今回は「森鴎外(もりおうがい)」という人物について、子どもでも分かるようにやさしく解説していきます。

森鴎外は、明治から大正時代にかけて活躍したすごい人で、「小説家」「お医者さん(軍医)」「役人(官僚)」など、いくつもの仕事で大きな成果を残しました。さらに、家族や性格、友人とのエピソードまで、とってもおもしろい話がたくさんあります。

では、まずは「森鴎外ってどんな人?」という疑問に答えるところから、いっしょに見ていきましょう!

※AmazonのKindle Unlimitedは月額980円ですが、3ヶ月無料期間があります。その間、読み放題対象の電子書籍は全部無料。途中で解約ももちろん自由。そのため、電子書籍が実質0円で読めます。以下に、歴史の語呂合わせに関連する無料書籍を載せておきます。

↓実質無料で読めるおすすめ歴史の読み物↓

著:河合敦, 著:房野史典
¥1,617 (2025/07/04 03:22時点 | Amazon調べ)
著:ぴよぴーよ速報
¥1,529 (2025/07/04 03:24時点 | Amazon調べ)

森鴎外はどんな人?経歴・性格・家族をわかりやすく

森鴎外は、明治時代を代表する作家であり、医師や官僚としても活躍した超エリートでした。彼の生涯には多くの興味深いエピソードや、人間的な魅力が詰まっています。

今回は、経歴や性格、家族にまつわる話をわかりやすく紹介します。

「軍医・作家・官僚」として活躍した超エリート

森鴎外は、ただの小説家ではありません。お医者さんとして日本の陸軍で働き、軍医のトップ「陸軍軍医総監(りくぐんぐんいそうかん)」にまでのぼりつめました。これは軍医の中でいちばん偉いポジションです。

さらに、「文学博士(ぶんがくはくし)」という学問の最高レベルの資格も持っていて、小説や詩、評論などもたくさん書きました。「即興詩人(そっきょうしじん)」や「ファウスト」など、海外の有名な文学作品を日本語に翻訳したこともあります。

晩年は「帝室博物館(ていしつはくぶつかん)」という、いまの東京国立博物館の館長にもなり、歴史や美術を守る仕事もしていました。ひとつのことだけでなく、いくつもの分野で活躍できるなんて、本当にすごい人ですね!

生い立ちは?神童と呼ばれた幼少期の教育がすごい

森鴎外の本名は「森林太郎(もり・りんたろう)」といいます。1862年、島根県津和野町という自然が豊かな町で生まれました。お父さんは「森静男(もり・しずお)」という藩(はん)のお医者さんで、代々お医者さんの家系だったのです。

鴎外はなんと、5歳で「論語(ろんご)」、6歳で「孟子(もうし)」という難しい中国の古典を読みはじめたそうです。7歳で藩の学校に入り、勉強がとてもできたので「神童(しんどう)」と呼ばれました。

10歳のときに東京へ引っ越し、13歳のふりをして東京医学校(現在の東京大学医学部)に入学しました。本当は11歳だったのに、年を2歳も多く言っていたんですね!このころから頭の良さはピカイチで、ドイツ語も学びはじめました。

性格は?プライドが高く潔癖だった

森鴎外はとても頭が良く、プライドが高かったと言われています。でも、それだけでなく「とてもきれい好き」だったことでも知られています。お風呂に入るときも、湯船には浸からずにシャワーのように体を洗ってすぐ出るなど、今でいう「潔癖症(けっぺきしょう)」のような一面もありました。

また、おもしろい話として「焼き芋を食べる前に消毒した」という説もあります。たとえおいしいものでも、清潔でないと気になる性格だったようです。

亡くなる直前、見舞いに来た家族が「鴎外先生、死ぬのは怖くないですか?」と聞いたところ、「ばからしい」と笑ったそうです。死を恐れない強い心を持っていたことがわかります。

家族構成と子供たちの名前がユニークすぎる

森鴎外は2回結婚して、5人の子どもがいました。その子どもたちの名前がとってもユニークなのです。

長男の名前は「於莵(おと)」。これはドイツ語の「オットー」からきています。他にも「茉莉(まり)」「杏奴(あんぬ)」「不律(ふりつ)」「類(るい)」など、当時の日本では珍しい洋風の名前ばかりです。

どうしてこんな名前をつけたかというと、鴎外は「これからの日本は世界と交流する時代になる。外国の人にも読める名前がいい」と考えたからです。しかも、この子どもたち全員が作家やエッセイストなどの文筆家になりました。鴎外の才能は、ちゃんと子どもたちにも受け継がれていたのですね。

森鴎外の人間関係!夏目漱石や樋口一葉との交流

森鴎外は、同じ時代に活躍した有名な作家たちとも交流がありました。たとえば「坊っちゃん」で有名な夏目漱石(なつめそうせき)や、女性作家の樋口一葉(ひぐちいちよう)とも関わりがありました。

漱石とはおたがいに認め合う関係で、同じ町に住んだこともあります。一葉の才能については、鴎外が自分の雑誌で「この人は本物の詩人だ!」と大絶賛したことで、広く知られるようになりました。

また、政治家の山縣有朋(やまがたありとも)とは「常盤会(ときわかい)」という短歌の会を一緒にひらいて、文化活動にも力を入れていました。ただの学者や軍人ではなく、多くの人との交流を通じて、日本の文化を大きく動かした人物だったのです。

森鴎外はどんな人?人生と代表作を簡単に

ここからは、森鴎外が書いた代表的な小説や、彼の人生の中でおもしろいエピソードを紹介していきます。森鴎外の作品は、ただのお話ではなく、自分の体験や考え方がぎっしりつまったものばかりです。

それでは、代表作とあわせて、森鴎外という人物の本当のすごさにせまってみましょう!

『舞姫』は実体験ベース?エリスとの恋の真相とは

『舞姫(まいひめ)』は、森鴎外が作家としてデビューしたときの代表作で、明治23年(1890年)に発表されました。物語の主人公・太田豊太郎(おおたとよたろう)は、ドイツに留学したエリート官僚で、現地の踊り子エリスと恋に落ちます。

でも、出世と恋愛は両立できず、最後にはエリスを捨てて日本に帰る…という切ない結末です。

著:森 鴎外
¥627 (2025/03/27 11:53時点 | Amazon調べ)

実はこの話、鴎外がドイツ留学中に出会った「エリーゼ・ヴィーゲルト」という実在の女性との経験が元になっていると言われています。しかも、エリーゼは鴎外を追って日本まで来たという話もあり、現実のほうが小説よりドラマチックかもしれませんね。

この作品では、「自由な恋愛」と「日本の社会とのギャップ」というテーマが描かれていて、明治時代の若者たちに大きな影響を与えました。

『山椒大夫』が描いた親子愛と自己犠牲のメッセージ

『山椒大夫(さんしょうだゆう)』は、平安時代を舞台にした歴史小説で、森鴎外が晩年に書いた作品のひとつです。主人公は姉の安寿(あんじゅ)と弟の厨子王(ずしおう)。2人は人買いにさらわれて、山椒大夫という悪い人のところで働かされることになります。

姉の安寿は、自分の身を犠牲にして弟を逃がします。そして弟の厨子王は立派な役人になり、最終的には母と再会する…という感動的なお話です。

著:森 鴎外
¥539 (2025/03/27 11:54時点 | Amazon調べ)

この作品では、「親子の愛」「兄弟のきずな」「犠牲の心」が強く描かれていて、教科書にもよく取り上げられています。森鴎外はこの作品を通して、「本当に正しいこととは何か」「人を助ける心の大切さ」を読者に伝えようとしたのです。

『高瀬舟』で描かれた安楽死と罪の意識と

『高瀬舟(たかせぶね)』は、江戸時代の話をもとにした短編小説で、「安楽死」や「罪とは何か?」という、今でも考えさせられるテーマを扱っています。

集英社
¥528 (2025/03/27 11:57時点 | Amazon調べ)

主人公は、弟殺しの罪で島流しにされる男・喜助(きすけ)と、その護送係の役人です。高瀬舟という小さな船に2人で乗り込み、喜助は「弟を苦しみから救いたくて手をかけた」と語ります。

役人は、罪を憎む気持ちよりも、喜助のやさしさに心を動かされ、「本当に悪いことだったのか」と考えこむのです。森鴎外は医者でもあったので、「命とは何か」「人を救うとはどういうことか」という深い問いをこの作品にこめました。

翻訳家としての功績と語学力がすごすぎる理由

森鴎外はただ小説を書いただけでなく、外国の文学作品を日本語に訳す「翻訳家」としても大活躍しました。

特に有名なのは、ゲーテの『ファウスト』やアンデルセンの『即興詩人』など。これらは、今では日本語で読むことができますが、それは鴎外がドイツ語を完全にマスターしていたからです。

なんと鴎外は、ドイツ留学中に400冊以上の原書(外国語の本)を読んだといわれています!さらに、漢文や漢詩も得意で、日本語・ドイツ語・中国語を自在に使いこなすマルチリンガルだったのです。

その語学力と知識を活かして、日本の文学の世界にたくさんの新しい風を吹き込んだんですね。

晩年と死因とは?「石見人」として死にたかった思い

森鴎外は、晩年になると「帝室博物館の館長」や「図書頭(ずしょのかみ)」という役職に就き、日本の歴史や文化の保存にも力を入れました。とくに、正倉院(しょうそういん)という古い建物の調査や、歴代天皇の名前(諡号)を研究するなど、学問の世界でも真剣に活動を続けていました。

しかし、1922年、60歳で「結核」と「萎縮腎(いしゅくじん)」という病気で亡くなってしまいます。亡くなる前、彼は「私は石見(いわみ)の森林太郎として死にたい」と語りました。石見とは、彼の故郷・津和野のある地域のことです。

どれだけ出世しても、どれだけ有名になっても、自分のルーツを大切にしたいという気持ちが込められています。森鴎外は、最後まで自分らしく生きた、立派な人だったのです。

総括:森鴎外はどんな人でどんな人生かまとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

  • 森鴎外は小説家・軍医・官僚として活躍した超エリート
     → 陸軍軍医総監・文学博士・翻訳家など幅広く活躍。
  • 幼少期から「神童」と呼ばれるほど勉強が得意だった
     → 5歳で論語、10歳で上京、11歳で東大医学部に入学(年齢詐称)。
  • 性格はプライドが高く潔癖だった
     → 湯船につからない・焼き芋を消毒などのエピソードも。
  • 子どもに洋風の名前をつけるなど国際感覚があった
     → 子どもたちは全員文筆家に。
  • 夏目漱石・樋口一葉らと交流があり、文化人としても活躍
     → 短歌会「常盤会」を主宰し、文学発展に貢献。
  • 代表作『舞姫』はドイツでの恋愛体験がもと
     → 恋愛と出世の板挟みを描いた作品。
  • 『山椒大夫』では親子愛と自己犠牲を描く
     → 教科書にも載る感動作。
  • 『高瀬舟』では安楽死や罪の重さを問いかけた
     → 医師としての視点が活かされている。
  • 翻訳家としても一流。語学力がずば抜けていた
     → ドイツ語・漢文・日本語を使いこなす。
  • 晩年は文化保存に尽力し、「石見人」としての誇りを貫いた
     → 死の直前も郷土・津和野への想いを語った。