔軟な一面を併せ持ったのが勝海舟の特徴です。
また、お金や物に執着しない性格だったとも言われています。自分の財産を惜しみなく人に貸し、相手が返さなくても催促しないほど気前の良い人だったとか。
このような性格が、彼の大物ぶりを際立たせています。
坂本龍馬との関係は?弟子になった経緯とは
勝海舟と坂本龍馬の関係はとても有名です。坂本龍馬はもともと「攘夷(じょうい)」という考えを持ち、「外国を追い払おう」と思っていた人物でした。そんな龍馬が勝海舟のもとを訪れたとき、彼は「斬るつもりだった」とも言われています。
しかし、勝海舟は坂本龍馬に「これからの日本に必要なのは攘夷ではなく、西洋の知識を学び、海軍を強くすることだ」と説きました。これを聞いた坂本龍馬は目からウロコが落ちたように考えを改め、その場で勝海舟の弟子になることを決意したのです。
このエピソードは歴史上の名場面として語られていますが、後に「勝海舟が話を盛っていたのでは?」とも言われています。しかし、結果的に坂本龍馬は勝海舟の影響を受け、新しい日本を作るために尽力しました。
彼らの師弟関係は、日本の歴史を変える大きなポイントとなったのです。
「痩我慢の説」福沢諭吉との因縁とは?
勝海舟と福沢諭吉(ふくざわゆきち)は、意見が対立したことでも有名です。
福沢諭吉は「学問のすゝめ」で知られる偉人ですが、彼は勝海舟の行動に納得がいかなかったようです。
特に問題となったのは「江戸城無血開城」のことでした。福沢諭吉は、「戦わずに幕府を明け渡したのは、負け犬のやることだ」と考えていました。一方、勝海舟は「戦っても意味がない。江戸を守ることが最優先だ」と考えていました。
福沢諭吉はこれを批判し、「痩我慢の説」という文章を書きました。「勝海舟は負けを受け入れて無駄に我慢しただけだ」と主張したのです。これに対し、勝海舟は「行いは己のもの。批判は他人のもの。知ったことではない」と言い放ちました。
西郷隆盛との友情と決裂:江戸城無血開城の舞台裏
勝海舟と西郷隆盛は、江戸城無血開城の交渉を通じて深い信頼関係を築きました。しかし、その後の明治政府の方針をめぐって、2人は意見が対立するようになりました。
特に「征韓論(せいかんろん)」という問題が発生したとき、西郷隆盛は「朝鮮を武力で開国させるべきだ」と主張しました。しかし、勝海舟は「そんなことをすれば日本が戦争に巻き込まれてしまう」と強く反対しました。
結果として、西郷隆盛は政府を去り、西南戦争(せいなんせんそう)へと向かうことになります。勝海舟はその後も、西郷隆盛の名誉回復に努め、「西郷は日本のためを思って行動したのだ」と語り続けました。
勝海舟の名言集!現代にも通じる人生訓
勝海舟は、たくさんの名言を残しました。その中でも、現代にも通じるものをいくつか紹介します。
- 「世の中に無神経ほど強いものはない」
→ くよくよ悩んでいると前に進めません。少し鈍感なくらいの方が人生はうまくいく、という意味です。 - 「行いは己のもの。批判は他人のもの。知ったことではない」
→ 他人の評価を気にせず、自分の信じる道を進めばいい、という教えです。 - 「事を成し遂げる者は愚直でなければならぬ。才走ってはうまくいかない」
→ 賢いふりをするより、地道にコツコツ努力することが成功につながる、という意味です。 - 「自分の価値は自分で決めることさ。つらくて貧乏でも自分で自分を殺すことだけはしちゃいけねぇよ」
→ どんなに辛くても、最後まで自分を大切に生きることが大切だ、というメッセージです。
このように、勝海舟の言葉は、今を生きる私たちにも勇気を与えてくれます。
総括:勝海舟は何した人か簡単に解説まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 勝海舟とは?
- 幕末から明治にかけて活躍した政治家・武士
- 江戸幕府の幕臣として仕え、明治政府でも重要な役職を歴任
- 勝海舟の主な功績
- 江戸城無血開城
- 1868年、西郷隆盛と交渉し、江戸城を戦わずに明け渡し、東京の壊滅を防いだ
- 日本の海軍発展に貢献
- 幕府海軍を強化し、「海軍の父」と呼ばれる
- 神戸海軍操練所を設立し、坂本龍馬などを指導
- 日本初の太平洋横断航海
- 1860年、「咸臨丸」の艦長として太平洋を渡航し、アメリカへ
- 明治政府で海軍卿や参議を歴任
- 海軍の近代化を推進し、新政府の運営にも関わる
- 江戸城無血開城
- 勝海舟の人柄やエピソード
- 江戸っ子気質
- 率直な物言いと、冷静な判断力を持つ
- 坂本龍馬との関係
- 最初は敵視されるが、説得し弟子にする
- 福沢諭吉との対立
- 「江戸城無血開城」を巡り、福沢諭吉と論争(痩我慢の説)
- 西郷隆盛との友情と決裂
- 明治政府の征韓論を巡り対立、西南戦争後も西郷の名誉回復に尽力
- 江戸っ子気質
- 勝海舟の名言
- 「行いは己のもの。批判は他人のもの。知ったことではない」
- 「世の中に無神経ほど強いものはない」
- 「自分の価値は自分で決めることさ」