みなさん、「律令国家」とは何か、きちんと説明できますか?
学校の授業では耳にしたことがあっても、どんな仕組みで、なぜ作られたのか詳しく覚えている人は少ないかもしれません。
でも安心してください!
この記事では、塾長の私が子どもたちでも分かりやすい言葉で、「律令国家」の仕組みや歴史、そしてその理由を丁寧に解説します。
歴史のテストでも役立つポイントをたっぷり盛り込んでいますので、ぜひ一緒に学んでいきましょう!
律令国家とは?概要と基本情報をわかりやすく解説

律令国家とは、今でいう「法治国家」の元祖といえる存在です。7世紀後半の日本で作られ、中国の唐の制度を参考にして設計されました。
この国家体制は、法律(律)と統治の仕組み(令)を用いて、天皇を頂点とする中央集権的な政治体制を整えました。
それでは、具体的にどのようなものだったのか、小見出しごとに詳しく見ていきましょう。
律令国家とは何か?その定義と仕組みを簡単に説明
律令国家とは、「律」と「令」という法律に基づいて運営された国家のことです。
「律」は刑罰や禁止事項を定めたもので、現代の刑法にあたります。「令」は政治のルールや行政の仕組みを定めたもので、現代の民法や行政法に似ています。
これらをもとに、土地や人々をしっかりと管理し、全国を統治するためのルールを作り上げました。この仕組みは、農民一人ひとりの田畑の広さや税金の額までも管理できるように考えられていました。
律令国家は何時代に成立したのか?歴史的背景を解説
律令国家が本格的に成立したのは奈良時代、701年の「大宝律令」が完成したときです。
実はその前から少しずつ準備が進められており、645年の大化の改新がそのきっかけとなりました。この時代、日本は中国や朝鮮半島の国々と関わりが深く、特に中国の唐の制度を学んでいました。
唐の律令制度を参考にしながら、自分たちの国に合った形に改良して作られたのが日本の律令国家です。
律令国家が成立した理由は?その背景にある唐の影響と国内事情
なぜ律令国家を作る必要があったのでしょうか?
それは、日本の統治を効率的に進めるためです。それまでの日本では、豪族たちが自分たちの土地や人々を勝手に支配していました。しかし、これでは国全体をまとめることができず、天皇の権力も弱まってしまいます。
そこで、中国の唐が行っていた律令制度を参考にし、土地や人々を国のものとして管理する仕組みを作り上げたのです。
律令国家の仕組みとは?中央集権と地方行政の体制を詳しく紹介
律令国家の特徴は、天皇を中心とした中央集権の仕組みです。
中央には「二官八省」という役所が置かれました。「二官」とは、神祇官(じんぎかん)と太政官(だじょうかん)のことで、それぞれ神事と政治を担当しました。また、地方には「国」「郡」「里」という区分が設けられ、それぞれ国司、郡司、里長が統治を担いました。
この仕組みにより、中央から地方までしっかりと管理が行き届くようになったのです。
律令国家と律令制の違いとは?わかりやすく整理
律令国家と律令制、言葉は似ていますが意味が少し異なります。
「律令制」は制度そのものを指し、「律令国家」はその制度を使って運営されている国家の形を指します。
たとえば「律令制」というのはルールブックや法律のことですが、「律令国家」はそのルールを使って国を動かしている状態です。この違いを知っておくと、テストの選択問題でも役立ちますよ!
律令国家とは?仕組みとその崩壊の理由

律令国家は、しっかりした仕組みで運営されていましたが、長く続いたわけではありません。平安時代には少しずつその体制が崩れていきました。
ここからは、具体的な仕組みと崩壊の理由について詳しく解説します。
律令国家で重要な役職とその役割を徹底解説
律令国家では、天皇のもとにさまざまな役職が設けられていました。
特に重要だったのが太政官です。太政官の下には八省があり、それぞれが外交、財政、軍事などの分野を担当しました。また、地方では国司が中央から派遣され、地方豪族が郡司や里長となって統治を補助しました。
このように、役職ごとに明確な役割が与えられていたため、効率的な国の運営が可能でした。
律令国家の税制度とは?租・庸・調の仕組みをわかりやすく解説
律令国家の税制度は、人民から公平に税を集める仕組みとして「租・庸・調」がありました。
まず「租」は農地から収穫されたお米の一部を納めるもので、収穫量の約3%が基準でした。「庸」は労働力の提供を意味し、国のために働くことを義務付けられていましたが、その代わりに布や特産品を納めることもできました。
「調」は地方の特産品を納める税で、地域ごとの特色が反映されていました。この制度により、国全体が均一な負担で支えられる仕組みを実現しました。
律令国家が崩壊した理由とは?土地制度や農民負担の変遷を解説
律令国家が崩壊した大きな理由は、税制度の破綻です。
農民に対する負担が大きすぎたため、逃亡者や偽籍(嘘の戸籍登録)が増え、税の徴収が困難になりました。また、土地を国が管理する「公地公民制」も崩れ、私有地である荘園が増加しました。
この結果、国の収入が減り、律令体制を維持することができなくなりました。これが平安時代中期の貴族政治や武士の台頭へとつながっていきます。
律令国家と五畿七道の関係とは?交通網の整備と影響
律令国家の統治を支えた重要な要素の一つが「五畿七道(ごきしちどう)」と呼ばれる行政区分と交通網です。
「五畿」は都とその周辺地域、「七道」は全国を分けた広域エリアで、これらを結ぶために街道が整備されました。この街道は、税の徴収や軍隊の移動、地方から都への物資の輸送などに使われました。
現代の高速道路のような役割を果たしていたのです。このインフラ整備が、日本全体の統治を可能にした鍵といえます。
律令国家の終焉とその後の日本社会への影響
律令国家が終わると、日本は平安時代後期に武士による政治の時代へと移ります。
しかし、律令国家の仕組みや制度の一部は、その後も影響を与え続けました。たとえば、律令国家で作られた行政区分や法の考え方は、後の江戸時代の幕藩体制や現代の県制度にもつながっています。
律令国家が築いた基礎がなければ、今の日本の形はなかったかもしれません。
総括:律令国家とは?何時代?仕組みや成立した理由のまとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 律令国家の概要
- 律令国家とは、「律」(刑罰)と「令」(行政ルール)という法律に基づいて運営された古代日本の国家体制。
- 中国・唐の制度を参考にした中央集権的な法治国家。
- 律令国家の成立時期と背景
- 奈良時代の701年、「大宝律令」の制定により本格的に成立。
- 成立のきっかけは645年の大化の改新で、中国の唐の律令制度をモデルに採用。
- 律令国家成立の理由
- 各地の豪族による土地や人民の支配を国が一元化するため。
- 天皇を中心とした中央集権体制を確立し、効率的な統治を実現するため。
- 律令国家の仕組み
- 中央には「二官八省」、地方には「国・郡・里」という区分を設けて管理。
- 税制度として「租・庸・調」を導入し、人民から公平に税を徴収。
- 「五畿七道」という行政区分と交通網を整備し、効率的な統治を実現。
- 律令国家の崩壊
- 農民負担の増大や土地制度(公地公民制)の崩壊により税収が減少。
- 荘園の拡大とともに中央の支配力が弱まり、貴族政治や武士の台頭へ移行。
- 律令国家の影響
- 日本の行政区分や法制度に影響を与え、江戸時代や現代の制度の基盤を築いた。
- 総括
- 律令国家は、古代日本の中央集権体制の確立に大きく貢献したが、社会的負担の偏りから崩壊に至った。
- 現代日本にもその影響が受け継がれている。