こんにちは!塾長です。

今日は「エカチェリーナ2世」について解説します!ロシアを大きく発展させた彼女は、「女帝エカチェリーナ」とも呼ばれ、歴史に名を残す偉大な人物です。

でも、ネットでは「エカチェリーナ2世は美人だったの?」「どんな逸話があるの?」といった疑問がたくさん出ています。

そこで、今回はエカチェリーナ2世の生涯や逸話、美貌の真相、彼女が行った偉大な功績について、子どもたちにも分かりやすく解説します!

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エカチェリーナ2世の逸話を紹介!美人だった?何をした人か解説

エカチェリーナ2世は、1762年から1796年までロシア帝国を統治した女帝です。彼女はドイツの小さな国の王女でしたが、ロシア皇帝ピョートル3世の妃となり、クーデターを起こして皇帝の座につきました。

その後、ロシアの領土を広げ、文化や教育を発展させるなど、数々の功績を残しました。しかし、美貌については意見が分かれるところ。では、本当に美人だったのか、どんな逸話があるのか、一つずつ見ていきましょう!

エカチェリーナ2世は本当に美人だったのか?肖像画と史実から考察

「エカチェリーナ2世は美人だったの?」という疑問に答えるには、当時の肖像画や記録を見てみるのが一番です。

彼女の肖像画を見ると、気品があり、堂々とした姿が描かれています。しかし、歴史書では「美人とは言えなかった」との記述もあります。

実際、彼女の顔立ちはややゴツゴツしており、現代の美人の基準とは違っていました。しかし、エカチェリーナ2世の魅力は「知性」と「カリスマ性」でした。

彼女はフランス語やロシア語を話し、哲学や政治について深い知識を持っていました。そのため、周囲の人々は彼女のことを「知的な美しさを持つ女性」と評していました。見た目の美しさだけでなく、話し方や考え方、振る舞いが魅力的な女性だったのです。

エカチェリーナ2世の波乱万丈な生涯と逸話の数々

エカチェリーナ2世の人生は、まるでドラマのように波乱万丈です。彼女はもともとロシアの出身ではなく、ドイツの小国で生まれました。しかし、14歳のときにロシア皇太子ピョートル3世と婚約し、ロシアへ渡ります。

ところが、結婚生活は幸せとは言えませんでした。ピョートル3世は幼稚で無関心な夫で、二人の仲は冷え切っていました。

そんな中、エカチェリーナはロシア語を必死に学び、ロシアの貴族や軍人と信頼関係を築いていきます。そして1762年、ついにクーデターを起こし、ピョートル3世を退位させ、自ら皇帝の座につきました。

また、彼女には「愛人が300人いた」という伝説があります。本当に300人もいたのかは分かりませんが、彼女は多くの貴族と親しくなり、政治的なパートナーとしても関係を築いていたことは確かです。

その中でも最も有名なのは、グリゴリー・ポチョムキンという軍人で、彼はエカチェリーナ2世の右腕として活躍しました。

エカチェリーナ2世の政治手腕!何をした人なのか?

エカチェリーナ2世は、ロシアを大きく発展させた政治家でもありました。彼女が行ったことを見てみましょう。

  1. 啓蒙専制君主としての改革
     彼女は、ヴォルテールやディドロといった啓蒙思想家と交流し、合理的な政治を目指しました。しかし、実際には貴族の力を強化し、農民の自由を制限する政策を取ることもありました。
  2. ロシアの領土拡大
     エカチェリーナ2世は、オスマン帝国との戦争に勝ち、黒海沿岸のクリミア半島を獲得しました。さらに、ポーランド分割に関与し、ロシアの領土を大きく広げました。
  3. 農奴制の強化
     当時のロシアは農業が中心でした。彼女は農業を発展させるため、農奴制を維持しました。しかし、農民の反発を招き、「プガチョフの乱」という大規模な反乱が起こりました。
  4. フランス革命への対応
     フランスで革命が起きると、エカチェリーナ2世はこれを脅威と考え、フランス革命を強く非難しました。ロシア国内で同じような革命が起こることを恐れていたのです。
  5. 文化・教育の発展
     エカチェリーナ2世は、ロシアに学校を増やし、女性の教育にも力を入れました。また、エルミタージュ美術館を設立し、ヨーロッパの芸術品を多数集めました。

このように、彼女はロシアを強くしようと様々な政策を打ち出しました。一方で、農奴制を強化したことなど、批判される面もありました。

エカチェリーナ2世と日本の関わり!大黒屋光太夫との歴史的な出会い

エカチェリーナ2世は、日本とも意外な関わりを持っていました。特に有名なのが、日本人漂流民「大黒屋光太夫」との出会いです。

1783年、日本の商船が嵐に遭い、伊勢の船乗りだった大黒屋光太夫らはロシアに漂着しました。彼らはロシア各地を転々としながら生き延び、最終的にペテルブルクへ辿り着きました。そして1791年、エカチェリーナ2世との謁見が実現したのです。

光太夫は、ロシア皇帝の前で日本に帰国したいと訴えました。女帝は彼の境遇を「ベンヤシコ(かわいそうに)」と嘆き、彼の願いを聞き入れることにしました。これにより、光太夫はロシアの使節ラクスマンとともに日本へ帰ることが決まりました。この出来事は、日本とロシアの歴史における重要な交流の一つとして知られています。

エカチェリーナ2世は日本に対し、貿易や外交の窓口を開こうとしましたが、当時の日本は鎖国政策をとっていたため、大きな進展はありませんでした。しかし、この歴史的な出会いは、日本とロシアの関係を考える上で重要な出来事となりました。

エカチェリーナ2世の逸話の後に:功績や名言

エカチェリーナ2世は、ロシアの歴史の中でも特に重要な女帝です。彼女の政治や外交、文化への貢献は大きく、ロシアを近代化へと導きました。しかし、彼女の政策には賛否両論があり、現代でもさまざまな評価がされています。

ここでは、彼女の功績を詳しく解説し、歴史的にどのように評価されているのかを見ていきましょう。

文化・芸術への貢献!エルミタージュ美術館の誕生

エカチェリーナ2世は、美術品の収集にも熱心でした。彼女はヨーロッパから数多くの絵画や彫刻を購入し、それを「エルミタージュ美術館」として公開しました。

この美術館には、レンブラントやルーベンスなどの名画が集められ、現在ではロシアを代表する美術館となっています。彼女は「私は貪欲な収集家だ」と語り、文化を重視する姿勢を見せていました。

また、フランスの啓蒙思想家ヴォルテールやディドロと手紙を交わし、ヨーロッパの文化や思想をロシアに取り入れようとしました。このような活動により、ロシアの文化レベルは大きく向上しました。

エカチェリーナ2世の外交政策

エカチェリーナ2世は、外交面でも大きな成功を収めました。

彼女の外交政策には、次のようなポイントがあります。

  1. クリミア半島の併合
     オスマン帝国との戦争に勝利し、ロシアの南方進出を成功させました。これにより、ロシアは黒海への出口を確保しました。
  2. ポーランド分割
     エカチェリーナ2世は、プロイセンやオーストリアと協力し、ポーランドを3回にわたって分割しました。その結果、ロシアは大きな領土を手に入れました。
  3. 武装中立同盟の提唱
     アメリカ独立戦争中、イギリスの勢力を抑えるために「武装中立同盟」を提唱しました。これにより、ロシアは国際的な影響力を強めました。

このように、エカチェリーナ2世の外交政策は、ロシアの国力を大幅に高めることにつながりました。

エカチェリーナ2世の評価!ロシア史における位置付け

エカチェリーナ2世の評価は、歴史家の間でも意見が分かれます。

肯定的な評価
 彼女はロシアの領土を拡大し、文化や教育を発展させた「偉大な女帝」と評価されています。特に、エルミタージュ美術館の設立や教育改革は、現在のロシアにも影響を与えています。

否定的な評価
 一方で、彼女は農奴制を強化し、貴族の特権を拡大したため、多くの農民が苦しみました。また、フランス革命に対して強硬な姿勢を取り、自由を求める動きを弾圧したことも批判されています。

エカチェリーナ2世の死とその後のロシア帝国

エカチェリーナ2世は、1796年に脳卒中で亡くなりました。彼女の死後、息子のパーヴェル1世が即位しましたが、母親とは異なる政治路線を進めました。

その後のロシアは、ナポレオン戦争を経て19世紀の大国へと成長していきました。エカチェリーナ2世の治世で築かれた国力が、後のロシア帝国の発展につながったと言えます。

エカチェリーナ2世の名言と彼女から学べること

エカチェリーナ2世は、多くの名言を残しています。その中でも特に有名なのが次の言葉です。

「愛国を以て革命と成すならば、まずは私に示しなさい――――――その真なる愛国心を、革命への決心を!」

この言葉から分かるように、彼女は強い信念を持ったリーダーでした。

彼女の生き方から学べることは、「知識と戦略が成功を生む」ということです。彼女は美しさではなく、知性と努力で皇帝の座を勝ち取りました。これは、現代社会でも通じる重要な考え方です。

総括:エカチェリーナ2世の逸話&何をした人かまとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

1. エカチェリーナ2世の基本情報

  • 1762年~1796年のロシア帝国を統治した女帝。
  • ドイツの小国出身で、ロシア皇帝ピョートル3世と結婚。
  • クーデターを起こし、自ら皇帝の座に就く
  • ロシアの領土拡大や文化の発展に貢献し、歴史に名を残した。

2. エカチェリーナ2世は美人だったのか?

  • 肖像画では気品のある女性として描かれている。
  • しかし、「美人ではなかった」という記録もある。
  • 知性やカリスマ性が魅力とされ、話し方や振る舞いで多くの人を魅了。

3. エカチェリーナ2世の波乱万丈な生涯と逸話

  • 幼少期はドイツで育ち、14歳でロシア皇太子ピョートル3世と婚約
  • 夫との関係は冷え切っており、クーデターを起こして退位させる
  • 「愛人が300人いた」という伝説があるが、政治的な関係が多かった。
  • グリゴリー・ポチョムキンは最も信頼したパートナー。

4. エカチェリーナ2世の政治・外交の功績

  • 啓蒙専制君主として改革を推進し、合理的な政治を目指した。
  • オスマン帝国との戦争に勝ち、クリミア半島を獲得
  • ポーランド分割に関与し、ロシアの領土を拡大
  • 農奴制を強化し、プガチョフの乱が発生。
  • フランス革命を非難し、革命の影響を警戒。
  • エルミタージュ美術館を設立し、文化・教育の発展に貢献。

5. エカチェリーナ2世と日本の関わり

  • 日本人漂流民・大黒屋光太夫と謁見し、彼の帰国を許可。
  • ロシア使節ラクスマンを日本へ派遣し、外交の扉を開こうとした。
  • しかし、日本は鎖国中であり、大きな進展はなかった

6. エカチェリーナ2世の死とその後

  • 1796年に脳卒中で死去
  • 息子のパーヴェル1世が即位し、母とは異なる政治を行う
  • その後、ロシアはナポレオン戦争を経て大国へと成長

7. エカチェリーナ2世の名言と学べること

  • 「愛国を以て革命と成すならば、まずは私に示しなさい」
  • 知識と戦略が成功の鍵であり、努力と知性で地位を築いた。
  • 美しさではなく、知性と行動力が重要という教訓を残した。

8. まとめ:エカチェリーナ2世は「知性と政治力でロシアを発展させた女帝」

  • 美貌よりも知性とカリスマ性が評価された人物。
  • ロシアの領土を拡大し、文化・教育を発展させた。
  • 一方で、農奴制の強化など批判される面もあった。
  • 日本との接点も持ち、外交面でも影響を与えた。
  • ロシア史において重要な役割を果たし、歴史に名を刻んだ人物である。