インドの歴史に登場する「ムガル帝国」を知っていますか?世界史の授業でもよく出てくる言葉ですが、実際にどんな国だったのかイメージがわかない人も多いかもしれません。
ムガル帝国は、16世紀から19世紀まで続いたイスラーム王朝で、インドを統一した大きな国でした。でも、「どうやって誕生したの?」「なぜ滅亡したの?」といった疑問もありますよね。
そこで今回は、ムガル帝国の歴史や皇帝たちの活躍、そして最後の滅亡までを分かりやすく解説します!
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ムガル帝国とは何か簡単に?歴史や特徴を簡単に解説
ムガル帝国は、インド史の中で最も有名な王朝のひとつです。広大な領土を支配し、強力な皇帝たちが国を統治しました。文化や経済も発展し、多くの人々が豊かに暮らしていた時代です。
では、そのムガル帝国はどのようにして生まれ、どのようにして繁栄していったのでしょうか?
ムガル帝国とは?建国の経緯と発展の歴史
ムガル帝国の始まりは、1526年にさかのぼります。この年、ティムール朝の血を引くバーブルという武将が、インド北部で強い勢力を持っていたロディー朝を倒しました。これが「パーニーパットの戦い」と呼ばれる戦いです。
バーブルは、中央アジア出身の王族で、モンゴル帝国のチンギス・ハンの子孫とも言われています。「ムガル」という名前も「モンゴル」という言葉がなまったものです。
バーブルが作ったムガル帝国は、その後アクバル帝の時代にさらに強くなり、北インド全域を支配する大帝国へと成長しました。
ムガル帝国の最盛期とは?アクバル帝による統治とその功績
ムガル帝国の最盛期を築いたのは、第3代皇帝のアクバル(在位:1556年~1605年)です。彼の統治は「最も賢い皇帝の一人」と評価されるほど優れたものでした。
アクバルは、宗教に対してとても寛容な政策を取りました。インドにはもともとヒンドゥー教を信じる人が多くいましたが、イスラーム教の王朝であるムガル帝国は、彼らに対して公平な政策を行いました。その一例が、ヒンドゥー教徒に課せられていた「人頭税(ジズヤ)」の廃止です。
また、軍隊や政治の仕組みを整え、インドの様々な地域を統治しやすくしました。こうした政策によって、ムガル帝国は強く豊かになり、約50年もの間、アクバルは帝国を発展させ続けました。
ムガル帝国の文化と建築|タージ・マハルやムガル絵画の魅力
ムガル帝国の時代には、インドの文化や芸術も大きく発展しました。その代表例が、タージ・マハルです。

この建物は、アクバルの孫であるシャー・ジャハーン皇帝が、亡くなった最愛の妃ムムターズ・マハルのために建てたお墓です。白い大理石で作られた美しい建築で、今でもインドの象徴となっています。
また、ムガル帝国では「ムガル絵画」と呼ばれる美しい細密画の文化も発展しました。これはペルシア(現在のイラン)から伝わった技術を元に、インド独自のスタイルを加えたものです。
こうした文化の発展は、ムガル帝国がとても豊かな国であったことを示しています。
ムガル帝国の政治体制|マンサブダーリー制と徴税制度とは?
ムガル帝国が長く続いた理由のひとつに、「マンサブダーリー制」という優れた官僚制度があります。
この制度では、皇帝がすべての役人に「マンサブ(官位)」を与え、その地位に応じた土地の管理を任せました。官僚たちは、割り当てられた地域から税を集め、それを国庫に納める仕組みになっていました。
また、徴税制度も整っていて、ザミーンダール(地主)が農民から税を集め、それを国家に納めていました。こうした仕組みのおかげで、ムガル帝国は安定した政治を続けることができました。
ムガル帝国の経済と貿易|インドが世界の工業生産の25%を占めた時代
ムガル帝国の経済は非常に発展していました。特に、インドの綿織物は世界的に有名で、イギリスやオランダとも貿易をしていました。
当時のインドは、世界の工業生産の約25%を占めていたと言われるほど、経済が豊かでした。ムガル帝国は国内の商人たちに貿易を奨励し、多くの外国人がインドに商売にやってくるほどでした。
しかし、この貿易の発展が、後にイギリスの植民地支配を招く原因のひとつにもなっていきます。
ムガル帝国の皇帝たち|誰が支配しなぜ滅亡したのか
ムガル帝国は、多くの優れた皇帝によって統治されました。しかし、その中には失政をしてしまい、帝国を衰退させる皇帝もいました。
では、ムガル帝国の歴代皇帝の特徴と、その終焉について見ていきましょう。
ムガル帝国の皇帝たち|バーブルからアウラングゼーブまでの歴史
ムガル帝国は、バーブルから始まり、アウラングゼーブの時代に最大の領土を持つまで成長しました。
主な皇帝たちを簡単に紹介しましょう。
- バーブル(在位:1526年~1530年)
- パーニーパットの戦いでロディー朝を倒し、ムガル帝国を建国。 - フマーユーン(在位:1530年~1540年、1555年~1556年)
- 一時期スール朝に追われるも、再び帝国を奪還。しかし、その翌年に事故で亡くなる。 - アクバル(在位:1556年~1605年)
- ムガル帝国の最盛期を築いた名君。宗教的寛容策を行い、インド全域を統治。 - ジャハーンギール(在位:1605年~1627年)
- 父アクバルの政策を継承し、文化や経済を発展させる。 - シャー・ジャハーン(在位:1628年~1658年)
- タージ・マハルを建設するも、財政を圧迫。晩年は息子に幽閉される。 - アウラングゼーブ(在位:1658年~1707年)
- 領土を最大に広げるが、非イスラーム教徒への弾圧政策で国内が不安定に。
アウラングゼーブの死後、ムガル帝国は急速に衰退していきました。
ムガル帝国の衰退の原因とは?3つのポイント
アウラングゼーブの死後、ムガル帝国が急速に衰退した理由は、大きく3つあります。
- 宗教政策の失敗
アウラングゼーブは、ヒンドゥー教徒に対する「人頭税(ジズヤ)」を復活させたため、多くの反発を招きました。ヒンドゥー勢力のマラーター王国やシク教徒の反乱が相次ぎ、帝国は次第に弱体化しました。 - 財政の悪化
シャー・ジャハーン時代の豪華な建築事業や、アウラングゼーブの度重なる戦争が原因で、国庫は空になってしまいました。官僚や軍の給料が滞ることで、統治能力が低下しました。 - 地方勢力の台頭
各地の総督(ナワーブ)や地主(ザミーンダール)が次々と独立を宣言し、中央の支配が及ばなくなりました。その結果、ムガル帝国は次第に力を失っていきました。
ムガル帝国はいつ滅亡したのか?インド大反乱と最後の皇帝
ムガル帝国が完全に滅亡したのは、1858年です。このとき、イギリスは正式にムガル帝国を解体し、インドをイギリス直轄の植民地としました。
ムガル帝国の最後の皇帝は、バハードゥル・シャー2世(在位:1837年~1858年)です。彼はもはや名ばかりの存在で、実際の政治はほぼ行っていませんでした。
1857年、インドで「シパーヒーの反乱(インド大反乱)」が起こります。この反乱は、イギリスの植民地支配に対するインド人兵士(シパーヒー)たちの反発がきっかけでした。反乱軍はバハードゥル・シャー2世を担ぎ出しましたが、結局イギリス軍によって鎮圧され、彼は廃位されました。
この反乱を機に、ムガル帝国は完全に滅亡し、インドはイギリスの支配下に置かれることになりました。
ムガル帝国の遺産|現代に残る影響
ムガル帝国が滅びた後も、その影響はインド社会に色濃く残っています。
- インド建築の傑作
タージ・マハルやデリーのレッドフォート(赤い城)など、ムガル帝国の建築は今でも観光名所として有名です。 - 文化や言語への影響
ムガル帝国時代には、ウルドゥー語が発展しました。この言語は、現在のパキスタンの公用語であり、インドでも多くの人が使っています。 - 料理の発展
ムガル帝国の時代に発展した「ムガル料理」は、現在でもインドやパキスタンで人気があります。ビリヤニ(スパイスと米を混ぜた料理)やタンドリーチキンなどは、ムガル帝国の時代に生まれた料理です。
ムガル帝国を覚えるための語呂合わせ&テストのポイント
ムガル帝国に関する歴史のポイントを覚えるために、簡単な語呂合わせを紹介します。
語呂合わせで覚えよう!
- 「ムガルのバブ(バーブル)ロディ(ロディー朝)を倒す」 → バーブルがロディー朝を倒してムガル帝国を建国。
- 「アクバルは悪(アク)くない皇帝」 → アクバルは寛容な政治を行った。
- 「アウラング、アウトな政策で帝国崩壊」 → アウラングゼーブの宗教政策がムガル帝国を衰退させた。
- 「最後はバハードゥル、イギリスに負ける」 → バハードゥル・シャー2世の時にムガル帝国が滅亡。
テストのポイント
- ムガル帝国を建国したのは誰? → バーブル
- ムガル帝国の最盛期を築いたのは? → アクバル帝
- タージ・マハルを建てた皇帝は? → シャー・ジャハーン
- ムガル帝国の最後の皇帝は? → バハードゥル・シャー2世
- ムガル帝国が滅亡した年は? → 1858年
総括:ムガル帝国とは何か簡単に解説まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
1. ムガル帝国の基本情報
- ガル帝国(1526年~1858年)は、インドを支配したイスラーム王朝。
- バーブルがパーニーパットの戦い(1526年)でロディー朝を倒し、建国。
- 「ムガル」は「モンゴル」がなまったもの。
2. ムガル帝国の最盛期
- 第3代アクバル帝(1556年~1605年)が最盛期を築く。
- 宗教的寛容政策を実施し、ヒンドゥー教徒への人頭税(ジズヤ)を廃止。
- 官僚制度(マンサブダーリー制)や徴税制度を整備し、国を発展させる。
3. ムガル帝国の文化と建築
- シャー・ジャハーンがタージ・マハルを建設(1632年~)。
- ムガル絵画(細密画)が発展。
- ウルドゥー語や**ムガル料理(ビリヤニ・タンドリーチキン)**が今も残る。
4. ムガル帝国の衰退と滅亡
- アウラングゼーブ(在位1658年~1707年)が領土を最大に拡大。
- しかし、ヒンドゥー教徒への弾圧政策(人頭税復活)で反発を招き、国内が混乱。
- 財政難・地方勢力の独立が進み、ムガル帝国は次第に弱体化。
- 1857年のインド大反乱(シパーヒーの反乱)で、イギリス軍により鎮圧。
- 1858年にムガル帝国は正式に滅亡、インドはイギリスの直轄植民地に。
5. ムガル帝国の記憶
- タージ・マハルやデリーのレッドフォートなど、建築が今も残る。
- ムガル文化や言語(ウルドゥー語)が、インド・パキスタンに影響を与え続けている。
6. ムガル帝国を覚える語呂合わせ
- 「ムガルのバブ(バーブル)、ロディ(ロディー朝)を倒す」 → 建国
- 「アクバルは悪(アク)くない皇帝」 → 最盛期の名君
- 「アウラング、アウトな政策で帝国崩壊」 → 宗教弾圧で衰退
- 「最後はバハードゥル、イギリスに負ける」 → 滅亡(1858年)