今日は「明治時代の大物政治家」である大隈重信(おおくましげのぶ)と伊藤博文(いとうひろぶみ)の違いについて、子どもにも分かるようにやさしく説明していきますよ。

どちらも日本の近代化を進めたすごい人ですが、じつは性格や考え方、歩んだ道には大きな違いがあるんです。

「何がどう違ったの?」「どっちが何をやったの?」という疑問に答えながら、学校の授業にも役立つ内容をぎゅっとまとめてお届けします。

それでは、一緒に学んでいきましょう!

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大隈重信と伊藤博文の違いを分かりやすく比較

大隈重信と伊藤博文は、どちらも明治時代の日本を作るために働いた有名な政治家です。でも、よく調べてみると、「育ち」「仕事」「考え方」「外国との関わり方」「最後の運命」などに、はっきりした違いがあります。

ここでは、それぞれの違いをポイントごとに紹介していきますよ!

大隈重信と伊藤博文の違いが一目でわかる!比較一覧表

まずは、ふたりの違いをパッと見て分かるように、表でまとめてみました!

比較ポイント大隈重信伊藤博文
出身地佐賀藩(現在の佐賀県)長州藩(現在の山口県)
生まれた年1838年1841年
政治での立場自由民権派、反政府のときもあった藩閥政府の中心人物
海外留学の場所アメリカ・イギリス(長期)イギリス(短期)
有名な実績早稲田大学を作った、政党内閣を実現大日本帝国憲法を作った、初代総理
総理大臣になった回数2回4回
最期自然死(83歳)暗殺される(68歳)

表を見てもらうと分かるように、ふたりは育った場所も違えば、政治のやり方や人生の最後もまったくちがいますね。

伊藤は農民出身で大隈は武士の家出身

まずは育ちから比べてみましょう。

伊藤博文は、もともと農民の家に生まれた人です。でも父が足軽の家に入ったことで「武士」として育てられました。そして吉田松陰の「松下村塾」という塾で学び、すぐれた頭脳を発揮しました。

一方、大隈重信は佐賀藩の中でもけっこう身分の高い武士の家に生まれました。小さいころから中国の書物を読み、特に「英語」に興味をもって外国のことをどんどん学んでいきました。のちには長く外国に住んで学ぶこともしています。

つまり、「下の身分からのしあがった伊藤」と、「エリート武士だった大隈」という違いがあるんです。

伊藤はお上中心で大隈は民の声を重視

次に、政治に対する考え方を比べてみましょう。

伊藤博文は、明治天皇のもとに強い政府を作ることを目指しました。天皇中心の国づくりを大事にして、「大日本帝国憲法」を作ることで、日本を近代国家にしました。「お上(かみ)」、つまり政府や天皇を中心に考えていたのです。

それに対して大隈重信は、もっと「国民の声」を大事にしようとしました。国会を早く開いて、国民が選んだ代表が政治に参加できるようにしたかったのです。そのため、自由民権運動の人たちからも支持され、民の声を重んじるリーダーでした。

このように、「上からの政治」をした伊藤と、「下からの声を聞く」大隈という違いがあるのです。

大隈は長期留学で伊藤は短期で転機

大隈重信と伊藤博文は、どちらも外国で学んだ経験があります。でも、その学び方には大きなちがいがありました。

伊藤博文は、若いころイギリスに半年ほど留学しました。実はそれまで「外国は敵だ!」という考えだったのですが、イギリスを見て「日本もこういう国にしなきゃ」と考えを大きく変えたんです。その後、憲法を作るためにヨーロッパにも行きました。

一方の大隈重信は、もっと長く外国にいたり、たくさんの外国人と交流したりしていました。アメリカやイギリスの制度を深く学び、日本に取り入れようとがんばりました。とくに「議会政治」や「政党の力」が大事だと考えていたのが大隈の特徴です。

つまり、「外国を見て考え方を変えた伊藤」と、「外国の制度を本気で取り入れようとした大隈」の違いがあるのです。

伊藤は暗殺で大隈は長生き

最後に、ふたりの「人生の終わり方」の違いを見てみましょう。

伊藤博文は、68歳のときに外国で暗殺されました。場所は中国のハルビン駅。朝鮮(現在の韓国)に対する日本の政策に反対する人によって命を落としたのです。とても悲しく、そして歴史の中でも大きなできごとでした。

一方の大隈重信は、83歳まで生き、自然に亡くなりました。長生きして、政治の表舞台から引退したあとも、早稲田大学の運営や若者の教育に力を注いでいました。最後まで「未来の日本」のことを考えていた人物だったのです。

ふたりの最後も、「政治の中で命を落とした伊藤」と、「静かに引退して教育に力を入れた大隈」と、大きく違うのです。

大隈重信と伊藤博文の違いの後に:共通点も解説

ここまで違いをたくさん見てきましたが、実はふたりには共通点もあります。だからこそ、明治時代の日本を動かす「両輪(りょうりん)」として大活躍できたのです。

ここでは、共通点や似ているところ、ふたりがそれぞれに日本に残した功績などを解説します!

どちらも「日本の近代化」の中心人物だった

大隈重信も伊藤博文も、「江戸時代から明治時代へ」という大きな時代の変わり目で、日本を近代国家にするために全力で働いた人たちです。

たとえば、伊藤は内閣制度を作り、日本で初めての「総理大臣」になりました。そして憲法をつくり、国のルールを整えました。一方の大隈は、「議会政治」を広めようと努力しました。日本ではじめて「政党内閣」(せいとうないかく)をつくり、政治に新しい風を吹かせたのです。

このように、ふたりとも「新しい日本」を作った立役者なのです。

共通点その1:海外から多くを学んだ留学経験者!

共通点としては、どちらも「外国で学んだ」ことがあげられます。明治時代の初め、日本は西洋に追いつくためにたくさんのことを学ぼうとしていました。その先頭に立っていたのが、このふたり。

伊藤博文はイギリスで文明の進み具合にびっくりして、日本を変えようと決意しました。大隈重信も英語を話し、アメリカやイギリスでの学びを大切にしていました。

「外国から学んで日本をよくしたい!」という気持ちは、どちらも強かったのです。

共通点その2:若いころから国を思って行動していた!

伊藤も大隈も、若いころから「日本をよくしたい」という強い気持ちをもって行動していました。

伊藤は尊王攘夷運動(天皇を尊び外国をしりぞける考え)に参加し、そこから開国に考えを変えるという大きな成長をとげました。大隈は早い時期から海外の制度を取り入れて、日本をもっとよい国にしたいと考えていたのです。

ふたりとも、自分の立場や考えにとらわれず、「国のために何が必要か」を考え続けた立派な人物です。

後の世に残したものの違いとは?大学vs憲法

伊藤博文が作ったのは「大日本帝国憲法」、そして「内閣制度」です。これは日本が「一人前の近代国家」だと世界に示すための大切なステップでした。

大隈重信が残したのは、「政党政治のはじまり」と「早稲田大学」という教育の場です。若者が政治を学び、未来を切りひらく力をつけるための仕組みを作りました。

「国のルールを作った伊藤」と、「未来の人材を育てた大隈」という違いが、ここでもはっきり出ていますね。

今に続く影響

伊藤博文と大隈重信は、どちらも歴史の教科書に出てくる有名人です。それは、今の日本に大きな影響を残したからです。

伊藤がつくった憲法は、のちの日本国憲法にもつながる大事な流れを作りました。政治の中心で長く働き、多くの制度を整えたからこそ、今も「初代総理大臣」として覚えられています。

大隈重信は、政党政治のはじまりや、教育の大切さを伝えた人物です。早稲田大学の創設者として、今も大学では「大隈像」が建っています。

このように、ふたりの思いや行動は、今も日本の社会や政治の中にしっかり生きているのです。

総括:大隈重信と伊藤博文の違いまとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

  • 出身地や身分の違い
     大隈重信は佐賀藩の武士出身、伊藤博文は農民から武士になった出身。
  • 政治的な立場の違い
     伊藤は政府中心の「藩閥政治」を進め、大隈は民衆の声を重視する「政党政治」を推進。
  • 海外経験の違い
     伊藤は短期留学で考えを変えた、大隈は長期留学で制度そのものを導入しようとした。
  • 最期の違い
     伊藤は暗殺されて亡くなり、大隈は83歳で自然死。
  • 主な功績の違い
     伊藤は憲法と内閣制度をつくり、大隈は政党内閣と早稲田大学を設立。
  • 共通点①
     どちらも海外から多くを学び、日本の近代化に貢献。
  • 共通点②
     若い頃から国の将来を真剣に考えて行動していた。
  • 残したものの違い
     伊藤は憲法や制度を、大隈は教育機関と民主的な政治の仕組みを残した。
  • 現代への影響
     伊藤の制度や憲法は日本の基礎となり、大隈の教育と政党政治の考えも現代に受け継がれている。