今日は「関ヶ原の戦い」で総大将を務めた毛利輝元について、わかりやすく解説していきます。
「なぜ毛利輝元が総大将になったの?」「どこにいたの?」「なぜ戦わなかったの?」
といった疑問をスッキリ解決できる内容です。
歴史の授業やテストで役立つ情報もたくさん紹介するので、ぜひ最後まで読んでみてくださいね!
関ヶ原の戦いで毛利輝元はなぜ総大将だったのか

毛利輝元が関ヶ原の戦いで総大将に選ばれた理由は、豊臣政権内での彼の重要な立場や、広大な領地を持つ大大名としての影響力にありました。
ここでは、毛利輝元がどのようにして総大将の座に就いたのか、背景とともに解説します。
毛利輝元が西軍総大将になった理由は?
毛利輝元が関ヶ原の戦いで「西軍の総大将」に選ばれたのは、いくつかの理由があります。まず、彼は豊臣政権の重臣として大きな影響力を持っていました。豊臣秀吉が生きていたころ、毛利家は「五大老」の一人として政権を支えていました。五大老とは、豊臣政権の中で最も力を持つ5人の大名のことです。
では、なぜその中から毛利輝元が選ばれたのでしょう?それは、毛利家が中国地方に広大な領地を持つ「大大名」だったからです。領地の広さや軍事力の大きさを考えると、西軍をまとめるにはふさわしい人物と考えられました。
しかし、実際には戦の指揮をとったのは石田三成でした。毛利輝元は総大将とはいえ、主に政治的な役割を担っていたのです。
五大老の中で毛利輝元が選ばれた理由
関ヶ原の戦いが起こった時、五大老には毛利輝元以外に「徳川家康」「上杉景勝」「前田利長」「宇喜多秀家」がいました。この中で、徳川家康は西軍の敵となる存在です。では、残りの三人のうち、なぜ毛利輝元が選ばれたのでしょうか?
上杉景勝は関東の上杉討伐に備えており、前田利長は戦には消極的でした。そのため、西軍の中で実際にリーダーになれるのは、毛利輝元か宇喜多秀家しかいなかったのです。しかし、宇喜多秀家はまだ若く、戦の経験も不足していました。そこで、毛利輝元が選ばれたのです。
ただし、毛利輝元は軍事よりも家の存続を重視するタイプの人物でした。結果的に、彼は西軍の実質的な指揮を石田三成や大谷吉継に任せることになったのです。
実際に軍事的な指揮は執ったのか?
総大将といえば、普通は戦場で兵を指揮するイメージがありますよね。しかし、毛利輝元は関ヶ原の戦場には行かず、大阪城にとどまっていました。なぜなら、彼は戦を指揮するよりも「豊臣政権を守る」ことを優先したからです。
実際の戦いでは、石田三成や大谷吉継などの武将が指揮をとり、毛利軍の主力部隊は関ヶ原の戦場には出陣しませんでした。この判断が、西軍の敗北を決定づける大きな要因となりました。
なぜ総大将でありながら戦場にいなかったのか?
「総大将なのに戦場にいないの?」と不思議に思うかもしれません。その理由は、大坂城で豊臣政権の指揮を執ることが毛利輝元の役割だったからです。
実は、関ヶ原の戦いは単なる「一つの戦い」ではなく、徳川家康 vs. 石田三成の「政権争い」でもありました。もし毛利輝元が大坂城を留守にしていたら、家康に大坂城を攻められるリスクがあったのです。そのため、毛利輝元は戦場に行かず、大坂城で豊臣家を守る立場をとりました。
しかし、結果的に西軍が敗れたことで、この戦略は失敗に終わりました。家康は戦いに勝利し、豊臣政権は衰退の道をたどることになりました。
西軍の敗北と毛利輝元の責任
西軍が敗れた後、毛利輝元には大きな責任がのしかかりました。なぜなら、「総大将が戦場にいなかった」という事実は、結果として「西軍の士気を下げた」とも言えるからです。
徳川家康は、関ヶ原の戦いで勝利した後、毛利家を厳しく処罰しました。毛利家はそれまで112万石の広大な領地を持っていましたが、一気に30万石に減らされ、広島から萩へと移されました。
しかし、毛利家は完全に滅ぼされることはなく、江戸時代を通じて長州藩として生き残ることができました。この結果を考えると、毛利輝元の決断は「毛利家を守るための戦略」だったとも言えます。
関ヶ原の戦いで毛利輝元はなぜ動かなかったのか:どこにいた?

毛利輝元は総大将として任命されながら、実際には関ヶ原の戦場に姿を現しませんでした。その背景には、豊臣政権の維持を優先し、戦局に積極的に関与しないという慎重な判断があったのです。
ここでは、その理由と結果を掘り下げて説明します。
毛利軍が関ヶ原の戦場で動かなかった理由
毛利輝元が総大将でありながら戦場に行かなかっただけでなく、毛利軍の主力部隊も関ヶ原でほとんど戦いませんでした。実は、毛利軍は戦場の西側(南宮山)に陣を張っていましたが、戦闘に参加することなく静観していました。
この理由は、大きく分けて三つあります。
- 吉川広家の密約:毛利軍の実質的な指揮を任されていた家臣の吉川広家が、密かに徳川家康と通じていたため、毛利軍の動きを封じた。
- 毛利輝元の慎重な姿勢:豊臣政権の存続を優先し、関ヶ原で大敗したときに備えて無駄な戦いを避けた。
- 指揮系統の混乱:毛利家内部でも意見が割れており、主力軍が積極的に動く体制が整っていなかった。
この結果、毛利軍は西軍側でありながら、まともに戦わずに終わったのです。
吉川広家と毛利家の密約とは?
毛利軍が動かなかった最大の理由は、家臣の吉川広家と徳川家康の密約にありました。吉川広家は毛利家の重臣で、関ヶ原では毛利軍の指揮を任されていました。
しかし、彼は密かに家康と交渉し、「毛利家が積極的に戦わなければ、戦後の領地削減を最小限にする」と約束していたのです。
そのため、毛利軍は関ヶ原に着陣したものの、吉川広家の指示でまったく動かず、西軍を助けることはありませんでした。もし毛利軍が戦っていれば、西軍の勝利もありえたかもしれませんが、この密約のせいで西軍は大きな戦力を失い、徳川軍に圧倒される結果となりました。
毛利輝元は裏切りを知っていたのか?
では、毛利輝元はこの密約のことを知っていたのでしょうか?
これは歴史家の間でも意見が分かれています。
- 知っていた説
・毛利家を守るために、吉川広家に「動かなくてよい」と指示していた。
・西軍が勝つ可能性が低いと判断し、あえて静観していた。 - 知らなかった説
・吉川広家が独断で家康と交渉し、輝元には事後報告した。
・戦いが始まるまで裏切りの事実を知らなかったため、何もできなかった。
どちらが正しいかははっきりしませんが、結果として毛利家は大幅な領地削減を受けたものの、完全な改易(取り潰し)を免れることができました。この点を考えると、毛利輝元もある程度は事情を知っていた可能性が高いと考えられます。
関ヶ原の戦い後の毛利家の運命
関ヶ原の戦いが終わった後、毛利家は大きな危機に直面しました。それまでの領地は112万石もありましたが、戦後は30万石に減封され、広島から萩へ移されることになりました。これは毛利家にとって大きな打撃でした。
また、戦後処理では毛利輝元は「謀反人」として厳しく追及される可能性もありましたが、吉川広家の働きかけもあって、「毛利家を完全に潰さない」という判断を下しました。つまり、家康との密約が結果的に毛利家を救ったのです。
毛利輝元の晩年と家名存続のための決断
毛利輝元は関ヶ原の戦いの後、すべての責任を取る形で家督を息子に譲り、政治の第一線から退きました。その後は、萩に移った毛利家を支える立場となり、長州藩(萩藩)の礎を築きました。
この決断が後に大きな影響を及ぼします。江戸時代後期になると、長州藩は幕末の維新運動で大活躍し、日本の歴史を大きく変える存在となります。つまり、毛利輝元の判断が「長州藩の生存」と「幕末の活躍」につながったとも言えるのです。
総括:関ヶ原の戦いで毛利輝元はなぜ総大将だったかまとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
1. 毛利輝元が西軍総大将になった理由
- 豊臣政権の「五大老」の一人であり、影響力が大きかった。
- 中国地方に広大な領地を持つ大名で、軍事力があったため。
- 他の五大老(上杉景勝・前田利長・宇喜多秀家)の事情を考えると、最も適任だった。
- しかし、実際の指揮は石田三成らに任せ、政治的な役割を担っていた。
2. 毛利輝元が戦場に行かなかった理由
- 大坂城に残り、豊臣政権を守ることを優先した。
- 戦場に出ると大坂城が手薄になり、家康に攻められる可能性があった。
- しかし、西軍が敗北したことでこの戦略は失敗に終わった。
3. 毛利軍が動かなかった理由
- 戦場の西側(南宮山)に陣を敷いたが、戦闘には参加しなかった。
- 家臣の吉川広家が徳川家康と密約を交わし、軍を動かさなかった。
- 毛利家の存続を優先し、大規模な戦闘を避けた。
4. 毛利輝元は密約を知っていたのか?
- 知っていた説:毛利家を守るため、吉川広家に「動かなくてよい」と指示していた。
- 知らなかった説:吉川広家が独断で家康と交渉し、輝元には事後報告した。
- 結果として、毛利家は完全な改易を免れたため、輝元もある程度事情を把握していた可能性が高い。
5. 関ヶ原の戦い後の毛利家の運命
- 戦後、112万石から30万石に大幅減封され、広島から萩に移された。
- 輝元は責任を取って家督を譲り、政治の表舞台から退いた。
- しかし、長州藩(毛利家)は江戸時代を通じて生き残り、幕末の維新運動で活躍した。
