今回は「毛沢東って何をした人なの?」という疑問に、分かりやすくズバッとお答えします。

毛沢東(もうたくとう)は、20世紀の中国を大きく変えた人物です。一言で言えば「中国の建国者」であり、「大きな功績と問題点の両方を持つ人物」でもあります。その一方で、面白いエピソードもいくつか残っており、ただの“怖い独裁者”というイメージだけでは語りきれません。

今回は「毛沢東が何をしたのか?」を6つの大きなポイントで簡単に解説し、その後にちょっと笑える、でも深い意味があるエピソードを5つ紹介します!

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毛沢東は何した人?簡単にわかる6つの大きな功罪

中国の歴史を大きく動かした毛沢東。良いことも悪いこともたくさんしてきた人物です。この章では、毛沢東が実際にやった6つの大きなことを、簡単にわかりやすく説明していきます。

中華人民共和国の建国者:共産党の勝利と国の誕生

毛沢東がまずやった最大のことは「国を作ったこと」です。彼は、1949年に中国で「中華人民共和国」を建国しました。

当時の中国は、国民党(蒋介石率いる)と共産党が戦っている状態でした。毛沢東は農民たちに「地主の土地を分けてあげるよ!」という土地改革を行い、農村部の人々からの支持を一気に集めました。

そしてついに、共産党が国民党に勝利!蒋介石たちは台湾に逃げ、毛沢東は新しい中国のリーダーとなったのです。つまり、今の中国のスタート地点を作ったのが毛沢東なのです。

「大躍進政策」で大失敗:数千万人の餓死者を出した政策

建国してすぐ、毛沢東は「中国をもっと強くしたい!」と考えました。そこで始めたのが1958年からの「大躍進政策」です。

この政策は、鉄を作るために農村にも鉄工場のようなものを作らせたり、すべての人を人民公社という集団にまとめて働かせたりするものでした。でも、そのやり方がムチャクチャで、農作物の生産が大きく下がってしまったのです。

その結果、なんと1,500万〜5,500万人もの人が飢えで亡くなったと言われています。まさに「失敗に終わった理想の実験」だったのです。

毛沢東は「文化大革命」で国内を大混乱に:1000万人以上が犠牲に

1966年、毛沢東は自分の影響力が弱まってきたことを感じ、「文化大革命」という大きな運動を始めました。

若者たちを「紅衛兵(こうえいへい)」として組織し、反対意見を持つ人や昔の文化・学問などを「古くさいものだ!」として壊し始めたのです。この時期は、先生が攻撃されたり、本や文化財が燃やされたりと、とにかく国内が大混乱でした。

その結果、教育も経済もボロボロになり、犠牲者は1000万人を超えるとも言われています。まさに国を壊しかねない「革命」だったのです。

毛沢東は「思想・詩人」としても影響大:毛沢東語録と詩の数々

毛沢東は「思想家」でもあり、「詩人」でもありました。彼が残した名言や教えは『毛主席語録』としてまとめられ、中国中の人々が暗記するほどでした。紅衛兵たちはこの本をいつも持ち歩き、「毛主席の教えこそすべてだ!」と信じていたのです。

また、毛沢東は詩をとても愛していて、戦争中でも詩を書いていたほど。生涯に50編以上の詩を残しています。政治家としてだけでなく、文学や思想にも大きな影響を与えた人物でした。

英雄?暴君?:現代中国と評価の分かれる存在

毛沢東は中国の中では「建国の父」として崇められる一方で、世界的には「大量虐殺をした独裁者」として批判もされています。

中国共産党は「功績7:過ち3」と評価していますが、欧米などでは「アジアのヒトラー」と呼ばれることも。つまり、毛沢東は「偉大な革命家」と「恐ろしい独裁者」の両方の顔を持つ、まさに賛否が分かれる存在なのです。

毛沢東は何した人か簡単に:面白いエピソード5選

ここからは少し視点を変えて、毛沢東の「ちょっと意外で面白いエピソード」を紹介していきます。偉人にも失敗や人間味あふれる瞬間がたくさんあります。難しそうに見える歴史も、こうした話から入るとグッと親しみがわきますよ!

「物以類聚」の冷や汗事件

1961年、毛沢東が日中友好代表団と会談したときのことです。彼は「物以類聚、人以群分(ぶつはるいをもってあつまり、ひとはぐんをもってわかつ)」という古典の言葉を引用しました。

通訳の劉徳有(りゅう・とくゆう)さんは、この言葉の意味がわからず、場が一瞬ピタッと止まりました。しかし、同席していた廖承志(りょう・しょうし)さんがすぐに「類は友を呼ぶ」と訳して場を和ませてくれました。

このエピソードから分かるのは、毛沢東が中国の古典をとても大切にしていたこと。政治家でありながら、言葉や知識を重んじる「学者肌」の一面があったのです。

紅衛兵にも詩を:革命中も詩作を欠かさなかった理由

文化大革命の最中、国内が大混乱していた中でも、毛沢東は詩を書き続けていました。彼の詩は、単なる文学作品ではなく、思想や信念、戦いへの覚悟が詰まった「メッセージ」だったのです。

紅衛兵たちも毛沢東の詩を読み、そこから勇気や指針を得ていたといいます。
「鉄は火で鍛えられる、人民もまた戦いで鍛えられる」など、彼の詩には常に戦いと前進のイメージが込められていました。

言葉の力を信じていた毛沢東だからこそ、銃や暴力だけではなく、詩という文化の武器を大切にしていたのです。

スズメ駆除運動:生態系破壊で飢饉に拍車

「スズメが農作物を食べるから、敵だ!」そう考えた毛沢東は、スズメを全国で駆除するよう命じました。国民は大真面目にスズメ退治を実施。太鼓を鳴らしてスズメを飛ばせ続け、疲れて落ちたところを捕まえるという方法まで使われました。

結果、スズメがいなくなってしまったことで、逆に害虫が大繁殖。農作物はさらに大被害を受け、大躍進政策の飢饉がさらに悪化することになってしまいました。

自然のバランスを壊すと、どんなに大きな力でもどうにもならなくなる──このエピソードは、自然と向き合う難しさを教えてくれます。

旧日本軍将校に耳を傾けた寛容さ:1956年の驚きの会談

1956年、毛沢東は旧日本軍の元将校たちを中国に招き、意見を求めるという信じられないような行動を取りました。「戦った相手の目線からも、中国の今を見てほしい」という考えで、各地を案内し、現地を視察してもらったのです。

これは、敵だった相手に対しても耳を傾ける、非常に珍しい懐の深さを感じさせます。毛沢東は決して「自分がすべて正しい」とは思っておらず、さまざまな視点を取り入れようとしていたのかもしれません。

敵に敬意を持つ──まさに器の大きいリーダーだったと言えるでしょう。

毛沢東のユーモアと懐の深さ:共産主義批判にも笑顔対応

同じ会談で、団長の遠藤三郎元中将は、毛沢東の目の前で堂々と「共産主義はうまくいかない」と意見を述べました。

多くの指導者であれば激怒するような場面ですが、毛沢東はニコニコと聞いていたそうです。意見の違いがあることを前提に、それでも議論を重ねていく。そんな姿勢が見えた瞬間です。

もちろん、毛沢東が常にこうした対応だったわけではありませんが、このような人間的な一面を知ると、彼の印象も少し変わるのではないでしょうか?

総括:毛沢東は何した人か簡単に解説まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

✅ 毛沢東は何した人?6つのポイントで簡単に解説

  • 中華人民共和国を建国した
     → 1949年、共産党を率いて国民党に勝利し、中国を建国。
  • 「大躍進政策」で経済を混乱させた
     → 無理な生産計画で農業が崩壊し、数千万人が餓死。
  • 「文化大革命」で国内を大混乱にした
     → 知識人・文化財の迫害で、1000万人以上の犠牲者が出た。
  • 思想家・詩人としても活動
     → 『毛主席語録』や多くの詩を残し、思想面でも影響力大。
  • 評価が分かれる人物
     → 中国では英雄扱い、海外では独裁者として批判されることも。

✅ 毛沢東にまつわる面白いエピソード5選

  • 古典引用で通訳が大ピンチ
     → 「物以類聚」を引用し、通訳が意味を理解できず冷や汗。
  • 革命中も詩を書き続けた
     → 詩を「言葉の武器」として使い、思想を広めた。
  • スズメ駆除で生態系が崩壊
     → 害鳥と判断してスズメを駆除、逆に害虫が大繁殖して飢饉悪化。
  • 旧日本軍将校に意見を求めた
     → 敵だった将校を招いて、中国改革の参考にした。
  • 共産主義批判にも笑顔で対応
     → 面と向かって批判されても、怒らず穏やかに聞いた。