世界史の授業で「南下政策」という言葉を聞いたことがありますか?
ロシアが長い歴史の中で進めてきたこの政策は、戦争や外交の大きな原因になってきました。なぜロシアは南に進もうとしたのでしょうか?そして、その結果はどうなったのでしょう?
この記事では、ロシアの南下政策の目的や歴史、さらには世界に与えた影響について分かりやすく解説していきます。テスト対策にもなるので、ぜひ最後まで読んでみてくださいね!
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南下政策とは?簡単に解説!目的や背景
ロシアの南下政策は、歴史上たびたび登場する重要なテーマです。この政策がなぜ生まれたのか、どのように進められたのかを詳しく見ていきましょう。
南下政策とは?ロシアが進めた拡張政策のこと
南下政策とは、ロシアが南へと領土を拡大しようとした政策のことです。ロシアは国土が広いものの、多くの地域が寒冷地であり、冬には海が凍ってしまうことが多いです。そこで、1年中使える港(不凍港)を求めて南へ進出していきました。
南下政策の対象となったのは、黒海周辺(クリミア半島など)、バルカン半島、中央アジア、極東(満州や朝鮮半島)といった地域です。特に、黒海を経由して地中海へ進出することが目的のひとつでした。
しかし、ロシアの南下政策は、イギリス・フランス・オスマン帝国・日本など、さまざまな国と衝突する原因にもなりました。結果として、戦争や外交問題を引き起こすことになったのです。
南下政策が始まったのはいつ?歴史をさかのぼる
南下政策が始まったのは、17世紀のピョートル大帝の時代です。ピョートル大帝(在位1682-1725年)は、ロシアをヨーロッパの強国にしようと考え、そのためには海へのアクセスが必要だと考えました。最初のターゲットは黒海でしたが、当時そこを支配していたオスマン帝国との戦いに苦しみました。
18世紀にはエカチェリーナ2世(在位1762-1796年)が南下政策を本格化させ、クリミア半島を併合することに成功します。この時期からロシアは黒海の覇権を握ろうとし、オスマン帝国との対立が深まりました。
19世紀に入ると、ロシアはバルカン半島へも進出し、ギリシャ独立戦争(1821-1830年)を支援しました。そして、最終的に第一次世界大戦(1914-1918年)にも影響を与えることになります。
ロシアが南下政策を推進した理由は?不凍港がカギ
ロシアが南下政策を進めた最大の理由は、「不凍港の確保」でした。ロシアは広大な国土を持っていますが、冬になると海が凍ってしまい、貿易や軍事活動が困難になります。これは、経済的にも軍事的にも大きなハンデとなりました。
そこで、ロシアは以下のような戦略を取りました。
- 黒海沿岸に進出し、クリミア半島(セヴァストポリ)を拠点化
- バルカン半島を通じて地中海へ進出
- 極東に進出し、ウラジオストクや旅順を拠点化
このようにして、ロシアは「温暖な海への出口」を求めて南へと進出しました。しかし、これがイギリス・フランス・オスマン帝国・日本などの国々と衝突する原因となったのです。
南下政策がもたらした対立とは?英仏や日本との衝突
ロシアの南下政策は、多くの国々との対立を生みました。特に以下の戦争が重要です。
- クリミア戦争(1853-1856年)
→ イギリス・フランス・オスマン帝国がロシアの南下を阻止。ロシアは敗北し、一時的に南下政策が停滞。 - 露土戦争(1877-1878年)
→ ロシアはオスマン帝国に勝利し、バルカン半島での影響力を拡大。しかし、ベルリン会議(1878年)で列強に阻止される。 - 日露戦争(1904-1905年)
→ 極東に進出したロシアが日本と対立。日本が勝利し、ロシアの南下政策に大きな打撃。
このように、ロシアの南下政策は、しばしば戦争の引き金となりました。
南下政策の影響とは?国際社会に与えた影響を解説
南下政策の影響は、世界の歴史に大きな影響を与えました。
主な影響は以下のとおりです。
- ロシアと西欧列強の対立が深まった
→ 特にイギリス・フランス・オスマン帝国との関係が悪化し、戦争が頻発。 - バルカン半島の民族運動が活発化
→ ロシアの支援を受けたバルカン諸国(セルビア・ギリシャなど)が独立運動を強化。 - 第一次世界大戦の要因になった
→ ロシアの南下政策がヨーロッパのバランスを崩し、戦争の原因の一つになった。 - 冷戦時代にも影響を与えた
→ ソ連(旧ロシア)は冷戦期に南下政策を再開し、アフガニスタン侵攻(1979年)を行った。
このように、南下政策は世界の歴史に長い影響を与えました。
南下政策とは何か簡単に:歴史を時代ごとに解説
南下政策は、時代によって対象地域や戦略が変化していきました。この大見出しでは、ロシアの南下政策がどのように進められたのかを、時代ごとに詳しく見ていきましょう。
17世紀〜18世紀の南下政策|ピョートル大帝とエカチェリーナ2世の戦略
ロシアの南下政策が本格化したのは、17世紀末から18世紀にかけてのことです。この時期、ロシアはオスマン帝国と対立しながら、黒海やバルカン半島への進出を進めました。
ピョートル大帝(在位1682-1725年)の南下政策
- 1696年:ピョートル大帝がオスマン帝国からアゾフ海を占領し、黒海進出の足がかりを作る。
- ロシア海軍を強化し、黒海から地中海へ進出する計画を立てる。
- 北方戦争(1700-1721年)ではスウェーデンと戦い、バルト海沿岸の支配を確立。
エカチェリーナ2世(在位1762-1796年)の南下政策
- 1768-1774年の露土戦争で、オスマン帝国に勝利し、黒海の自由航行権を獲得。
- 1783年:クリミア半島を併合し、ロシアの南下政策を大きく進展させる。
- バルカン半島のスラブ系民族を支援し、ロシアの影響力を拡大。
この時期のロシアの南下政策は、黒海沿岸を中心に行われ、オスマン帝国の衰退を利用した形で成功を収めました。
19世紀の南下政策|クリミア戦争とバルカン半島への影響
19世紀になると、ロシアはさらに黒海からバルカン半島へと影響力を広げようとしました。しかし、これがイギリスやフランスなどの列強と衝突し、戦争へと発展していきます。
クリミア戦争(1853-1856年)
- ロシアがオスマン帝国領のモルダヴィア・ワラキア(現在のルーマニア)に侵攻。
- イギリス・フランス・オスマン帝国の連合軍と衝突。
- セヴァストポリの要塞戦でロシアが敗北し、南下政策は一時的に停滞。
- 1856年のパリ条約で、黒海沿岸の要塞化と軍艦の配備が禁止される。
この戦争でロシアは大きなダメージを受けましたが、南下政策を完全に諦めることはありませんでした。
露土戦争(1877-1878年)
- ロシアが再びオスマン帝国と戦い、バルカン諸国(セルビア・ルーマニア・ブルガリア)の独立を支援。
- 1878年のサン・ステファノ条約でバルカン半島の影響力を拡大するが、イギリス・フランスの反発を受ける。
- 同年のベルリン会議でロシアの影響力が抑えられる。
この時期のロシアの南下政策は、バルカン半島の民族独立運動と結びつき、ヨーロッパの国際関係を大きく揺るがしました。
20世紀前半の南下政策|日露戦争と第一次世界大戦
20世紀に入ると、ロシアの南下政策はバルカン半島だけでなく、極東地域にも広がっていきました。しかし、その結果、日本と衝突することになります。
日露戦争(1904-1905年)
- ロシアが満州や朝鮮半島へ進出し、日本と対立。
- 1904年、日本が旅順を攻撃し、日露戦争が勃発。
- 1905年、日本がロシアに勝利し、ポーツマス条約が結ばれる。
- ロシアは満州の権益を失い、極東での南下政策が大きく後退。
第一次世界大戦(1914-1918年)
- ロシアはバルカン半島のスラブ系国家セルビアを支援し、オーストリアと対立。
- 1914年、サラエボ事件をきっかけに第一次世界大戦が勃発。
- ロシアはドイツ・オーストリアと戦うが、戦争中にロシア革命(1917年)が起こり、南下政策は停滞。
この時期の南下政策は、極東では日本に敗れ、ヨーロッパでは戦争と革命によって頓挫しました。
ソ連時代の南下政策|冷戦下での動き
ロシア帝国が崩壊した後、ソビエト連邦(ソ連)が成立しました。しかし、南下政策はソ連時代も続き、冷戦期には新たな形で展開されました。
ソ連の南下政策の特徴
- トルコやイランへの影響力を強化。
- 1949年、中国の共産化を支援し、極東での影響力を拡大。
- 1979年、アフガニスタン侵攻を行い、南下政策を進めるが、アメリカの支援を受けたアフガニスタン勢力に敗北。
冷戦時代のソ連の南下政策は、資本主義陣営(アメリカ・西ヨーロッパ)との対立という形で進みました。
現代の南下政策|ウクライナ侵攻とその背景
21世紀になっても、ロシアの南下政策は続いています。特に、2014年のクリミア併合と2022年のウクライナ侵攻は、歴史的に見ても南下政策の延長と考えられます。
クリミア併合(2014年)
- ロシアがウクライナのクリミア半島を併合。
- 黒海の軍事拠点を確保し、南下政策を再開。
ウクライナ侵攻(2022年)
- ロシアがウクライナ全土に軍事侵攻。
- 黒海と東ヨーロッパへの影響力を強化する狙い。
これらの出来事は、ロシアの伝統的な南下政策が今も続いていることを示しています。
総括:南下政策とは何かまとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
1. 南下政策の基本概要
- 南下政策とは、ロシアが南へと領土を拡大しようとした政策のこと。
- 主な目的は 不凍港(年間を通じて凍らない港) の確保。
- 影響を受けた地域は 黒海周辺(クリミア半島)、バルカン半島、中央アジア、極東(満州や朝鮮半島) など。
2. 南下政策の始まりと歴史的背景
- 17世紀:ピョートル大帝 の時代に黒海進出を目指し、アゾフ海を占領(1696年)。
- 18世紀:エカチェリーナ2世 の時代にクリミア半島を併合(1783年)、黒海の影響力拡大。
- 19世紀:バルカン半島の独立運動を支援し、オスマン帝国と対立。
3. 19世紀の南下政策と戦争
- クリミア戦争(1853-1856年)
→ イギリス・フランス・オスマン帝国の連合軍がロシアの南下を阻止し、ロシアは敗北。 - 露土戦争(1877-1878年)
→ ロシアは勝利しバルカン半島の影響力を拡大するが、列強によって抑えられる。
4. 20世紀前半の南下政策
- 日露戦争(1904-1905年)
→ 極東(満州・朝鮮半島)で日本と衝突し、日本が勝利。ロシアの南下政策は大きな打撃を受ける。 - 第一次世界大戦(1914-1918年)
→ バルカン半島の民族問題に関与し、戦争勃発の一因となる。
5. ソ連時代の南下政策
- 冷戦期の動き
- トルコ・イランへの影響力拡大
- アフガニスタン侵攻(1979年) でアメリカと対立し、撤退を余儀なくされる。
6. 現代の南下政策
- クリミア併合(2014年)
→ ロシアがウクライナのクリミア半島を併合し、黒海の軍事拠点を確保。 - ウクライナ侵攻(2022年)
→ ロシアがウクライナ全土に軍事侵攻し、黒海・東ヨーロッパへの影響力を強化。