江戸時代にロシアからやってきた「ラクスマン」と「レザノフ」という人物を知っていますか?どちらも日本に通商を求めてきたロシアの使節ですが、その役割や時代背景は大きく異なります。
「どっちが先?」「何が違うの?」と疑問に思っている人も多いはず。
この記事では、そんな2人の違いを分かりやすく解説し、覚えやすい語呂合わせやテストのポイントも紹介します!これを読めば、日本史の理解がぐっと深まりますよ!
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ラクスマンとレザノフの違いを簡単に!どっちが先?
ロシアが江戸時代の日本に通商を求めてきた最初の使節は「ラクスマン」、その12年後に来たのが「レザノフ」です。どちらも日本に開国を求めましたが、結果は大きく異なります。まずは比較表を見て、違いをしっかり押さえましょう。
ラクスマンとレザノフの比較表:違いを一目でチェック
ラスクマンとレザノフの比較表は以下の通りです。
| 項目 | ラクスマン | レザノフ |
|---|---|---|
| 来航年 | 1792年(寛政4年) | 1804年(文化元年) |
| 目的 | 日本との通商交渉・漂流民返還 | 日本との正式な通商交渉 |
| 持参したもの | ロシア皇帝の国書(幕府は受け取り拒否) | 以前ラクスマンが受け取った信牌(長崎入港許可証)とロシア皇帝の親書 |
| 交渉の結果 | 長崎入港許可(信牌)を得たが、正式な通商交渉はできず | 信牌を持ってきたが、幕府は拒否し追い返した |
| その後の影響 | 幕府が対ロシア政策を考えるきっかけとなる | 幕府はロシアの軍事行動に警戒を強め、北方防備を強化 |
ラクスマンとは?日本に来た目的と幕府の対応
ラクスマンは、ロシアの使節として1792年(寛政4年)に日本の根室に来航しました。ロシアにとって日本との貿易は重要な関心事であり、特にシベリア開発のために食料や生活必需品を確保することが目的でした。
そこで、ラクスマンは日本と交渉し、正式な通商関係を結ぶために派遣されたのです。しかし、幕府は当時「鎖国政策」をとっており、オランダと中国以外の国とは貿易を行っていませんでした。
ラクスマンの来航には、もう一つ重要な目的がありました。それは、日本に漂流していた大黒屋光太夫たちを返還することです。ロシアに漂着した日本人を丁重に扱い、帰国させることで、日本との外交関係を築こうとしたのです。このように、ラクスマンの来航はロシアにとって「善意の外交」ともいえるものでした。
幕府はラクスマンの申し出を受け、日本に来た目的を慎重に検討しました。しかし、鎖国政策を維持したかった幕府は、正式な通商交渉を行うことを拒否しました。
レザノフとは?ラクスマンの約束を信じた結果…
レザノフは、ロシアの使節として1804年に日本へやってきました。彼の目的は、12年前にラクスマンが幕府から受け取った「長崎で交渉できる」という許可証(信牌)を活用し、日本との正式な通商交渉を進めることでした。
レザノフはロシア皇帝アレクサンドル1世の親書を持参し、長崎で半年以上も幕府の返答を待ちました。しかし、幕府は鎖国政策を厳格に守る立場を崩さず、信牌を没収し、通商交渉も拒否。さらには親書の受け取りすら拒み、レザノフを冷たく追い返しました。
この幕府の対応に怒ったレザノフは、帰国後、部下たちに報復を指示します。そして1806年から1807年にかけて、ロシア軍は樺太や択捉島にある日本の拠点を襲撃しました。
この事件は「文化露寇(ぶんかろこう)」と呼ばれ、日本とロシアの関係をさらに悪化させることになりました。レザノフの来航は、幕府にとって大きな警鐘となり、その後の北方防衛の強化につながる出来事となったのです。
どっちが先?「ラクスマン→レザノフ」の順番を覚える語呂合わせ
日本史のテストでは、「ラクスマンとレザノフ、どちらが先に来たか?」という問題がよく出題されます。
年号を暗記するのが苦手でも、語呂合わせを使えば簡単に覚えられます。ここでは、ラクスマン(1792年)→レザノフ(1804年)の順番をしっかり定着させるための語呂合わせを紹介します。
✅ ラクスマンが先で、レザノフが後!簡単な語呂合わせ
「ラクラク先に来たラクスマン、レザーの靴は後回し(レザノフ)」
→「ラク(スマン)」が「楽に先」に来た、と覚えれば、レザノフが後だとすぐに思い出せます。
✅ 年号を使った語呂合わせ
・「ラクな国(1792)で商談したいラクスマン」
・「レザーの靴(1804)を履いて登場レザノフ」
ラクスマンは「日本との通商を求めるロシアの第一歩」、レザノフは「幕府の対応に怒り、日本とロシアの関係悪化を招いた人物」と整理すると、歴史の流れがスムーズに理解できます。テストでは、この語呂を思い出せば、確実に得点につなげられます!
テストで問われるポイントはココ!
日本史の試験では、ラクスマンとレザノフの来航に関する問題がよく出題されます。以下のポイントを押さえておけば、試験で迷うことなく解答できるでしょう!
✅ 基本事項の整理
・「ロシアの使節ラクスマンが来航した目的は?」(答:通商交渉と漂流民返還)
・「幕府がラクスマンに渡したものは?」(答:長崎入港許可証(信牌))
・「レザノフが持ってきたものは?」(答:信牌とロシア皇帝の親書)
・「レザノフの来航後、何が起こった?」(答:文化露寇(樺太・択捉襲撃))
✅ 幕府の対応の違い
・ラクスマンの時は、長崎での交渉許可を与えた
・レザノフの時は、交渉を拒否し、信牌を没収して追い返した
✅ 歴史の流れの整理(年号をヒントに!)
・1792年:ラクスマン来航(通商交渉を求めるが、長崎入港許可証のみ)
・1804年:レザノフ来航(幕府に拒絶され、文化露寇のきっかけに)
・1807年:ロシア軍による文化露寇発生(樺太・択捉が襲撃される)
ラクスマンとレザノフが日本史に与えた影響
ラクスマンとレザノフの来航は、幕府の外交政策に大きな影響を与えました。
特に、レザノフの来航後に起きた「文化露寇」は、幕府が北方防備を強化するきっかけとなりました。
ロシアの接近で幕府がとった対応
ラクスマンが1792年に根室へ来航したことで、日本はロシアの接近を意識するようになりました。しかし、当時の幕府は「鎖国政策」を厳格に維持する方針をとっており、ロシアとの貿易には消極的でした。
ラクスマンには長崎入港許可証(信牌)を渡したものの、実際には「長崎で交渉するつもりはない」という姿勢でした。ロシアの思惑とは異なり、幕府は外国との通商関係を広げる意思はなかったのです。
その後、1804年にレザノフが長崎に来航しましたが、幕府は彼の通商要求を拒否し、半年以上待たせた後に退去を命じました。これによりロシアとの関係は悪化し、ロシア側は武力行使を検討するようになります。
幕府もロシアの脅威を感じ始め、特に北方の防備を強化する動きが出てきました。例えば、松前藩に北方警備の強化を命じたり、蝦夷地(北海道)の防衛を検討するようになります。
1807年には、幕府が直接蝦夷地を統治する「公儀直轄地」とし、松前藩の統治権を一時的に取り上げました。これにより、ロシアの脅威に対抗する体制を整えようとしたのです。
「文化露寇」が幕府の鎖国をより強化させた
レザノフが長崎で冷遇されたことに怒りを抱いたロシアは、武力行使に踏み切りました。レザノフの部下であったフヴォストフらは、1806年から1807年にかけて樺太(サハリン)や択捉島を襲撃し、日本の拠点を攻撃しました。この事件は「文化露寇(ぶんかろこう)」と呼ばれ、日本にとって大きな衝撃となりました。
文化露寇により、幕府はさらに鎖国政策を強化する方向に動きます。まず、1807年には北方防衛をさらに強化し、松前藩の管理を停止して幕府が直接蝦夷地を統治するようになりました。そして、異国船の来航に対する警戒を強め、外国船に対する対応策を検討するようになります。
その後、外国船の接近が増えるにつれ、幕府は1825年に「異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)」を出しました。
これは、オランダ・中国以外の外国船が日本近海に現れた場合、理由を問わず砲撃して追い払うという厳しい命令でした。文化露寇が、日本の鎖国政策をより強固なものにしたことは間違いありません。
幕府の北方防衛強化と松前藩の役割
ロシアの脅威が現実のものとなったことで、幕府は北方の防衛を強化しました。特に、蝦夷地(北海道)を管理していた松前藩には、ロシアの接近を警戒するよう命じられます。
さらに、幕府は1799年に東蝦夷地(北海道東部)、1807年には全蝦夷地を直轄地としました。これにより、松前藩の領地は縮小されましたが、幕府の支配が強まることで北方防衛が本格化していきます。
また、間宮林蔵(まみやりんぞう)による樺太の探検が行われ、樺太が島であることを発見しました。これは、幕府がロシアの動きを警戒し、より詳細な地理情報を得ようとした結果です。
ラクスマンとレザノフの来航が開国につながった?
幕府はラクスマンとレザノフの通商要求を拒否し続けましたが、ロシアの接近は開国への第一歩とも言えます。
というのも、19世紀に入ると、ロシアだけでなくイギリスやアメリカも日本との通商を求めるようになりました。特に、レザノフの来航後、イギリス軍艦フェートン号が長崎港に侵入した「フェートン号事件」(1808年)は幕府にさらなる衝撃を与えました。
その後、異国船打払令(1825年)によって外国船を厳しく取り締まる方針を強化しましたが、最終的に1842年のアヘン戦争で清(中国)がイギリスに敗北したことをきっかけに、日本も方針を変え始めます。
こうした一連の流れが、1853年のペリー来航、そして1854年の日米和親条約による開国につながっていくのです。
つまり、ラクスマンとレザノフの来航は、日本の鎖国政策を揺るがす最初の大きな出来事だったと言えます。
総括:ラクスマンとレザノフの違いまとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
1. ラクスマンとレザノフの来航順
- 先に来たのはラクスマン(1792年)、後から来たのがレザノフ(1804年)
- ラクスマンが長崎入港許可証(信牌)を受け取る
- レザノフはその信牌を持って来航するが、幕府に拒絶される
2. ラクスマンの目的と幕府の対応
- 目的:ロシアとの通商交渉と、日本に漂流した大黒屋光太夫らの返還
- 幕府の対応:通商交渉は拒否したが、長崎入港許可証(信牌)を与える
- 影響:幕府がロシアの動きを警戒するきっかけになった
3. レザノフの目的と幕府の対応
- 目的:ラクスマンが得た長崎入港許可証を使い、日本と正式な通商関係を結ぶ
- 幕府の対応:信牌を没収し、通商交渉を拒否し、追い返す
- 影響:レザノフが激怒し、部下が樺太や択捉を襲撃(文化露寇)
4. 文化露寇と幕府の防衛強化
- 文化露寇(1806-1807年):ロシア軍が日本の北方領土を攻撃
- 幕府の対応:
- 1807年に蝦夷地(北海道)を幕府直轄地とする
- 1825年に「異国船打払令」を出し、外国船を強制排除
5. ラクスマンとレザノフの来航が日本の開国につながる
- ロシアの接近が幕府に圧力を与えた
- イギリスやアメリカも通商を求めるようになり、日本の鎖国政策が揺らぐ
- 最終的にペリー来航(1853年)を経て開国へ
