今回は「市川房枝(いちかわ ふさえ)」という歴史上のすごい女性について、子どもにも分かりやすく説明していきます。「市川房枝は何をした人?」という疑問を持ったあなたに、しっかり答えていきますね。
市川房枝は、日本で女性が政治に参加できるようにがんばった「女性参政権運動(ふじんさんせいけんうんどう)」の中心人物です。その活動のおかげで、今の私たちが自由に選挙で投票できるようになったのです。
さらに、政治家としても長く活躍し、「クリーンな政治」を目指しました。それではまず、市川房枝がどんなことをした人なのか、順番に見ていきましょう!
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市川房枝は何をした人か簡単に!女性参政権と政治家としての功績
市川房枝は、日本の女性参政権を勝ち取るために尽力した政治家です。彼女の活動は、今の社会における女性の権利向上に大きな影響を与えました。ここでは、市川房枝さんがどのような活動を通じて女性の地位向上を目指したのか、彼女の生涯を分かりやすく紹介します。
女性参政権運動の中心人物!活動内容とは
市川房枝が一番力を入れていたのは、女性にも「選挙に行く権利=参政権(さんせいけん)」を与えてほしい、という運動でした。昔の日本では、男の人しか選挙に参加できなかったんです。
市川は、1919年に平塚らいてうと一緒に「新婦人協会(しんふじんきょうかい)」をつくりました。そして、当時の法律である「治安警察法第5条」という、女性が政治に関わることを禁止するルールを変えてほしいと国に訴えました。
この運動の結果、女性が政治集会に参加できるようになりました。そして戦後の1945年、ついに法律が改正され、女性も投票できるようになったのです。市川房枝の地道な活動が、大きな一歩を生んだんですね。
なぜ女性の地位向上を目指した?原点は母親の言葉
市川房枝が女性のために立ち上がった理由は、子どものころの体験にあります。彼女の母はとてもやさしい人でしたが、お父さんに暴力をふるわれることがよくありました。
そんな母が、市川にこう言ったそうです。「女に生まれたのが因果(いんが)なんだから、しかたがない」と。つまり、「女に生まれただけで苦しまなければいけない」と感じていたのです。
市川はその言葉をずっと忘れず、「女性がもっと自由にならなければいけない」と強く思うようになりました。この思いが、のちの女性参政権運動につながっていったのです。
アメリカで何を学んだ?婦人運動先進国で得たもの
市川は1921年、28歳のときにアメリカへ渡ります。働きながら、婦人運動や労働運動について学びました。そこで出会ったのが、アリス・ポールというアメリカの女性運動のリーダーです。
アリスからは「女性は自分の問題に集中すべき」「いろいろなことを同時にやってはいけない」と厳しく教えられました。市川はこのアドバイスを胸に、日本へ帰国後は「女性の選挙権を取ること」に集中するようになります。
また、アメリカでは「スクールガール」というベビーシッターのような仕事をして生活費を稼ぎながら、小学校に通って英語も学んだそうですよ。とても努力家だったんですね。
参議院議員としても活躍!「金のかからない政治」の実現に尽力
戦後、日本が新しい国づくりを始めると、市川も政治家として立ち上がります。1953年、60歳のときに無所属で参議院議員に初当選し、通算で5回も選ばれました。
市川の政治活動で特に有名なのは、「金のかからない選挙」です。「出たい人より、出したい人を」というスローガンで、国民の代表としてふさわしい人が選ばれるべきだと訴えました。
選挙にかかるお金を減らすことで、誰でも公平に政治に参加できるようにしようと努力したのです。1980年には87歳という高齢で、全国一位の得票数で当選するという快挙を成し遂げました。
なぜ公職追放されたのか?理由と復帰までの道のり
市川は戦争に反対する平和主義者でしたが、戦争中は苦しい選択を迫られました。運動を続けるために、ある程度政府の活動に協力せざるを得なかったのです。
その中には「大日本言論報国会(だいにほんげんろんほうこくかい)」という団体の理事を引き受けたこともありました。戦後、そのことが原因でアメリカのGHQから「戦争協力者」とみなされ、公職から追放されてしまいます。
しかし、多くの人々が署名活動を行い、彼女の復帰を求めました。最終的には3年7ヶ月後に政治活動に復帰します。この間も、市川はあきらめず、女性のために活動を続けていたのです。
市川房枝は何した人か簡単に:結婚・家族・死因
さて、ここからは市川房枝の「人となり」について詳しく見ていきましょう。「市川房枝さんは結婚していたの?」「子どもはいたの?」「どんなふうに亡くなったの?」といった疑問にお答えしていきます。
市川は政治家としてだけでなく、女性として、そして一人の人間としてとても強く生きた人です。彼女の生き方には、現代の私たちにも通じる大切なメッセージがたくさんあります。
市川房枝は結婚していない!独身を貫いた理由とは?
市川房枝は、結婚しないまま生涯を終えました。でも、それは結婚が嫌いだったわけではありません。本人も「独身主義ではない」と話しています。
では、なぜ結婚しなかったのでしょう?
市川が生きた時代は、女性が仕事と家庭を両立するのがとても難しい時代でした。実際に市川は「女性が政治運動をしていると、男の人は寄ってこなかった」とも語っています。
また、婦人運動に全力を注ぐ中で、「結婚よりもやるべきことがある」という強い思いを持っていたのでしょう。自分の信じた道をまっすぐに進んだ、芯のある女性だったのです。
娘や子供はいた?家族構成を調査
市川房枝には、実の子どもや娘はいませんでした。家族構成としては、愛知県の農家の家に生まれ、兄弟姉妹がいたことが知られています。
しかし、政治家としての活動の中で、まるで「家族のようなつながり」を持った人物がいます。それが、後に総理大臣になる菅直人さんです。若いころの菅さんは、市川の選挙で選挙事務長をつとめ、彼女を支えました。
実際には親子ではありませんが、師弟(してい)ともいえる関係で、お互いに大きな影響を与え合っていたのです。
死因は心筋梗塞!亡くなった時の年齢や様子
市川房枝は1981年、87歳で亡くなりました。死因は心筋梗塞(しんきんこうそく)という、心臓の血管が詰まってしまう病気です。
亡くなったのは、なんと参議院議員としてまだ活動していたとき。つまり、最後の最後まで現役で、国のため、女性のために働いていたのです。とても立派で、尊敬すべき生涯ですね。
多くの人が市川の死を悲しみましたが、それ以上に「ありがとう」という感謝の気持ちが広がりました。彼女のがんばりが、日本の今の姿をつくってくれたのです。
名言「権利の上に眠るな」の意味
市川房枝の有名な言葉に「権利の上に眠るな」というものがあります。これは、「持っているだけの権利には意味がない。ちゃんと使わなければダメですよ」という意味です。
たとえば、選挙に行く権利を持っていても、投票しなければ何も変わりませんよね?市川は、女性も男性も「自分の考えを行動にうつすこと」が大事だと考えていました。
この言葉は今でもとても大切です。学校や社会で、自分の意見をきちんと伝えること。世の中のルールや制度をよく知って、しっかりと関わること。そのすべてが「権利を使う」ことなのです。
菅直人の関係は?若き日の秘書が総理になるまでのストーリー
市川さんと深い関係があった人物の一人が、後に日本の総理大臣になった「菅直人(かんなおと)」さんです。菅さんがまだ若かった1970年代、なんと市川さんの選挙事務長をつとめていたのです。
当時、市川さんは高齢で、もう引退を考えていました。でも、若い人たちが「市川さんにもう一度出てほしい!」と声をあげ、その応援にこたえて選挙に立候補。結果、大勝利しました。
この経験が、菅さん自身の政治家としての道をひらくきっかけになりました。市川さんの姿勢や信念は、若い世代にも受けつがれていったのです。
総括:市川房枝は何した人か簡単に解説まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 市川房枝は日本の女性参政権運動の中心人物で、政治家としても活躍した
- 平塚らいてうと「新婦人協会」を設立し、女性が政治活動に参加できる道を開いた
- 幼少期に母の「女に生まれたのが因果」という言葉に衝撃を受け、女性の地位向上を志す
- 渡米してアリス・ポールらから婦人運動を学び、帰国後は女性の選挙権獲得に専念
- 無所属で参議院議員に5期当選し、「金のかからない選挙」を実現しようと努力した
- 戦時中の活動によりGHQから公職追放されるが、3年7ヶ月後に復帰
- 生涯独身を貫き、子どもはいなかったが菅直人とは師弟関係を築いた
- 1981年に87歳で心筋梗塞により死去。亡くなるまで議員として活動していた
- 名言「権利の上に眠るな」は、権利を活用する大切さを伝える言葉
- 若き菅直人の政治家人生の出発点に市川房枝が大きく関わっていた