今回は「日本で最後の内乱」と呼ばれる西南戦争(せいなんせんそう)について、みなさんと一緒に分かりやすく学んでいきましょう!

「どうして西郷隆盛(さいごうたかもり)が政府に反乱を起こしたの?」「どんなきっかけがあったの?」「戦争の流れや結末は?」そんな疑問を持つ人も多いと思います。

この記事では、西南戦争のきっかけ・流れ・中心人物・結果までをやさしく、くわしく解説します。テストに出るポイントもおさえているので、しっかり覚えていきましょう!

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西南戦争を分かりやすく解説!きっかけ・原因

西南戦争は、1877年に起こった日本最後の内乱です。この戦争のきっかけとなったのは、明治政府への士族の不満と、西郷隆盛を中心にした一連の出来事です。なぜ、西郷隆盛が戦争に関わることになったのでしょうか?

ここでは、西南戦争が始まった理由をわかりやすく解説します。

西南戦争のきっかけは「不平士族の不満」

まず、西南戦争が始まった一番のきっかけは、明治政府に対する武士(士族)の不満です。江戸時代まで、武士は「えらい身分」として人々をまとめる役割を持っていました。しかし、明治時代になると政府は新しい国づくりのため、士族の特権をなくす改革を次々に行いました。

たとえば「廃藩置県(はいはんちけん)」では、各地の藩をなくして中央でまとめるようにしました。「廃刀令(はいとうれい)」では、刀を持つことも禁止されてしまいました。さらに、お給料のように支給されていた「家禄(かろく)」もなくなり、士族たちは生活に困るようになったのです。

このような政策が進む中で、「自分たちを大切にしない政府に対して怒りを持つ士族」が増えていきました。その中でも、特に不満が大きかったのが鹿児島の士族たちだったのです。

西郷隆盛が挙兵した決定的なきっかけは「暗殺計画」

士族たちの不満が高まる中でも、西郷隆盛は最初、政府に反乱を起こすつもりはありませんでした。西郷さんは鹿児島に「私学校(しがっこう)」という学校を作って、士族の若者たちに学問や武道を教えていたのです。

ところが、政府が西郷さんを「危険な存在」として警戒しはじめたことから、事態は大きく変わります。政府はこっそりと鹿児島の弾薬(だんやく)や武器をほかの場所へ移そうとしたり、西郷さんの暗殺を計画しているといううわさが広まりました。

その情報を聞いた私学校の生徒たちは激怒し、ついに政府の弾薬庫を襲撃してしまいます。これによって、「士族の反乱」が本格的に始まりました。西郷さんもこの流れには逆らえず、やむを得ず挙兵(きょへい)=軍を動かすことを決意したのです。

西南戦争の背景にある「征韓論」敗退と明治6年の政変

実は、西郷隆盛が明治政府を去る大きな理由となった出来事があります。それが「征韓論(せいかんろん)」です。これは、朝鮮に対して日本が武力を使って交渉しようという考えでしたが、西郷さんは「自分が行って礼儀正しく話をすれば、戦争にならずにすむ」と信じていたのです。

ところが、政府内でこの考えが大きく対立します。大久保利通(おおくぼとしみち)や岩倉具視(いわくらともみ)は「今の日本には戦う余裕がない」と考え、西郷の訪朝を止めました。この対立は「明治6年の政変(せいへん)」と呼ばれ、西郷さんは政府を辞めて鹿児島に帰ることになります。

この出来事がきっかけで、西郷さんは政府に対して不信感を抱くようになり、士族たちと共に行動するようになったのです。

士族をまとめた西郷の思想

鹿児島に戻った西郷さんは、「ただ怒るだけではなく、次の世代の若者たちを育てよう」と考え、私学校を設立しました。この学校では、学問だけでなく、武士の礼儀や精神(いわゆる「武士道」)も大切に教えていました。

また、西郷さんは「文武両道(ぶんぶりょうどう)」を重んじ、さらに「農業」まで教えるなど、とてもバランスの取れた教育を行っていたのです。

しかし政府にとっては、西郷のまわりに士族が集まり、軍事訓練まで行っている私学校はとても不安な存在でした。「また戦争が起きるかもしれない」と考えた政府は、火薬の移動やスパイの派遣など、疑いを深めていくことになります。

士族の不満 × 西郷暗殺計画

ここまでの内容を一言でまとめると、西南戦争のきっかけは「士族の不満」×「西郷隆盛への疑い」です。

明治政府の改革によって、士族たちは生活も誇りも失いました。そこに西郷隆盛という大きな存在があらわれ、希望を見いだしたのです。しかし、その西郷を政府が暗殺しようとしたという情報が流れたことで、士族たちの怒りは爆発。結果として、戦争に突き進むことになりました。

この流れを覚えておくと、テストで「西南戦争の原因は何?」と聞かれても安心ですね!

西南戦争を分かりやすく:流れと結果・中心人物をまとめ

西南戦争のきっかけは「士族の不満」と「西郷隆盛への暗殺疑惑」でしたね。では、実際にどのように戦争が始まり、どんな戦いが行われたのでしょうか?そして、誰がこの戦争に関わり、どんな結末を迎えたのか。

ここからは、西南戦争の流れ・結果・中心人物についてしっかりと学んでいきます!

西南戦争のはじまりは「熊本城攻防戦」から!

西南戦争が始まったのは、1877年(明治10年)2月のことです。最初の戦いの場所となったのは、熊本城(くまもとじょう)。このお城は、当時の九州における明治政府の最大の拠点でした。

西郷隆盛ひきいる薩摩軍は、なんと約1万4千人の大軍でした。一方、熊本城を守る政府軍(官軍)はわずか約4千人。数では圧倒的に薩摩軍が有利だったのですが、熊本城は加藤清正(かとうきよまさ)が築いた「難攻不落」のお城。石垣には「武者返し」と呼ばれる登りにくい工夫もされており、薩摩軍はなかなか攻め落とせなかったのです。

結局、熊本城を落とすことはできず、戦いは長引いていくことになります。

西南戦争最大の激戦は「田原坂の戦い」

熊本城を落とせなかった薩摩軍は、熊本への補給路を断とうとします。そこで起きたのが「田原坂(たばるざか)の戦い」です。この戦いは、1877年3月から約17日間も続きました。

この戦いはとても厳しく、政府軍と薩摩軍の両方合わせて約3,000人以上の死者が出たと言われています。とくに政府軍には、会津藩出身の精鋭たちで構成された「抜刀隊(ばっとうたい)」が参加していました。彼らはかつて戊辰戦争で薩摩藩に敗れた恨みもあり、必死で戦ったのです。

最終的に、武器や弾薬の差もあって政府軍が勝利。これによって、薩摩軍は勢いを失い、敗北へと向かっていくことになります。

西郷隆盛の最後「城山での自刃」で戦争は終結

西南戦争の最後の舞台となったのは、西郷隆盛のふるさと鹿児島の城山(しろやま)です。熊本・宮崎での戦いを経て、追い詰められた薩摩軍は鹿児島まで退却します。

1877年9月24日、明け方。ついに政府軍が城山への総攻撃を開始。これを受け、西郷隆盛は「もうここらでよか」(もうこれで十分だ)という言葉を残し、親しい家臣・別府晋介(べっぷしんすけ)に介錯されて命を絶ちました。

この日をもって、日本で最後の内乱「西南戦争」が終わったのです。西郷隆盛、享年51歳でした。

西南戦争の中心人物たちを覚えよう!

西南戦争では、西郷隆盛だけでなく、多くの重要人物が活躍しました。テストでもよく出るので、しっかり覚えておきましょう。

【西郷軍(薩摩軍)】
西郷隆盛(さいごう たかもり):薩摩軍の精神的な中心人物
桐野利秋(きりの としあき):戦術を指揮した西郷の側近
別府晋介(べっぷ しんすけ):西郷の介錯をした家臣
村田新八(むらた しんぱち):熱心な支持者で最後まで戦った

【政府軍(官軍)】
大久保利通(おおくぼ としみち):明治政府の中心人物。戦地には行かず指揮をとった
山県有朋(やまがた ありとも):政府軍を指揮した陸軍のリーダー
川路利良(かわじ としよし):抜刀隊を編成した警察官僚

これらの人物の関係性や役割を覚えておくと、歴史の流れもわかりやすくなりますよ。

西南戦争の結果は「武士の時代の終わり」と「近代国家への一歩」

西南戦争の終わりは、単なる戦争の終了ではありませんでした。この戦争によって、日本における武士(士族)の時代が完全に終わったのです。

明治政府は、この戦争をきっかけに徴兵制(ちょうへいせい)=すべての国民が軍隊に参加する制度を強化し、武士に頼らない軍隊づくりを進めていきます。

また、政府はこれを機に、中央集権化や教育改革など、近代化政策を一気に推し進めることができたのです。つまり、西南戦争は「古い時代が終わり、新しい時代が始まった」大きな転換点となりました。

西郷隆盛の死をもって、日本は本格的に近代国家への道を歩み始めたのです。

総括:西南戦争を分かりやすく解説まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

西南戦争とは?
・1877年に起きた日本最後の内乱
・明治政府に対する士族の不満が原因

きっかけ・原因
・士族の特権が次々と廃止され、生活に困った
・西郷隆盛の暗殺計画のうわさが広がり、士族が政府の弾薬庫を襲撃

背景にあった「征韓論」と明治6年の政変
・西郷は朝鮮との平和的な交渉を望んだが、政府と対立し辞職
・この政変により、西郷は政府への不信を深める

戦争の流れ
・戦いの始まりは熊本城攻防戦
・最大の激戦地は田原坂
・最終的に西郷は城山で自刃し、戦争は終結

中心人物まとめ
【薩摩軍】西郷隆盛、桐野利秋、別府晋介、村田新八
【政府軍】大久保利通、山県有朋、川路利良

西南戦争の結果・意味
・武士の時代が終わり、近代国家への転換点となった
・徴兵制が整備され、国民軍の時代へ