今日は、明治時代に大活躍した井上馨(いのうえかおる)という人物について、とくに「死因」や「亡くなったときのようす」など、最期の瞬間に注目して解説していきます。
ネットでは「井上馨は暗殺されたの?」「何歳で亡くなったの?」といった声も多く見られます。
この記事では、そうした疑問にすべてお答えしますので、最後までじっくり読んでくださいね!
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井上馨の死因は何?何歳で死亡したかや最後の様子
井上馨がどのように亡くなったのか、病名や最後の様子について詳しく知りたい方は多いでしょう。この章では、井上馨の死因や亡くなった年齢、晩年の様子までをわかりやすく解説します。
井上馨の死因は心臓麻痺とされている
まず結論からお伝えします。井上馨の死因は、心臓麻痺(しんぞうまひ)と考えられています。心臓麻痺とは、心臓の働きが急に止まってしまう病気のことです。とても高齢だったため、身体の負担に耐えきれなかったのかもしれません。
ほかにも、脳溢血(のういっけつ)や尿毒症(にょうどくしょう)による皮膚炎といった病気にもかかっていたといわれています。これらの病気が重なって、最終的に心臓に大きな負担がかかったのではないかと考えられています。
つまり、井上馨は暗殺されたのではなく、病気によって自然に亡くなったということですね。
井上馨は何歳で亡くなった?享年79歳・死去の日付も紹介
井上馨が亡くなったのは、1915年(大正4年)9月1日のことです。生まれたのは1836年1月16日ですので、亡くなったときの年齢は79歳(満年齢)になります。
79歳というと、今でも高齢といえる年齢ですが、当時は平均寿命が50歳以下だった時代です。そう考えると、井上馨はとても長生きした人物といえるでしょう。
この年は、第一次世界大戦のさなかで、日本も世界の動きに巻き込まれていた時期でした。そんな時代の中で、井上馨は静かにその生涯を終えたのです。
井上馨の最後の様子は?亡くなる直前の行動や言葉も紹介
井上馨の最後のようすには、ちょっと感動的なお話があります。亡くなる日、彼は静岡の別荘にいて、朝ごはんをしっかり食べたそうです。さらに、自分が育てたメロンを「大正天皇に献上してほしい」と頼んだといいます。
その直後、体調が急変し、午前11時11分に心臓麻痺で亡くなりました。まるで眠るように、静かに息を引き取ったと伝えられています。
このように、亡くなる当日まで頭もはっきりしていて、気配りを忘れない井上馨の姿からは、立派な人格者だったことがよく分かりますね。
脳溢血や尿毒症も発症していた?死因に至るまでの経過を解説
井上馨は、亡くなる2年前の1913年に「脳溢血」で倒れたことがあります。脳の血管が破れてしまう病気で、倒れたあとも左手に麻痺(まひ)が残り、車椅子での生活になったといわれています。
さらに亡くなる1か月前には、尿毒症による皮膚炎を発症しており、皮膚がボロボロと剥がれてしまうようなつらい症状にも見舞われていました。
このように、井上馨はいくつかの重い病気と戦いながらも、最後まで dignified(威厳ある)生活をしていたことがうかがえます。
井上馨は暗殺された?俗論派による襲撃事件との混同に注意
一部の人が「井上馨は暗殺されたのでは?」と思ってしまう理由には、若いころに実際に襲撃された過去があるからです。
1864年、井上馨がまだ30歳のころ、同じ長州藩の「俗論派」という敵対グループに背中や顔をメッタ刺しにされる事件がありました。このときは命が助かったものの、本当に危ない状態だったようです。
このエピソードが印象的だったため、「井上馨=襲撃された人」というイメージが強くなり、最期の死因についても誤解されがちです。しかし、晩年は病気による自然な死であり、暗殺ではありませんので、ここはしっかり覚えておきましょう。
井上馨の死因の後に:どんな人物?明治の元老
ここからは、「井上馨ってどんな人だったの?」「なぜ歴史に名を残しているの?」という疑問にお答えしていきます。
彼の人生や功績を知ることで、どうして彼の死が注目されるのかもよく分かるようになりますよ。
井上馨の生涯を簡単に解説【長州ファイブの一人】
井上馨は、1836年に現在の山口県で生まれました。もともとは農業にも従事していた長州藩の武士の家の出身でした。
若いころから勉強熱心で、藩校の明倫館で学び、やがて政治や外国の学問にも興味を持つようになります。後に「長州ファイブ」と呼ばれる5人のメンバーの一人として、イギリスに密航留学したことでも知られています。
帰国後は明治新政府に参加し、外務大臣や大蔵大臣など重要な役職を歴任。その後も元老として、政府の柱のような存在となっていきました。
尊王攘夷から開国論者へ!イギリス留学と思想の転換点
井上馨は、もともとは外国を排除しようとする「尊王攘夷(そんのうじょうい)」の考えを持っていました。しかし、イギリス留学をきっかけに考えが大きく変わります。
実際に海外を見て、日本との技術や文化の差に驚いた井上馨は、これからは外国と仲良くしながら近代化を進めるべきだと気づいたのです。これがいわゆる「開国論(かいこくろん)」です。
この転換は、のちの日本の近代化にとって非常に重要な流れでした。井上馨は「時代の変化を見極める力」を持っていた人物だったといえるでしょう。
井上馨の功績① 外務大臣としての条約改正と鹿鳴館政策
1885年に初代外務大臣になった井上馨は、まず「不平等条約」の改正に取り組みました。これは江戸時代末期に外国と結ばれた不利な条約のことです。
外国の要人たちに日本を近代国家として認めてもらうため、井上馨は鹿鳴館(ろくめいかん)という洋館を建てて、西洋風の社交の場をつくりました。これが「鹿鳴館外交」とよばれるものです。
舞踏会や音楽会を通じて、文明国としての日本をアピールしようとしたのです。ただし、当時の日本人には西洋のマナーに慣れていない人も多く、国内では「やりすぎだ」という声もありました。
それでも井上馨は、日本の立場を少しでもよくしようと一生懸命だったのです。
井上馨の功績② 渋沢栄一との関係と財政改革の実績
井上馨は、あの渋沢栄一とも深い関係がありました。ふたりは明治政府の大蔵省(おおくらしょう)で一緒に働き、国の財政を支える仕事をしていました。
井上馨が上司、渋沢栄一が部下という立場でしたが、ふたりはとても信頼し合っていました。井上が怒りっぽい性格だったのに対し、渋沢は冷静で、井上の「避雷針」とも呼ばれていたそうです。
その後、井上は渋沢を大蔵大臣にしたいと望みましたが、渋沢は固辞。井上はその想いを尊重し、組閣をあきらめたというエピソードもあります。こうした関係からも、井上馨は人との信頼をとても大切にしていた人物であることが分かりますね。
井上馨はなぜ総理大臣にならなかったのか?拝辞の真相を解説
井上馨ほどの実力者であれば、普通は「総理大臣」になっていてもおかしくありません。しかし実は、彼は大命(たいめい)=総理大臣を任される命令を受けながらも、それを辞退しています。
その理由は、渋沢栄一を大蔵大臣にしたかったけれど、断られたからです。井上は「渋沢がいないなら、自分には組閣はできない」と考えて、総理の座を辞退したのです。
これは、井上馨が自分の力を過信せず、チームワークや人との信頼を重視していた証拠ともいえるでしょう。最後まで「人とのつながり」を大切にした姿勢は、多くの人から尊敬されています。
総括:井上馨の死因まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
✅ 井上馨の死因と最期の様子
- 死因は主に心臓麻痺。脳溢血や尿毒症も併発していた。
- 1915年9月1日に、79歳で静岡の別荘にて死亡。
- 最期の朝、メロンを大正天皇に献上するよう指示した直後に死亡。
- 若い頃、俗論派に襲撃された過去があるため「暗殺説」が混同されがちだが、実際は病死。
✅ 井上馨の人物像と功績
- 山口県出身。長州ファイブの一人としてイギリスに密航留学。
- 尊王攘夷から開国論者へと思想を転換。
- 初代外務大臣として「条約改正」や「鹿鳴館政策」を推進。
- 渋沢栄一と深い信頼関係にあり、大蔵省でともに財政改革を行う。
- 渋沢の入閣辞退により、自らも総理大臣就任を辞退。人間関係を重視する姿勢が際立つ。