今回は「元始、女性は太陽であった」という名言で知られる平塚らいてうの最後について、分かりやすく解説していきます。
平塚らいてうは、女性の地位向上のために一生をささげた人物です。ですが、その最期については意外と知られていません。
「死因は何だったの?」
「どこで亡くなったの?」
「お墓はどこにあるの?」
といった疑問を持っている人も多いはずです。
この記事では、平塚らいてうの死因や亡くなったときの様子、そして晩年の活動などをやさしい言葉で紹介します。ぜひ最後まで読んでくださいね。
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平塚らいてうの死因を解説!何歳でどこで亡くなったのか
平塚らいてうは、女性解放運動の先駆者として広く知られていますが、その最期はどのようなものであったのでしょうか。ここでは、彼女の死因やその最期の様子、亡くなった日時について詳しく解説します。
平塚らいてうの死因は胆嚢・胆道がん
平塚らいてうの死因は「胆嚢・胆道がん(たんのう・たんどうがん)」という病気でした。これは、胆汁(たんじゅう)という消化を助ける液体の通り道にできるがんです。お腹の右上のあたりが痛くなったり、黄疸(おうだん)という肌や目が黄色くなる症状が出ることもあります。
らいてうは、東京都渋谷区にある代々木病院に入院して治療を受けていましたが、残念ながら回復することはありませんでした。この病気は進行が早く、発見が遅れると治療が難しくなります。当時の医学では治すことが難しかったのです。
生涯を通じて強い意志で社会と向き合ってきた平塚らいてうですが、病には勝てなかったのですね。
亡くなったのは1971年5月24日:享年85歳
平塚らいてうが亡くなったのは、1971年(昭和46年)5月24日のことです。明治19年(1886年)生まれの彼女は、85歳という長い人生を歩みました。
この日は、彼女の人生の締めくくりの日となり、命日は「らいてう忌(き)」として今も多くの人に覚えられています。85年間の生涯のうち、実に60年以上にわたって女性の地位向上や平和運動に取り組んできた姿は、今の私たちにもたくさんのことを教えてくれます。
明治・大正・昭和と、時代をまたいで生き抜いた平塚らいてうの功績は、本当に偉大だったのです。
最期の様子は病院で静かに息を引き取った
平塚らいてうは、東京都渋谷区の代々木病院で入院生活を送りながら、病と闘っていました。亡くなった時刻は、午後10時36分。自伝『元始、女性は太陽であった』の執筆を続けていた最中で、まさに人生の物語を最後まで綴ろうとしていた矢先のことでした。
病床では口述筆記という方法で原稿を残しており、亡くなる直前まで強い意志を保っていたことが伝えられています。病室は静かで、騒がしい別れではなく、静かな最期だったと言われています。
自分の人生を文字で残すことに情熱を注ぎながら、生涯を終えたその姿は、多くの人の胸を打ちました。
晩年は反戦・平和運動に尽力
平塚らいてうは、年をとってからもじっとしていませんでした。晩年には反戦運動や平和運動に力を入れて活動していました。
とくに有名なのは、1950年にアメリカのダレス特使が来日した際、「非武装国日本女性の講和問題についての希望要項」という声明文を提出したことです。これは、戦争をしない平和な日本を願って書かれたもので、女性の視点からの強いメッセージが込められていました。
また、核兵器反対やベトナム戦争への抗議などにも参加しており、「戦争をなくしたい」という気持ちは最後まで変わらなかったのです。病気で体がつらくなっても、平和を願う気持ちは元気いっぱいだったのですね。
お墓はどこ?平塚らいてうが眠る場所と墓碑の情報
平塚らいてうのお墓は、神奈川県川崎市多摩区にある「春秋苑(しゅんじゅうえん)」という広い墓地にあります。最寄り駅は小田急線の「生田駅」で、駅から歩いていける場所です。
お墓には「奥村家之墓」と刻まれており、夫の奥村博史(おくむらひろし)と一緒に眠っています。この墓石には、らいてう自身の筆跡で書かれた文字が使われていて、彼女の人柄を感じさせるデザインになっています。
きれいに整えられた墓前には、花や香(こう)は置かれていませんが、とても静かで落ち着いた場所です。春には蝶が舞い、まるでらいてうの穏やかな最期を見守っているかのようです。
平塚らいてうの死因の後に:晩年とその背景
ここからは、平塚らいてうの晩年の生活や活動、そして家族との関係や意外な一面について見ていきましょう。社会運動家としての顔だけでなく、一人の女性として、母としての姿にも注目していきますよ。
反戦と非武装を訴えた晩年の活動
戦後の平塚らいてうは、「戦争を二度とくり返してはいけない」と強く思い、反戦と非武装を訴える活動を続けました。中でも有名なのが、1950年に日本へやってきたアメリカのダレス特使に向けて提出した「非武装国日本女性の講和希望要項」です。
これは、「日本はもう戦争をしない国になります。だから平和に向けた条約をしっかりと結んでください」という、女性たちの願いを込めた提案でした。らいてうは筆だけでなく、行動でも平和を求めたのです。
また、アメリカの水爆実験への抗議や、ベトナム戦争反対の声をあげるなど、80歳を過ぎても社会のために働き続けていました。体は年老いても、心はいつまでも「太陽」のように熱かったのです。
成城の自宅や「我等の家」での静かな暮らし
激しい社会運動だけでなく、平塚らいてうは静かな生活も大切にしていました。1930年ごろには東京の成城に家をかまえ、消費組合「我等の家(われらのいえ)」という取り組みをはじめました。
これは、地域の人たちが助け合いながら買い物や生活をする「協同組合」のようなもので、「無駄を減らして、安心できる暮らしをみんなでつくろう」という考えから生まれました。
この組合は、戦後になっても続き、らいてうは健康を損ないながらも会合に顔を出し、若い人たちと交流を深めていました。「新しい女」としての活動とはまた違う、地域に根ざした温かい暮らしぶりがうかがえます。
自伝『元始、女性は太陽であった』執筆中に倒れる
平塚らいてうは、自分の人生や思想を後世に残すために、自伝『元始、女性は太陽であった』の執筆に力を注いでいました。この本には、彼女の考えや経験、時代を切り開いた足跡が記されています。
しかし、執筆中に病気が進行し、ベッドの上で口述筆記をするようになります。つまり、自分の言葉を誰かに話して、それを代わりに書いてもらっていたのです。それでもらいてうは、少しでも多くの言葉を残そうと努力していました。
自伝は残念ながら未完のまま終わってしまいましたが、その一文字一文字には、命の灯が込められているようです。「最後まで自分の信念を語る」——それが、彼女の生き方だったのですね。
族との関係と「奥村らいてう」名義の誕生
平塚らいてうには、5歳年下の画家志望・奥村博史(おくむらひろし)というパートナーがいました。2人は結婚という形ではなく、「事実婚」という選択をして、1914年から一緒に暮らし始めました。
当時はまだ、結婚しないで男女が共に暮らすことは珍しく、社会からの批判もありましたが、らいてうは「女性も自由に生きるべきだ」として、その生き方を貫きました。
そして1941年、息子の奥村敦史(あつぶみ)が軍隊に入るとき、戸籍の関係から「奥村家」に入籍することになります。ここから、法的には「奥村らいてう」という名前になりますが、社会運動では生涯「平塚らいてう」として活動を続けました。
このように、家族を大切にしながらも、自分の名前と信念を持ち続けた姿はとても立派です。
内向的だった意外な一面と家族との温かな交流
「平塚らいてう」と聞くと、大きな声で主張をする元気な女性を想像するかもしれません。でも、実はらいてうは内向的な性格で、子どもの頃から小さな声しか出せなかったそうです。
演説やスピーチが苦手だったため、文章で気持ちを伝える方法を選んだのです。だからこそ『青鞜』や新聞のコラム、自伝など、たくさんの言葉を残したのですね。
また、晩年は孫と一緒に過ごす時間をとても楽しんでいたようです。社会運動家という一面だけでなく、家族思いのおばあちゃんとしてのらいてうも、多くの人に愛されていました。
温かくて、やさしくて、でも強い。そんな平塚らいてうの姿が、今も人々の記憶に残っているのです。
総括:平塚らいてうの死因まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 平塚らいてうの死因は「胆嚢・胆道がん」で、東京都の代々木病院で亡くなった。
- 亡くなった日付は1971年5月24日、享年85歳である。
- 最期は静かに病院で息を引き取ったとされ、自伝を口述筆記で執筆中だった。
- 晩年も反戦・平和運動(非武装国を目指す活動やベトナム戦争反対)に尽力した。
- お墓は神奈川県川崎市の春秋苑で、夫・奥村博史と同じ墓に眠っている。
- 成城の自宅で「我等の家(消費組合)」を立ち上げ、地域活動も行っていた。
- 自伝『元始、女性は太陽であった』を執筆中に病が悪化し、未完となった。
- パートナー奥村博史とは事実婚で、1941年に入籍して「奥村らいてう」名義となる。
- 実は内向的な性格で、演説よりも文章での表現を得意としていた。
- 晩年は家族や孫との交流も大切にし、家庭的な一面もあった。
