今回は「森鴎外(もりおうがい)の死因」について、みんなが気になることをやさしく、しっかり解説していきます。

森鴎外といえば、『舞姫(まいひめ)』や『高瀬舟(たかせぶね)』などの名作を生んだ明治の文豪(ぶんごう)として有名ですね。でも、そんな彼の死因については、「肺結核(はいけっかく)だったの?」「脚気(かっけ)だったの?」など、いろんな説があります。

本当のところはどうだったのか、一緒に見ていきましょう!

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森鴎外の死因は何?肺結核・脚気・腎萎縮の真相

森鴎外が亡くなったとき、死因については様々な説がありました。「肺結核だったのでは?」「脚気が原因?」といった疑問が多く残っています。実際、どの病気が致命的だったのでしょうか?その真相を一緒に解き明かしていきましょう。

森鴎外の正式な死因は「腎萎縮」

まず、森鴎外が亡くなったのは1922年(大正11年)、60歳のときです。表向きの死因は「腎萎縮(じんいしゅく)」と記録されています。腎萎縮とは、腎臓(じんぞう)が小さくなって働かなくなる病気で、体の中の水分や毒素がうまく出せなくなります。

でも実は、主治医の証言などによって、「本当は肺結核だったのでは?」という話が後から出てきました。鴎外のせきには血が混ざっており、痰(たん)の中には結核菌がいっぱいだったそうです。

つまり、腎萎縮は確かにあったけれど、肺結核がとどめになったと考えられているのです。

肺結核を隠された理由とは?軍医だった森鴎外の立場との関係

では、なぜ「肺結核」という死因が表に出なかったのでしょうか?その理由は、鴎外が“軍医総監(ぐんいそうかん)”という、軍の中で一番えらいお医者さんだったからです。

当時の結核は「不治の病(なおらない病気)」であり、しかも人にうつる感染症でした。そんな病気で軍のお偉いさんが亡くなったとなると、世間の不安が広がってしまいます。

そのため、「腎臓の病気」ということにして、結核ということは一部の近しい人だけに知られていたのです。軍医としての立場を守るために、病名が伏せられたというわけです。

脚気との関連性は?当時の医学事情と森鴎外の持論

さて、「脚気(かっけ)」という病気についても見てみましょう。脚気とは、ビタミンB1が足りなくなることで起こる病気で、手足がしびれたり、心臓に負担がかかったりします。

森鴎外は、この脚気について「細菌が原因だ」と主張していました。しかし実際には、栄養不足、特に白米(しろごはん)ばかりを食べることが原因だったと、のちにわかっています。

この脚気と鴎外の死因の関係は直接ではありませんが、医療の考え方や衛生学に深く関わっていたことから、「彼自身も脚気だったのでは?」という声もあります。ただ、決定的な証拠はありません。

主治医や家族が知っていた真実

森鴎外の主治医だったのは、額田普(ぬかだ あまね)という人物でした。彼は、肺結核であったことをのちに認めています。ただし、その事実を知っていたのはほんのわずかな人たちだけでした。

その中には、鴎外の親友である賀古鶴所(かこ つるど)や、妹婿(いもうとむこ)の小金井良精(こがねい りょうせい)もいました。彼らは医師でもあり、鴎外の死因について非常に慎重に扱っていたのです。

「死因を明かせば鴎外の名誉に傷がつく」と考えた彼らが、あえて真実を伏せた可能性もあります。医師としても家族としても、複雑な判断だったことでしょう。

結局どの病気が致命的だったの?最終的な医学的見解

それでは、森鴎外を死に至らしめた本当の病気は何だったのでしょうか?

現代の医学の視点から見ると、「腎萎縮」と「肺結核」の両方が重なったことが原因と考えられます。腎臓が弱って体力が落ちたところに、肺の病気がとどめを刺したのです。

脚気については直接の死因とはいえませんが、当時の栄養事情や医学的論争の中では重要なキーワードです。

つまり森鴎外の死は、当時の医療の限界、そして社会的立場やプライドの高さなどが複雑に絡み合った、歴史的にも意味のある出来事だったのです。

森鴎外の死因:最期と遺言から読み解く人生観と死生観

森鴎外が亡くなったとき、彼はただ病気で苦しんでいたのではありません。人生の最後に、自分がどう見られるのか、どう死ぬのかを深く考えていたことが、いくつもの言葉や行動にあらわれています。

ここからは、森鴎外の「最期の言葉」や「遺言」に注目しながら、彼の死に対する考え方、つまり“死生観”を見ていきましょう。

死の直前に叫んだ「馬鹿らしい!」の意味

森鴎外は、亡くなる直前に「馬鹿らしい!」という強い言葉を叫んだといわれています。この言葉は、ただのうわごとではなく、彼の生き方や社会への思いがこもったものだと考えられています。

若いころから天才と呼ばれ、軍医や作家として成功してきた鴎外。しかし、その人生は、親や社会からの期待にこたえるために犠牲にした部分も多かったはずです。

「立派に生きること」や「社会的な成功」を求められる一方で、自分の本当の気持ちは抑えていた。それを思い返し、「自分の人生ってなんだったんだろう」と感じて、あのような言葉を残したのかもしれませんね。

遺言は「森林太郎として死にたい」

森鴎外の本名は「森林太郎(もり りんたろう)」といいます。彼は亡くなる3日前に口述筆記で遺言を残しました。そこには「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス(私は石見の森林太郎として死にたい)」と書かれていました。

「石見(いわみ)」とは、彼の故郷・島根県のこと。つまり、軍医総監でも作家の森鴎外でもなく、一人の人間として、ふるさとの普通の男として死にたいという願いだったのです。

名誉や肩書きよりも、自分の原点に戻ることを選んだ彼の姿は、私たちにも「本当の自分って何だろう」と考えるきっかけを与えてくれます。

病床での日々と拒絶された医療介入

森鴎外は、亡くなる前の病床で、医師たちから治療や延命のための注射をすすめられました。しかし、彼はそれを断りました。

「注射はいらない」と言ったのです。

これは、自分の死を自然なものとして受け入れようとする姿勢のあらわれだといわれています。自分自身も医者だった鴎外は、「命には終わりがある」ことをよく理解していたのでしょう。

また、注射を拒んだことは、「苦しまずに死にたい」という願いでもあったかもしれません。死ぬことが決まっているなら、無理に命を引きのばすより、自分らしく最期を迎えたい。それが鴎外の本心だったように思います。

「墓には何も彫るな」というこだわり

鴎外は遺言の中で「森林太郎墓ノ外一字モホル可ラス」とも書いています。これは「墓には“森林太郎”という名前以外、文字を彫ってはいけない」という意味です。

立派な経歴を持っていた鴎外ですが、自分の墓にあれこれ書いてほしくなかったのです。シンプルに、本名だけを残す。それだけでよかったのです。また、彼の遺骨はふるさとの津和野と、東京・多磨霊園に分骨されています。これは「ふるさとにも自分の一部を残したい」という思いの表れでしょう。

豪華な墓ではなく、静かな場所に、静かに眠る。これが鴎外の選んだ最後の姿でした。

60歳での死は早すぎたのか?

鴎外が亡くなったのは60歳。今の時代では「ちょっと早い」と思うかもしれませんね。でも、当時の日本人の平均寿命はおよそ40歳〜50歳ほど。今と比べてとても短かったのです。

そんな中で60歳まで生きた鴎外は、むしろ長生きのほうでした。そして、その60年の中で、小説、詩、翻訳、軍医として数々の功績を残しました。

さらに、家族や後輩たちにも影響を与え続けました。亡くなった後も、教科書や文学史の中で語られ続けているのです。ですから、「60年の命」は決して短かったわけではなく、むしろ中身の詰まった、すごい人生だったのです。

総括:森鴎外の死因まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

  • 森鴎外の正式な死因は「腎萎縮」だが、実際には「肺結核」が致命的だった可能性が高い
  • 軍医総監という立場のため、感染症である肺結核の死因は伏せられた
  • 鴎外は脚気の原因を細菌と考えており、陸軍内での論争にも関わっていた
  • 死因の真実を知っていたのは、主治医の額田普や親友・賀古鶴所ら少数だった
  • 医学的に見て、腎萎縮と肺結核の両方が死因に関わっていたと考えられる
  • 最期に「馬鹿らしい!」と叫んだのは、自身の人生への葛藤を表した可能性
  • 遺言で「森林太郎として死にたい」と語り、本名・ふるさとへの思いを強調
  • 延命治療を拒否し、「自然に死にたい」という意志を示した
  • 墓には名前以外の文字を刻まないよう遺言し、質素な死を望んだ
  • 当時の平均寿命と比較すると、60歳での死は短くなく、むしろ充実した人生だった