こんにちは、塾長です!

今日は「美濃のマムシ」と呼ばれた戦国武将斎藤道三(さいとう どうさん)の最期について、分かりやすく解説します。

彼の最期は息子との戦いに敗れ、討ち取られるという悲劇的なものでした。

この記事では、道三がなぜ息子の斎藤義龍(さいとう よしたつ)に討たれることになったのか、戦いの経緯や、道三の生涯について詳しく説明します!

斎藤道三の死因は何?息子に討たれた戦の経緯

斎藤道三の死因は、1556年(弘治2年)に息子・義龍との戦い「長良川の戦い」で討死したことです。

それでは、どのような経緯で親子が戦うことになったのか、詳しく見ていきましょう。

斎藤道三の死因は「長良川の戦い」による討死だった

斎藤道三は1556年4月20日、息子・斎藤義龍との戦い「長良川の戦い」で命を落としました。戦場は、美濃(現在の岐阜県)の長良川付近。

この戦いでは、道三軍約2,700人に対し、義龍軍は約17,000人という圧倒的な兵力差がありました。戦いの中で、道三は義龍の家臣・長井道勝(ながい みちかつ)によって討ち取られたと言われています。

戦国時代では、親子や兄弟で争うことも珍しくありませんでしたが、道三と義龍の対立はとても深刻でした。

それでは、なぜ親子で戦うことになったのか、詳しく見ていきましょう。

なぜ息子・斎藤義龍と戦うことになったのか?

親子の戦いが始まった原因は、道三の後継者問題にありました。

道三には何人かの息子がいましたが、彼が特に可愛がっていたのは、義龍ではなく、側室(そくしつ)との間に生まれた弟たちでした。義龍は、道三の正室(せいしつ)の子どもだったものの、「本当の父親は別の人物(美濃の元主君・土岐頼芸)」という噂があり、道三は義龍を冷遇していたとも言われています。

義龍は、父・道三の態度に不満を募らせ、「このままでは弟たちに家督を奪われる!」 と思い、動き出しました。義龍は1555年11月22日、弟の孫四郎(まごしろう)と喜平次(きへいじ)を呼び寄せ、殺害するという衝撃的な行動に出ます。

この事件が道三にも伝えられると、彼はすぐに義龍の討伐を決意。そして、翌年の1556年、親子は長良川で激突することになったのです。

長良川の戦いの戦況と軍勢差

長良川の戦いは、戦う前から義龍の圧倒的有利でした。道三側の兵はわずか2,700人、対する義龍軍は17,000人もの大軍を率いていました。

戦いが始まると、道三は奮戦しますが、多勢に無勢(たせいにぶぜい)。戦局が決まるのは早く、義龍軍が次々と道三の兵を倒し、本陣へ突撃しました。道三は果敢に戦いましたが、ついに力尽き、義龍の家臣・長井道勝によって討ち取られました。

道三の最期については諸説あり、ある伝承では「さすがはわしの子じゃ!」と義龍の武勇を称えたとも言われています。

斎藤道三を討ち取ったのは誰?

道三を討ち取ったのは義龍の家臣・長井道勝だったと伝わっています。また、道三に最初に斬りかかったのは義龍の側近・小牧源太だったとも言われています。

驚くことに、道三の遺体は戦場で鼻を削がれるという扱いを受けたそうです。
これは戦国時代の「戦功(せんこう)」として、敵将の首を持ち帰る際に行われたものでした。道三の首は、義龍の元へと届けられました。

このように、道三は自らの息子が率いる軍勢の手によって、無惨な最期を遂げたのです。

斎藤道三の辞世の句と最期の言葉

戦国武将の中には、死ぬ間際に「辞世の句(じせいのく)」という最後の言葉を残す人がいました。道三も例外ではなく、次の辞世の句を詠んだと言われています。

「捨ててだに この世のほかは なきものを いづくか終(つい)の 住み家なりけん」

この句は、「この世に未練はないが、果たして自分の最後の居場所はどこなのだろうか」という意味です。また、道三は戦いの最中、「さすがはわしの子じゃ!」と義龍の戦いぶりを褒めたとも言われています。

敵対していたとはいえ、最後の最後で義龍の力を認めたのかもしれませんね。

斎藤道三の死因の後に:どんな人物だったのか解説

斎藤道三は、「美濃のマムシ」と呼ばれた戦国武将です。もともとは商人の息子でしたが、頭脳と策略を駆使して美濃の国主にまで上り詰めた人物です。

しかし、その出世の過程では裏切りや謀略を繰り返し、多くの敵を作ったことでも知られています。

ここでは、道三の生涯を詳しく見ていきましょう。

斎藤道三の出身は?商人から武士になった異色の経歴

道三は、もともとは京都の妙覚寺で修行をしていた僧侶(そうりょ)でした。しかし、20歳のころに僧をやめ、油商人として商売を始めます。

特に有名なのが、「一文銭の穴を通して油を注ぐ」というパフォーマンスです。
この技術を披露しながら、道三は商売を広げていきました。

やがて、道三は油商人の娘と結婚し、財を築きます。そして、その財力を使って武士の家に仕官(しかん)し、戦国武将としての道を歩み始めました。

下剋上を繰り返し、美濃の国主にのし上がる

戦国時代は「下剋上(げこくじょう)」の時代でした。これは、「身分の低い者が、実力で上の者を倒す」ことを意味します。

道三は、この下剋上を何度も成功させました。彼はまず、長井家という武士の家に仕え、家中でのし上がります。そして、主君の長井長弘(ながい ながひろ)を謀殺し、長井家の実権を握りました。

その後、道三はさらに美濃の守護代(しゅごだい)・斎藤家を乗っ取り、ついには美濃の国主 となりました。一介の商人だった道三が、美濃を支配するまでになったのです。

しかし、このような急激な出世によって、道三 多くの敵を作ることになりました。そして、最終的には自分の息子に討たれるという結末を迎えたのです。

「美濃のマムシ」と呼ばれた理由

道三には「美濃のマムシ」という異名があります。この呼び名の由来は、道三のずる賢さや策略家としての能力にあります。

マムシは「親を食い殺す」と言われることから、「自分の主君を倒して成り上がった」道三の生き様と重ねられたのです。また、道三は周囲の敵を策略で次々と陥れることで、自分の地位を守ってきました。

しかし、この策略家としてのやり方が 恨みを買いすぎてしまった のも事実です。その結果、最後は息子や家臣たちによって討たれることになったのです。

織田信長との関係は?道三が認めた若きうつけ

道三は、尾張(おわり)の戦国武将・織田信長の義父でした。道三の娘・濃姫(のうひめ)が、信長の正室として嫁いでいたのです。

道三は、最初は信長を「たわけ者(バカ者)」だと思っていました。しかし、実際に会ってみると、信長の本当の才能を見抜きました。

道三は、信長と初めて対面したときにこう言いました。

「うちの息子たちは、やがてあのたわけ者(信長)の門前に馬をつなぐことになるだろう」

これは、「自分の息子たちは、いつか信長に仕えることになるだろう」という意味です。道三は、信長の将来性を見抜いていたのかもしれませんね。

斎藤道三の死後、美濃はどうなった?

道三が討たれた後、美濃の国は息子・義龍が統治しました。しかし、義龍は5年後に病死してしまいます。

その後、義龍の息子・斎藤龍興(さいとう たつおき)が美濃の国主になりますが、彼は父ほどの実力がありませんでした。その結果、美濃は織田信長に攻められ、わずか6年で滅びてしまったのです。

つまり、道三の死後、わずか11年後には、斎藤家は完全に滅亡してしまいました。もし道三が生きていたら、信長とどう戦ったのか、歴史がどう変わっていたのか…と考えると、とても興味深いですね!

総括:斎藤道三の死因まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

死因:1556年「長良川の戦い」で息子・斎藤義龍に討たれた
討った人物:義龍の家臣・長井道勝(または小牧源太とも)
戦いの経緯

  • 道三は側室の子を寵愛し、義龍を冷遇
  • 義龍が弟2人を殺害し、家督争いが激化
  • 義龍軍17,000人 vs. 道三軍2,700人の大差で道三が敗北

辞世の句:「この世に未練はないが、最後の居場所はどこなのか」
美濃のマムシと呼ばれた理由

  • 商人から武士になり、下剋上で美濃国主に
  • 主君を裏切り、策略を駆使してのし上がる
  • その結果、多くの敵を作り、最期は息子に討たれた

織田信長との関係

  • 娘・濃姫を信長に嫁がせた義父
  • 最初は「たわけ者(バカ者)」と思っていたが、才能を見抜いた

死後の美濃

  • 義龍は5年後に病死
  • その息子・斎藤龍興は信長に敗れ、斎藤家は滅亡(道三の死後11年で)

歴史的な意義

  • 戦国時代を代表する「下剋上」の象徴的存在
  • 息子に討たれるという悲劇的な最期を迎えた
  • もし生きていれば、織田信長との戦いがどうなっていたか興味深い