明治時代の有名な政治家・大隈重信(おおくま しげのぶ)。

この名前を聞いたことがある人も多いでしょう。実は彼、ある事件によって「右足を切断」するという大けがを負ってしまったのです。

なぜそんなことになったのでしょうか?

その原因や背景、そしてその後の影響について、塾長が分かりやすく解説します!

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大隈重信 右足の真相とは?切断に至った襲撃事件の全貌

大隈重信は、日本の近代化に大きく貢献した政治家であり、またその波乱に満ちた人生でも知られています。特に、彼が右足を切断することになった爆弾事件は、多くの人々に衝撃を与えました。

右足を切断した理由は爆弾による襲撃事件

まず最初に、大隈重信が右足を失った理由は「爆弾による襲撃事件」です。

1889年(明治22年)、当時外務大臣だった大隈重信は、外国との不平等条約を改正しようと努力していました。しかし、その方針に反対する過激な政治団体の元メンバー、来島恒喜(くるしまつねき)という人物が、大隈の馬車めがけて爆弾を投げつけたのです。

爆発によって大隈の右足の骨は砕けてしまい、やむを得ず切断することになりました。この出来事は当時の日本社会に大きな衝撃を与え、新聞でも大きく報道されました。

政治家が命を狙われるというのは今でも怖い話ですが、当時の日本でも非常に深刻な事件だったのです。

襲撃したのは誰?犯人・来島恒喜とはどんな人物?

爆弾を投げた犯人、来島恒喜(くるしまつねき)は、福岡県出身の若者で、政治団体「玄洋社(げんようしゃ)」の元メンバーでした。

彼は、大隈が進めていた条約改正に反対しており、「日本の国益を損なう」と考えていました。そして、自分の行動で政治を変えようと、命がけの犯行に出たのです。

事件後、来島はその場で自ら命を絶ちました。つまり、大隈重信に対するテロ行為は、彼の一人によって計画され、実行されたものでした。来島の行動は、当時の日本に存在していた「過激な愛国心」の象徴ともいえるでしょう。

大隈重信は右足を失っても政治家を続けたの?

はい、大隈重信は右足を失った後も政治活動を続けました。襲撃事件のあと、アメリカ製の義足(ぎそく)を使い、リハビリを重ねながら復帰したのです。義足とは、足の代わりに使う人工の足のことです。

大隈は、片足での生活になっても「民衆のために政治をする」という強い意志を持ち続け、後には内閣総理大臣にまで再び就任します。

その姿は、多くの人々に勇気を与え、「不屈の精神を持つ政治家」として知られるようになったのです。

大隈重信が爆弾犯に見せた驚きの「寛容さ」とは?

事件のあと、大隈重信は驚くほど冷静で、寛容な対応をしました。なんと、犯人の来島恒喜の葬儀に、香典(こうでん)を持たせて自分の側近を参列させたのです。

また、犯人を責めるどころか、「爆弾という文明の利器でやられたのだから本望だ」とまで言ったと伝えられています。

これは、現代の私たちにとっても驚きの対応です。自分を傷つけた相手を許し、敬意を表す姿勢は、「大隈重信の人格の大きさ」を象徴しています。

こうしたエピソードがあるからこそ、彼は「民衆に愛された政治家」として今も語り継がれているのです。

切断された右足はいまどこにあるの?

大隈重信の右足は、事件後にアルコールで保存され、大隈家の自宅で保管されていました。その後、日本赤十字病院、早稲田大学を経て、最終的には生まれ故郷・佐賀県の「龍泰寺(りゅうたいじ)」に移されました。

現在ではホルマリン漬けの状態で、龍泰寺の本堂内に厳重に保管されているといわれています。ただし、一般公開はされていません。以前は年に一度確認されることもあったようですが、現在は非公開です。

義足については、佐賀市の大隈記念館や早稲田大学の資料館で展示されていますので、見に行くこともできますよ。

大隈重信の右足切断が与えた影響とその後の活躍

右足を切断するという大きなけがを負った大隈重信。しかし、それによって政治家としての道が終わったわけではありません。むしろ、この大きな試練を乗り越えたことが、さらに彼の存在感を高めることになったのです。

ここでは、切断後の影響や彼のその後の活躍について詳しく見ていきましょう。

義足の使用とその後のリハビリ生活

右足を失った大隈重信は、すぐにアメリカ製の義足を取り寄せて使用しはじめました。当時の義足は今ほど性能が良くなく、歩くだけでも大変だったそうです。それでも大隈はリハビリを続け、日常生活をこなせるよう努力を重ねました。

この義足にはいくつもの改良が加えられ、大隈の意見が義足の発展に貢献したとも言われています。つまり、彼の経験が「よりよい義足の開発」にもつながっていったのです。足を失っても前向きに生きる姿勢が、多くの人に勇気を与えました。

大隈重信が総理大臣に返り咲いた理由

足を失っても政治の世界から離れなかった大隈重信。1898年にはついに「日本初の政党内閣」の総理大臣に就任しました。

このとき一緒に内閣をつくったのは、かつてのライバル・板垣退助(いたがきたいすけ)です。二人は「隈板内閣(わいはんないかく)」と呼ばれました。

この内閣は残念ながら4か月で終わってしまいましたが、大隈が足の不自由さをものともせず再びトップの座に返り咲いたことは、多くの国民に感動を与えました。右足を切断したからといって、彼の政治家としての力はまったく衰えていなかったのです。

「民衆政治家」として支持された理由

大隈重信は「民衆政治家」として非常に人気がありました。特に、爆弾事件で右足を失ったあとでも、民衆に寄り添う言葉や行動を取り続けたことが、多くの人々の心を動かしました。

例えば、爆弾犯に対しても怒ることなく香典を贈ったことや、自身のけがを「文明の利器にやられたのだから本望」と表現したことなど、その人間性が大きく評価されたのです。

彼の言動からは、相手を許し、前向きに生きようとする姿勢が感じられました。こうした態度が「民衆の味方」というイメージを強くし、支持を集める大きな理由となったのです。

ホルマリン漬けの右足が伝える歴史的意義

大隈重信の切断された右足は、ホルマリンで保存され、今も佐賀県の「龍泰寺(りゅうたいじ)」というお寺で保管されています。これは、ただの医学的な保存ではなく、「歴史的な記録」としての意味もあります。

大隈自身が保存を希望したとも伝えられており、その足は彼の苦難と不屈の精神を今に伝える大切な資料となっています。一般には公開されていませんが、その存在は多くの人に知られており、「大隈重信という人物の生き様」を感じられるシンボルとなっているのです。

大隈重信の生涯から学べること

大隈重信の人生は、困難に直面しても前向きに生き抜いた「挑戦と克服の歴史」そのものです。右足を失っても政治を続けた姿勢、自分を傷つけた犯人を許す広い心、そして教育や近代化にも力を尽くした活動は、今の時代にも通じる大切な教訓を教えてくれます。

とくに子どもたちには、「困難に負けず、自分の信じる道を進むことの大切さ」を学んでほしいですね。大隈重信のように、どんな試練にもめげず、人にやさしく、自分に厳しく生きること。それこそが本当の強さではないでしょうか。

総括:大隈重信が右足を切断した理由まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

  • 大隈重信は爆弾事件により右足を切断する大けがを負った。
  • 事件は1889年、条約改正に反対する来島恒喜によって引き起こされた。
  • 大隈は義足を使い、リハビリを経て政治の世界に復帰し、後に総理大臣に返り咲いた。
  • 犯人を恨まず、香典を持たせて葬儀に参列させるなど、寛容な対応を取った。
  • 切断された右足は現在、佐賀県の龍泰寺にホルマリン漬けで保管されている(非公開)。
  • 義足は早稲田大学や佐賀の大隈記念館で見ることができる。
  • 大隈の寛容さと不屈の精神は「民衆政治家」として今も評価されている。
  • 右足の保存は、歴史的意義を持つ記録として今も語り継がれている。
  • 困難に立ち向かう姿勢や、広い心が多くの人に影響を与えている。