今日は「西面の武士」について、塾長の私が分かりやすく解説していきます。
学校の歴史の授業で「北面の武士」と「西面の武士」って出てきますよね。でも、「どっちが何をしたの?」と混乱してしまう人も多いと思います。
そこで、今回は「西面の武士とは何か?」 を中心に、「北面の武士との違い」 もしっかり説明していきます。
さらに、 歴史のテストでよく出るポイントや 覚えやすい語呂合わせも紹介するので、ぜひ最後まで読んでくださいね!
西面の武士とは?役割や歴史を簡単に解説

鎌倉時代の日本には、天皇や上皇を守るための武士団がいました。その中でも、「西面の武士」 は後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)が作った特別な軍隊です。
でも、なぜ後鳥羽上皇は西面の武士を作ったのでしょうか? どんな役割を持っていたのでしょうか? ここから詳しく見ていきましょう。
西面の武士とは?簡単に解説!
西面の武士とは、鎌倉時代初期に後鳥羽上皇が作った、上皇直属の武士団のことです。名前の由来は 「院御所(いんのごしょ)の西側を守っていたから」 です。
でも、ただの警備隊ではありません。西面の武士は、後鳥羽上皇が鎌倉幕府と戦うために作った軍事組織でした。1200年頃に結成され、有力な御家人(ごけにん)や武士たちが集められました。
しかし、 1221年の「承久の乱(じょうきゅうのらん)」で幕府と戦い、敗北してしまったため、西面の武士は消滅しました。
西面の武士が誕生した背景とは?
後鳥羽上皇が西面の武士を作った理由は、鎌倉幕府の力が強くなりすぎたからです。特に、幕府が「地頭(じとう)」を全国に置いて、土地の支配を広げたことが大きな原因でした。
上皇や朝廷にとって、地頭の影響で自由に税を取ることができなくなったのは大問題でした。「このままでは、天皇や上皇の力がどんどん弱くなってしまう!」と考えた後鳥羽上皇は、幕府に対抗するための軍隊として西面の武士を作ったのです。
また、後鳥羽上皇自身が武芸を好んでいたことも大きな理由です。彼は刀剣を作るほど武芸が好きで、「強い武士を自分のもとに集めたい!」という思いがあったのです。
西面の武士の主な役割とは?
西面の武士の役割は、後鳥羽上皇の護衛だけでなく、戦いのための軍隊としての活動も含まれていました。
西面の武士の主な役割
- 後鳥羽上皇の護衛(普段は院御所の警備を担当)
- 幕府に対抗するための軍事訓練(戦争に備えた準備)
- 朝廷の命令で戦う(特に、幕府に対抗する戦い)
実際に、1219年の「源頼茂(みなもとのよりもち)誅殺事件」では、西面の武士が活躍しました。これは、 幕府とつながりのあった源頼茂を討つための作戦 でした。
このように、西面の武士は「護衛+軍事活動」の両方をこなす、特別な武士団だったのです。
西面の武士の主要なメンバー
西面の武士には、 有名な武士たちも所属していました。その中でも、特に重要なのが次の4人です。
- 河野通政(こうのみちまさ):伊予国(愛媛県)の有力な武士で、後鳥羽上皇の信頼を得ていました。
- 藤原秀康(ふじわらのひでやす):朝廷の重鎮で、西面の武士のリーダー的存在。
- 藤原秀澄(ふじわらのひですみ)、藤原秀能(ふじわらのひでよし):秀康の弟たちで、西面の武士の重要なメンバー。
彼らはみな、後鳥羽上皇のために戦う精鋭の武士でした。
西面の武士はなぜ廃止されたのか
西面の武士が消えた理由は、1221年の「承久の乱」で幕府に敗北したからです。
後鳥羽上皇は、鎌倉幕府を倒すために約17,000人の兵士を集めました。しかし、鎌倉幕府は75,000人もの大軍を送り込み、圧倒的な戦力差で勝利しました。
結果、後鳥羽上皇は隠岐(おき)という島へ流され、西面の武士も完全に解体されてしまったのです。
これによって、朝廷は軍事力を持つことができなくなり、鎌倉幕府の支配が強まったのでした。
西面の武士とは:北面の武士の違い

西面の武士について詳しく理解できたところで、次に気になるのは 「北面の武士との違い」 ですよね。
実は、どちらも「上皇の護衛をする武士団」でしたが、役割やメンバー構成、目的が大きく異なっていました。ここでは、2つの武士団の違いをわかりやすく比較していきます!
北面の武士とは?簡単に解説
北面の武士は、11世紀末の平安時代に白河法皇(しらかわほうおう)が創設した武士団です。
名前の由来は 「院御所の北側を守っていたから」で、西面の武士と同じく、上皇を護衛する役割を持っていました。しかし、西面の武士と比べて戦闘力はそれほど高くなく、貴族なども多く含まれていたのが特徴です。
また、承久の乱(1221年)以降は規模が縮小しましたが、 明治維新(1868年)まで名目上は存続していたと言われています。
北面の武士と西面の武士の違いとは?
北面の武士と西面の武士の違いを表にまとめると、一目でわかりやすいです。
| 項目 | 北面の武士 | 西面の武士 |
|---|---|---|
| 創設者 | 白河法皇 | 後鳥羽上皇 |
| 創設時期 | 11世紀末(平安時代) | 1200年頃(鎌倉時代) |
| 目的 | 僧兵の強訴対応・上皇の護衛 | 幕府に対抗する軍事力 |
| 構成員 | 貴族や武士が混在 | 武士のみ |
| 存続期間 | 明治維新まで(形だけ存続) | 承久の乱後に廃止(1221年) |
つまり、北面の武士は「上皇の側近集団」であり、西面の武士は「戦うための軍事組織」という違いがありました。
北面の武士・西面の武士・滝口の武士の語呂合わせ
歴史のテストでよく出る「北面の武士」「西面の武士」「滝口の武士」の違いを覚えるには、語呂合わせが効果的です!
「滝打たれ来た、シロ最後」
- 滝 → 滝口の武士(宇多天皇が創設)
- 打たれ → 宇多天皇
- 来た → 北面の武士(白河法皇が創設)
- シロ → 白河法皇
- 最後 → 西面の武士(後鳥羽上皇が創設)
- 後 → 後鳥羽上皇
語呂のポイント
- 滝口の武士は最も古く、平安時代に天皇を守るために作られた。
- 北面の武士は白河法皇が、僧兵の強訴に対抗するために作った。
- 西面の武士は、最後に登場し、後鳥羽上皇が幕府と戦うために編成したが、承久の乱で滅んだ。
この語呂を覚えておけば、テストでも迷わず答えられますね!
テストで狙われるポイントと重要用語解説
歴史のテストでは、「西面の武士」「北面の武士」に関する問題がよく出題されます。特に、創設者や目的の違いをしっかり押さえておきましょう!
よく出るテスト問題(○×形式)
✅ (問題1)「北面の武士は後鳥羽上皇によって創設された。」
❌ (答え)× → 正しくは白河法皇。後鳥羽上皇が創設したのは西面の武士。
✅ (問題2)「西面の武士は鎌倉幕府を守るために作られた。」
❌ (答え)× → 西面の武士は幕府に対抗するために作られた。
✅ (問題3)「北面の武士には貴族も含まれていた。」
⭕ (答え)○ → 北面の武士は武士と貴族が混在していたが、西面の武士は武士のみで構成された。
✅ (問題4)「承久の乱の結果、西面の武士は廃止された。」
⭕ (答え)○ → 承久の乱で敗北し、西面の武士は消滅した。
✅ (問題5)「西面の武士は明治時代まで存続した。」
❌ (答え)× → 明治時代まで存続したのは北面の武士(名目上)。西面の武士は承久の乱後に廃止された。
このような問題が出題されやすいので、しっかりチェックしておきましょう!
西面の武士が歴史に与えた影響とは?
西面の武士の登場と消滅は、日本の歴史に大きな影響を与えました。そのポイントを見てみましょう。
- 鎌倉幕府が朝廷の軍事力を抑えた
- 承久の乱で勝利した鎌倉幕府は、朝廷の軍事力を完全に奪いました。
- これにより、幕府が全国を統治する体制が確立しました。
- 朝廷の軍事力がなくなり、武士の時代が強まった
- 西面の武士が滅びたことで、朝廷が軍事組織を持つことができなくなりました。
- その結果、以後の日本は武士の時代へと完全に移行しました。
- 武士の支配が続く時代の始まり
- 承久の乱の後、朝廷は幕府に従うしかなくなりました。
- これが室町幕府・江戸幕府へと続く「武士の時代」の基盤となりました。
西面の武士は短い間しか存在しませんでしたが、日本の歴史を大きく変えた軍事組織だったのです。
総括:西面の武士とは何か簡単に解説のまとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
今回は 「西面の武士とは?」をテーマに、北面の武士との違いも含めて分かりやすく解説しました。
✔ 西面の武士は後鳥羽上皇が作った軍事組織で、幕府と戦うための軍隊だった。
✔ 北面の武士は白河法皇が作った護衛隊で、貴族も含まれていた。
✔ 西面の武士は承久の乱で敗北し、消滅した。
✔ 北面の武士は規模が縮小しながらも、明治時代まで存続した(名目上)。
テストでよく出る内容や語呂合わせも紹介したので、しっかり覚えておきましょう!
